笑顔満つ
煮しめの膳を
分かつ盆
えがおみつ e ga o mi tsu
にしめのぜんを ni shi me no ze n o
わかつぼん wa ka tsu bo n
お盆でみな故郷や親元に集まる時期である。
私と妻は、親戚を尋ねあの世から訪れる先祖にお参りし、ひとときを過ごした。
和の国では、多くの地方でこの時期に盆踊りを行ったり、同窓会を開いたりして、旧交も温める。
迎え盆と言って、祖先の霊を墓まで迎えに行く、しきたりのあるところもある。
わが家でもそれは行っていて、我々生きている者たちは、お盆の期間は故人となった両親や祖先の魂とともに過ごす。
その時、祖先の魂に召し上がりいただくために、故人の好きなものや果物、ご飯、お酒など仏壇にお供えする。
こうした、おもてなしは、故人や祖先だけではなく、仏壇や墓に墓参したこちら側の人間、つまり生きている人間に対してもなされる。
故人や祖先と言った彼岸(死後の世界)にいる人々とこちら側の生きている人間とが、共におもてなしの時期を過ごす。
そのおもてなしでいただいおいしい「煮しめ」を題材に、俳句にした。
煮しめは、煮物のうちつゆがなくなるまで味を食材にしみこませた料理である。
とても、おいしい。
薄味で、ちょっと甘く煮たにんじん、里芋、がんもどきなど最高である。
そうした、おいしいおもてなし料理を彼岸の方たちとこちら側の人間とがお盆の時期共に、食膳を囲む。
故人や祖先の話、近況など話題はいろいろである。
孫がいれば話題の中心となるから、みな笑顔になる。
そんな光景を描いたのが、最初の句である。
私は、お盆はそうした生者も死者も関係なく、生者も死者も共に盆の時期に「また出会えたことを喜ぶお祭り」だと思っている。
死者がよみがえるのかと誤解を招くので、少し説明する。
あなたの「生」がある限り、「あなたの思う死者」はあなたの心の中に存在する。
もちろん、現世に生きている人間もあなたの心の中に存在する。
その意味で、生者が集うことは、生者だけでなくあなたの心の中の死者も出会っていると言える。
それが、お盆なのである。
その意味で、全ての人間が存在しなくなるとしたら、それは人類が1人もいなくなった時であろう。
しかし、たとえ核戦争や小惑星の地球への衝突なので人類が絶滅しても、この美しい太陽系の惑星は存在し続けるだろう。
この美しい地球では、ずっと植物と昆虫が主人公であり続けるだろう。
今でも、実際昆虫の質量(重さ)のほうが、人類すべての質量をはるかに上回っている。
人類が地球の主人公と思っているのは、我々の勝手な思い込みに過ぎない。
ひよっとして、人類が絶滅した後、昆虫が進化して、考古学を極め、昔人類が存在したことを「学会」で発表し、その存在を新たな「記憶」としてとどめるかも知れない。
何十万年か何百万年か何億年か先に、
バッタが、
「目を細め フレッシュレタスを 分かつ盆」
めをほそめ ふれっしゅれたすを わかつぼん
me o ho so me fu re sshu re ta su o wa ka tsu bo n
と俳句を詠んでいるかもしれない。
(^J^)
和の国の「お盆」は、人類の生と死を考える素晴らしい機会でもある。
余録
ひょっとすると、バッタなど昆虫は現在でも人類よりも進化しているのかも知れない!
穀物つまり米や麦やとうもろこしが増産でき、豊かになったと思っている人類を、その方向へ向かわせているのも、昆虫なのかもしれない?
実際、農耕するアリも存在するし。
この星で人類をコントロールしているのは、実のところ昆虫なのかも知れない。
人類が勝手に「この星の王」と勘違いするように仕向けているのは、実は昆虫で、人類は実際には昆虫に「飼育」されているのかも知れない。
ミツバチが存在しなければ、多くの果実は実をつけないし、バッタが大量発生したら、アフリカでは人類は、穀物をはじめ食料にありつけなくなる。
おいしいレタスや米・麦など穀物を人類が苦労して栽培すれば、初めにおいしくいただくのは、バッタや蝶である。
人類を生み出し、「飼育」しているのは、昆虫かもしれない。
そして今、人類がダメなら別の手を使おうかと考えているのかもしれない。
人類でなく、「別の種」を飼育しようかと。
最近は、ビルの中で野菜まで隔離してつくってしまい、我々昆虫の思うとおりにならないから。
(^J^)