昨年の11月22日に次のように書いた。
私にとっては、「落ち葉」は単なるゴミ。
だが、ダンゴムシにとっては貴重な「食料」。
私は、「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思って「可燃ゴミ」としてわざわざ「市販」の「可燃ゴミ袋」を使って、費用まで払って捨てていたのだ。
「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思ってと書いたが、生まれてこの方何十年ずっとそう思い続けてきた。
下の写真の落ち葉を見ても、どう見たってゴミとしか思えない。
だが、枯れ葉も放置すると多くの人が「ゴミ」と認識するようだ。
下の写真は、さる「国道」の歩道橋脇の枯れ葉。
枯れ葉は、「ゴミ」としてしか認識されていないため、ゴミと枯れ葉が一緒になってそれこそ「ほんとうのゴミ」になっている。
何でこんなことになってしまったのか?
「メインテナンス」がきちんとされていないからだ。
維持・管理。
作るだけ作ってあとはほったらかし。
この歩道橋の上部(人の通路)の排水口は、泥とゴミがつまったまま。
排水口はふさがれて、排水もできない状態になっている。
この状態では、排水口からつながる排水溝もごみだらけで、腐食がすすんでいることが考えられる。
きちんと、維持・管理すれば何十年と使える歩道橋があと数年で落下する危険だってある。
上を歩く人が落下する可能性ばかりでなく、下を走る車に歩道橋が落下する可能性だってある。
それが放置されているのだ。
結果は目に見えている。
しっかり維持・管理すればずっと使えるものが、数年で壊され、作り替えか撤去。
人のことは言えない。
我が家でも、雨樋は枯れ葉で詰まったままだった。
大雨が降ると、雨樋からあふれた雨水が下にびちゃびちゃと落ちる。
たいしたことはないとそのままにしてきた。
維持・管理をしないでほったらかしにしてきたからだ。
しかし、やっと時間ができて雨樋の排水口から詰まった枯れ葉を取り除くことができた。
網をかぶせて、枯れ葉が雨樋に流れ込まないようにすることができた。
維持・管理をするためには時間が必要だ。
そして何より、人間が必要だ。
一昨年の暮れ、京都に旅行した。
そのとき、枯山水で有名な龍安寺に行った。
高校の修学旅行以来だ。
そのときは、有名な枯山水の庭を見て、分かった気だけしていた。
しかし、この寺の本当に見るべきものは何か。
それが再訪したとき分かった。
枯山水の庭は、その前に広がる「庭園」と一対であることに気づいた。
枯山水はいわば「無」
だが、その前の庭園は「有」。
この豊かな「庭」をじっくり見てこそ、「枯山水の庭」の意味が分かる。
この美しい庭園に枯葉があるが、枯葉をゴミとは思わない。
これらの庭園の美しさの対比として、下の石庭がある。
ここに「枯葉」があれば、どうだろう。
美しいと感じるかもしれない。
だが、この石庭は究極の作り物。
人為の極だ。
では、庭園に人手が入っていないかと言えばそんなことは全くない。
人の手がほとんど感じなれないように手が入っている。
田園風景のように。
龍安寺はその美しい庭園をじっくり見てこそ意味がある。
「枯山水の庭」を見て、そこに有の「美しい庭園」を思うところにこの寺の本当の価値があるのだろう。
龍安寺を見て、金閣寺を次に見た。
確かに、金色に光る金閣寺は美しい。
だが、そこでもやはり金閣寺は「庭園」と対になっている。
ちょうど、その庭の枯れ葉掃除をしていたおばさんに、4,5歳の男の子が
「おばさん何をしているの?」
と聞いていた。
「掃除をしているの」
とおばさん。
私はあとを引き継いで、よほど答えようと思ったが遠慮した。
私が答えたかったのは、
「ぼうや、おばさんがこの庭をきれいにしてくれていて、とてもきれいでしょう。
金閣寺もとても美しいでしょう。
でも金閣寺はそれだけで美しいわけではないんだよ。
おばさんが庭をきれいにしてくれているからこそ、金閣寺はいっそう映えて美しいんだよ。
おばさんの前から、ずっと誰かが掃除をし、庭をきれいにしてくれたんだよ。
金閣寺の美しさは、その庭をきれにしてくれる人間のたゆまない努力が込めれた庭と金閣寺が一つになったものなのだよ。
ぼうや、大きくなったらイタリアへ行くといい。
イタリアは国中に京都のような町がたくさんある。
そして、町中に美しい建物と美しい人間の彫刻がある。
美術館にはいきいきした人間を描いたすばらしい絵画がたくさんある。
イタリアでも人間のすばらしさを感じることができるよ・・・」
と。
あの歩道橋には「人間」が感じられない。
私にとっては、「落ち葉」は単なるゴミ。
だが、ダンゴムシにとっては貴重な「食料」。
私は、「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思って「可燃ゴミ」としてわざわざ「市販」の「可燃ゴミ袋」を使って、費用まで払って捨てていたのだ。
「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思ってと書いたが、生まれてこの方何十年ずっとそう思い続けてきた。
下の写真の落ち葉を見ても、どう見たってゴミとしか思えない。
だが、枯れ葉も放置すると多くの人が「ゴミ」と認識するようだ。
下の写真は、さる「国道」の歩道橋脇の枯れ葉。
枯れ葉は、「ゴミ」としてしか認識されていないため、ゴミと枯れ葉が一緒になってそれこそ「ほんとうのゴミ」になっている。
何でこんなことになってしまったのか?
