リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

単なるゴミ・・・そのままにする「人間」が感じられない歩道橋

2009-01-31 22:53:18 | Weblog
昨年の11月22日に次のように書いた。




私にとっては、「落ち葉」は単なるゴミ。
だが、ダンゴムシにとっては貴重な「食料」。
私は、「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思って「可燃ゴミ」としてわざわざ「市販」の「可燃ゴミ袋」を使って、費用まで払って捨てていたのだ。



「落ち葉」をじゃまな「ゴミ」と勝手に思ってと書いたが、生まれてこの方何十年ずっとそう思い続けてきた。

下の写真の落ち葉を見ても、どう見たってゴミとしか思えない。






だが、枯れ葉も放置すると多くの人が「ゴミ」と認識するようだ。



下の写真は、さる「国道」の歩道橋脇の枯れ葉。

枯れ葉は、「ゴミ」としてしか認識されていないため、ゴミと枯れ葉が一緒になってそれこそ「ほんとうのゴミ」になっている。

何でこんなことになってしまったのか?
「メインテナンス」がきちんとされていないからだ。
維持・管理。
作るだけ作ってあとはほったらかし。

この歩道橋の上部(人の通路)の排水口は、泥とゴミがつまったまま。

排水口はふさがれて、排水もできない状態になっている。
この状態では、排水口からつながる排水溝もごみだらけで、腐食がすすんでいることが考えられる。
きちんと、維持・管理すれば何十年と使える歩道橋があと数年で落下する危険だってある。
上を歩く人が落下する可能性ばかりでなく、下を走る車に歩道橋が落下する可能性だってある。
それが放置されているのだ。

結果は目に見えている。
しっかり維持・管理すればずっと使えるものが、数年で壊され、作り替えか撤去。



人のことは言えない。
我が家でも、雨樋は枯れ葉で詰まったままだった。
大雨が降ると、雨樋からあふれた雨水が下にびちゃびちゃと落ちる。
たいしたことはないとそのままにしてきた。
維持・管理をしないでほったらかしにしてきたからだ。

しかし、やっと時間ができて雨樋の排水口から詰まった枯れ葉を取り除くことができた。
網をかぶせて、枯れ葉が雨樋に流れ込まないようにすることができた。



維持・管理をするためには時間が必要だ。
そして何より、人間が必要だ。



一昨年の暮れ、京都に旅行した。
そのとき、枯山水で有名な龍安寺に行った。

高校の修学旅行以来だ。

そのときは、有名な枯山水の庭を見て、分かった気だけしていた。
しかし、この寺の本当に見るべきものは何か。
それが再訪したとき分かった。

枯山水の庭は、その前に広がる「庭園」と一対であることに気づいた。
枯山水はいわば「無」
だが、その前の庭園は「有」。

この豊かな「庭」をじっくり見てこそ、「枯山水の庭」の意味が分かる。









この美しい庭園に枯葉があるが、枯葉をゴミとは思わない。

これらの庭園の美しさの対比として、下の石庭がある。



ここに「枯葉」があれば、どうだろう。
美しいと感じるかもしれない。
だが、この石庭は究極の作り物。
人為の極だ。

では、庭園に人手が入っていないかと言えばそんなことは全くない。
人の手がほとんど感じなれないように手が入っている。
田園風景のように。

龍安寺はその美しい庭園をじっくり見てこそ意味がある。
「枯山水の庭」を見て、そこに有の「美しい庭園」を思うところにこの寺の本当の価値があるのだろう。



龍安寺を見て、金閣寺を次に見た。
確かに、金色に光る金閣寺は美しい。
だが、そこでもやはり金閣寺は「庭園」と対になっている。



ちょうど、その庭の枯れ葉掃除をしていたおばさんに、4,5歳の男の子が
「おばさん何をしているの?」
と聞いていた。

「掃除をしているの」
とおばさん。
私はあとを引き継いで、よほど答えようと思ったが遠慮した。

私が答えたかったのは、

「ぼうや、おばさんがこの庭をきれいにしてくれていて、とてもきれいでしょう。
金閣寺もとても美しいでしょう。
でも金閣寺はそれだけで美しいわけではないんだよ。
おばさんが庭をきれいにしてくれているからこそ、金閣寺はいっそう映えて美しいんだよ。
おばさんの前から、ずっと誰かが掃除をし、庭をきれいにしてくれたんだよ。
金閣寺の美しさは、その庭をきれにしてくれる人間のたゆまない努力が込めれた庭と金閣寺が一つになったものなのだよ。

 ぼうや、大きくなったらイタリアへ行くといい。
イタリアは国中に京都のような町がたくさんある。
そして、町中に美しい建物と美しい人間の彫刻がある。
美術館にはいきいきした人間を描いたすばらしい絵画がたくさんある。
イタリアでも人間のすばらしさを感じることができるよ・・・」
と。



