前回、鎖国がもたらした不幸について書いた。
つまり、鎖国が情報の集積と拡散を阻んだことによって、革新が制限され、そのためにこの国は、その代償を今まで支払い続けているということを書いた。
革新が生まれないのは、そもそも情報がないことが大きい。
また、経験値がないことも大きい。
そして、最も重要なことであるが、物事を論理的かつ科学的に考えていくという訓練がされていないことが大きい。
サッチャー氏を映画化した「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」を見ると、英国議会の場面が出てくる。
この場面だけを見ても、この映画は価値があると思っている。
何が言いたいのか?
英国議会の徹底した討論である。
現実には、それだけで決まらないところは多々あると思うが、問題に対して相手を説得できるかどうかが、きわめて重要であると言うことが分かる。
それと比べるとどこかの国の国会は、きわめて幼い。
冷静かつ論理的かつ科学的に議論していない。
どうして、そういう結論又は主張になるかが理解できないから。
こうなってしまったのには、訳があると考えている。
黒船来航以来、我が国民はパニックに陥ってしまい、未だにそこから抜け出られないのだ。
時代を当時に移す。
<黒船が来港した当時>
黒船つまり鋼鉄船がどうして浮くか考えられなかったから、吉田松陰はじめ当時の日本人はみな驚いた。
その様子は、当時の有名な川柳にもうかがわれる。
「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たつた四はいで夜も眠れず」 *上喜撰=お茶
たった4隻で夜も眠れなくなってしまったのだ。
現代で言えば、なぜ旅客機が飛ぶのか、理解できない人は飛行機に乗るのをためらう。
科学的につまり論理的に考えなければ、なぜ空中に浮くのか理解できないから、搭乗するのをためらうものと思われる。
当時の黒船つまり鋼鉄船では、何故、鉄が水に浮くのか理解出来ないから、ただただびっくりしてしまったのだろう。
何故、鉄が空中に浮くのか。
何故、鉄が水に浮くのか。
現代では、直感的には理解できないことでも、論理的にかつ科学的に考えれば理解できる。
しかし、江戸時代の日本人の多くは、あまりにも突然、黒船つまり鋼鉄船が現れたので、思考停止に陥ってしまった。
悪く言えば、これよりずっと思考停止に陥ってしまったのではないかと思うほどだ。
論理的かつ科学的に考える「情報」も「訓練」も「素養」もなかったのだから、仕方がない。
しかし、明治維新以後、真剣にこうした論理的かつ科学的に考える「訓練」を行った形跡がない。
大学を見れば分かる。
こうしたことがちっとも訓練されていない。
やってきたことは、ただ単に「情報」を仕入れることだけだ。
そんな大学を出ているから、社会で自分の考えを冷静かつ論理的かつ科学的に説明できない。
国会が全てを物語っている。
嘘だと思ったら、映画「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」をごらんになることをお勧めする。
自分の考えていることを、冷静かつ論理的かつ科学的に議員に説明できない人が、どうして諸外国と交渉できるのか?
自分のポリシー(政策)を、冷静かつ論理的かつ科学的に、相手が納得するまで説明できない人が、どうして国民を説得できるのか?
よく分かると思う。
しかし、そんな中で曙光が見えてきた。
2012年12月27日の朝日新聞の記事である。
「東通に活断層」維持
東北電の反論を否定
原子力規制委員会
と題する、5段の記事である。
リードに、「東北電は問題の断層が活断層である可能性を否定したが、(原子力規制委員会の)評価会合は根拠が薄いと判断、従来通り活断層の可能性が高いとの見解をまとめることに決めた。」
とある。
問題は、その過程なのだが、本文を読んでいくと、
前回の評価会合で、専門家らは活断層の可能性が高いと判断したが、東北電力の反論を聞いた。
それによると、地表近くでは地層がずれて活断層のように見えるが、地下深部では岩石のように固まっていると主張した。
それに対して、専門家らは、
(1) 活断層の末端では地下深部が固結している場合もある
(2) 活動度が低い横ずれ断層は地形に明瞭には表れない
(3) これほどの規模のずれが膨潤で起きた例は国際的にもほとんどない
と指摘したが、東北電力は明確な再反論ができなかった
とのことである。
規制委員会の島崎委員長代理は「敷地内に活断層があると我々は考えている」と明確に述べる一方、
東通原発に限らず、敷地内の断層が活断層である可能性が指摘されている原発について、電力会社は今後、その可能性がないことを科学的に示すべきだとの考えを示した。
としている。
この記事は、原子力規制委員会の会合での討論が、きわめて科学的かつ論理的かつ冷静に行われていることが我々に分かる。
科学的かつ論理的かつ妥当な「反論」ができるならば、電力会社側の主張が通るし、そうでなければ、通らないというきわめて明確な「結果」が示されている。
科学的だから、誰が何回同じことを繰り返しても同じ結論になる。
でなければ、それは科学的ではない。
また論理的でもない。
私たちが知りたいのは、こういう情報なのだ。
映画「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」をご覧になると、英国議会はこうしたプロセスを不断に繰り返して努力していることが見て取れる。
論理的かつ、科学的かつ、冷静な議論から導き出された結論には、誰もが納得できる。
「太平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)たつた四はいで夜も眠れず」
は、もう二度と繰り返してほしくないと願うのは私だけだろうか?
今年もご愛読いただきありがとうございました。
来年は、健康や旅のことなども取り上げていきたいと思っています。
皆さん、よいお年をお迎えください。