「メインテナンス」がきちんとされていないからだ。
維持・管理。
作るだけ作ってあとはほったらかし。
この歩道橋の上部(人の通路)の排水口は、泥とゴミがつまったまま。
排水口はふさがれて、排水もできない状態になっている。
この状態では、排水口からつながる排水溝もごみだらけで、腐食がすすんでいることが考えられる。
きちんと、維持・管理すれば何十年と使える歩道橋があと数年で落下する危険だってある。
上を歩く人が落下する可能性ばかりでなく、下を走る車に歩道橋が落下する可能性だってある。
それが放置されているのだ。
結果は目に見えている。
しっかり維持・管理すればずっと使えるものが、数年で壊され、作り替えか撤去。
人のことは言えない。
我が家でも、雨樋は枯れ葉で詰まったままだった。
大雨が降ると、雨樋からあふれた雨水が下にびちゃびちゃと落ちる。
たいしたことはないとそのままにしてきた。
維持・管理をしないでほったらかしにしてきたからだ。
しかし、やっと時間ができて雨樋の排水口から詰まった枯れ葉を取り除くことができた。
網をかぶせて、枯れ葉が雨樋に流れ込まないようにすることができた。
維持・管理をするためには時間が必要だ。
そして何より、人間が必要だ。
一昨年の暮れ、京都に旅行した。
そのとき、枯山水で有名な龍安寺に行った。
高校の修学旅行以来だ。
そのときは、有名な枯山水の庭を見て、分かった気だけしていた。
しかし、この寺の本当に見るべきものは何か。
それが再訪したとき分かった。
枯山水の庭は、その前に広がる「庭園」と一対であることに気づいた。
枯山水はいわば「無」
だが、その前の庭園は「有」。
この豊かな「庭」をじっくり見てこそ、「枯山水の庭」の意味が分かる。
この美しい庭園に枯葉があるが、枯葉をゴミとは思わない。
これらの庭園の美しさの対比として、下の石庭がある。
ここに「枯葉」があれば、どうだろう。
美しいと感じるかもしれない。
だが、この石庭は究極の作り物。
人為の極だ。
では、庭園に人手が入っていないかと言えばそんなことは全くない。
人の手がほとんど感じなれないように手が入っている。
田園風景のように。
龍安寺はその美しい庭園をじっくり見てこそ意味がある。
「枯山水の庭」を見て、そこに有の「美しい庭園」を思うところにこの寺の本当の価値があるのだろう。
龍安寺を見て、金閣寺を次に見た。
確かに、金色に光る金閣寺は美しい。
だが、そこでもやはり金閣寺は「庭園」と対になっている。
ちょうど、その庭の枯れ葉掃除をしていたおばさんに、4,5歳の男の子が
「おばさん何をしているの?」
と聞いていた。
「掃除をしているの」
とおばさん。
私はあとを引き継いで、よほど答えようと思ったが遠慮した。
私が答えたかったのは、
「ぼうや、おばさんがこの庭をきれいにしてくれていて、とてもきれいでしょう。
金閣寺もとても美しいでしょう。
でも金閣寺はそれだけで美しいわけではないんだよ。
おばさんが庭をきれいにしてくれているからこそ、金閣寺はいっそう映えて美しいんだよ。
おばさんの前から、ずっと誰かが掃除をし、庭をきれいにしてくれたんだよ。
金閣寺の美しさは、その庭をきれにしてくれる人間のたゆまない努力が込めれた庭と金閣寺が一つになったものなのだよ。
ぼうや、大きくなったらイタリアへ行くといい。
イタリアは国中に京都のような町がたくさんある。
そして、町中に美しい建物と美しい人間の彫刻がある。
美術館にはいきいきした人間を描いたすばらしい絵画がたくさんある。
イタリアでも人間のすばらしさを感じることができるよ・・・」
と。
あの歩道橋には「人間」が感じられない。