あの歩道橋には「人間」が感じられない。

ブータンとどこかの国・・・つながるための努力を放棄してきた国

2009-01-10 23:41:57 | Weblog
1月4日のNHKの「小さな旅」を見た。
山形県鶴岡市行沢(なめざわ)の「とちもち」の話だ。
「新年を呼ぶ恵みのとちもち」がタイトル。

行沢では、入会地?(入会地(下記注1:いりあいち)(番組では共有財産といっていた))にあるトチの実を地域の人がみんなで拾って、餅米と一緒にトチ餅をつくという話であった。

入会地では昔(江戸時代)からトチノキを育てているとのこと。
このトチの実を拾って、灰を使ってあくを取り、手数をかけて餅米に入れて独特の風味(苦みがあるとのこと)があるトチ餅を作るそうだ。

この番組を見ていて、驚いたことがある。
それは、山に入って「トチの実」を各人が拾った後、いったん全部を集めて、平等に分け直すというところだ。

「成果主義」になれきってしまっているので、拾った分だけ自分の分というのは「当然」と思っていた。
それなのに、拾ったトチの実全部を全部集めて、平等に分けて再配分する。

よく考えてみると実に合理的であることが理解できる。
なぜなら、拾った分だけ自分の分にしたところで、どうやってそれを処理するのか?
食べきれないトチの実でいっぱいになってもしようがない。
また、灰を使ってあく抜きをするとのことだが、一つ一つ手作業で灰と一緒にこねて処理していくことは、大変な労力である。

さらに、仮に拾った分だけ自分の分という「成果主義」であるなら、そもそも「入会地」ということが成り立たない。
「入会地」は、住民がいわば共同で利用できる「山」である。
それが、「成果主義」になれば、共同で利用することそのものが成り立たなくなる。

そもそも山でトチの実を育ててきたのは、非常事態への備えからであろう。
飢饉や凶作の時、米がなくても「トチの実」を食べてそれこそ「生き残る」ためだと思う。
だから、そのことを忘れないように、行沢では、毎年9月になると「トチの実」を共同で拾って、暮れに「トチ餅」にして食べるのだろう。



一言で言うと、この行沢の「とちもち」づくりは、つながっていくための「知恵」である。

第一に、行沢の人々が共同して、非常事態に備えてトチの実を食べてでも「生き残る」ため。
第二に、「生き残る」ためには「入会地」での「共同」の「トチの実」拾いをして行沢の人々が「つながっていること」を忘れないため。
第三に、「入会地」を共同して作って、手を入れていることを忘れないため。
であろう。



仮に、「成果主義」で個人の「能力」に応じて「トチの実」を「独占」したらどうなるだろうか?
一時はいいかもしれない。
だが、「トチの実」を処理する「灰」はどこから手に入れるのだろう?
有り余った「トチの実」を「市場」で売ったとしても、誰がどうやって「トチの実」を食べられるようにするのだろう?



どこかの国は、「自己責任」「自己責任」と言って、「成果主義」をどんどん広めた。
結果、ピンハネしたお金を「市場」で「投資」して「マネーゲームに興じた」結果が現在の姿だ。
そこには、どこにも「非常事態」に備える準備がない。
「非常事態」に備えて「つながろう」とする意図も感じられない。

感じられるのは、「自己責任」「自己責任」と言って、人間を「分断」する意図だけが感じられる。
行沢のように人間が生き残り、生命が連続することさえ「分断」しようとする意図が感じられる(注4)。
すべての「つながり」を「分断する」意図だけが感じられる。



さっきまで、「世界不思議発見」を見ていた。
「ブータン」(注2)の王様の姿を写していた。


私が、感激したのは、ある女性が、
「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています。だから、私はこの国のために何かできることがあればやりたい」
というような意味のことを話していた。

わざわざ「愛国心」なんてことを「教条」的にいう必要はないのだ。
人々がほんとうにそう(注3)思っていれば、黙っていても人々は「国」にために尽くす気持ちを持つのだ。

それをわざわざ「法律」にせねばならないところに、どこかの国の愚かしさがある。



「自己責任」「自己責任」と言って、どこかの国は「自分の責任は棚にあげて」何もしてこなかった。
そのことが、「世界不思議発見」の「ブータン」を見て、どこかの国の現状と見比べてよく分かった。



注1:入会地

注2:ブータンでは、国民の95%が「幸福」であると感じているという調査結果が2005年に出ていると「世界不思議発見」で言っていた。

注3:どこかの国は、言ってることとやってることが正反対だ。口では、「愛国心」と言いながら、やってることは「成果主義」で「分断」している。もちろん、ここで「そう」思っているとは、「この国(ブータン)には、(医療や教育が無料で)お世話になっています」を指す。

注4:実際、番組であったように勤め人は、「とちもち」を購入して送っていた。