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[歴史] Cau Hoang 説 追記9/15

2007年09月15日 | 歴史辞書
このところ頭を離れない謎の遺跡
今日フエのベトナム人たちから新たな意見が出た

『あれはCo Hoan(♀) じゃなくて Cau Hoang(♂)の墓だよ』

え??Cau Hoang(♂) って誰?

『Cau Hoang とはNguyen Hoang だよ』

え? Nguyen Thi Hoan じゃないの??

例の辞書で調べてみました

Nguyen Hoang 1525 - 1613

NGUYEN HOANG はNGUYEN KIM の2番目の息子で末っ子
Thong Nguyen 4 (26-9-1525)旧暦8月10日酉年生まれ。
Hoang Dinh 14(20-7-1613)旧暦丑年6月3日没。
当初、Quang Tri省Hai Lang(海丘)村Thach Han山に埋葬し、その後現在はフエし省Huong Tra県La Khe村にあるKhai Vanと呼ばれるかつてのLa Khe山に改葬した。丘の名前はTrung Co(広く展望の良い丘)。Nha Le tang thuy Cung Y.(眠る家を贈った?)。tuoc Can Nghia cong,象眼細工の意味の爵位(?)、またquan ton thuy Can Nghia Dat Li Hien Ung Chieu Huu Dieu Linh Gia Du vuong;(この王を象徴する美辞麗句らしい)、王と自称するNGUYEN PHUC KHOAT (1714-1765)が名づけた"Liet To Trieu Co Thuy Thong Kham Minh Cung Y" Can Nghia Dat Li Hien Ung Chieu Huu Dieu Linh Gia Du と王が替わった。GIA LONG王が即位しGia Du皇子は王朝の創設者の称号の廟を正しい王室の祖先の寺として礼拝した。夫人にははっきりとした姓名が無かった。Thanh Hoa 出身でNGUYEN PHUC KHOAT の調べではLuong Quang Thuc Y妃の祠、GIA DU皇后はGIA LONG帝が名づけたLuong Quang Thuc Minh Duc Y 宮(公正、神、および清澄を大切にした夫人の宮)に眠る、、Vinh Co廟。彼女はNGUYEN PHUC NGUYENとの間に一人の男の子をもうけた。どの夫人に関しても定かなことは無い。しかしNGUYEN HOANGには10人の男の子と二人の女の子がいた。

NGUYEN HOANG は聡明で慈悲深く、dang nguoi khoi vi(人間型楽器を弓で弾く?)
2歳の年(1527)、父がAi Laoを越えて避難、叔父のNGUYEN U KIと共に父と家に居た。NGUYEN KIM(1468-1545)以来、UONGとHOANGは度々父と一緒にcam quan danh mac(砂漠で軍隊と戦った?)した。UONGは労働の行政区を任された、HOANG はHa Kheに仕えるよう任命された。1545年 NGUYEN KIM が病により孤独の死を遂げた、UONGは父の代わりに将軍になった、しかしTRINH KIM に暗殺された。HOANGは相変わらず領兵だった、 cam quan danh mac(砂漠で軍隊と戦った?)はthanh Hoaに居た。年号Thuan Binh時代(1549-1566)LE TRUNG TONG王は”虎子爵”と褒め称えた、家柄から労働の行政区の関税役になった、将軍の地位を得た。疑いを持つようになり調べる、更に嫌う、HOANGは不安になり心配した、NGUYEN U KIは叔父と共に国の労働者官吏の役職に満足するが(主語がわからん!)、姉や義理の息子にThuan Hoaで私に更に多くの警護をつけるように求めた。そして了承した。1558年午の年10月、NGUYEN HOANG 弟(妹)の子供を案内する、多くの人々は勇気と信望を持って忠誠しDai An入り江を開いた、冬の海を一気にまっすぐに進みViet入り江に入った(またはAn Viet、Yen Viet)、到着をもったいぶったのでVu Xuong県(現在のQuang Tri省Trieu Phong県)Ai Tu村の軍隊はThach Han川のあぜ道で苛立ちを覚えた。

NGUYEN HOANG は北部からの指令本部(忠義館と呼ばれた)を収容し国土の平定に努力をした。Nguyen U KiがThanh Hoaの外で人々を困らせるならついていくのをやめる、NGUYEN DINH THAN (1553-1633)の境遇を真似、もし~ならば古い役人をTon Phuc Triの前に引きずりだし、
LE PHI THUALUONG VAN CHINH に従う準備もしThan Hoaの状況はだんだん安定してきた。

NGUYEN HOANG は、この地の開拓を推進する命令、外国との販売を開き、毎年LE-TRINHを脅かすほどの貢物をした。
1568年戊辰の年の3月(正治11年(後黎朝 英宗)崇康 3年(莫氏 莫茂洽))、Quang Namを統治していたBUI TA HAN が死亡。TEINH KIEM 軍事功績によりNGUYEN BO QUYNHにこの地を割り当てた。1569年9月己巳の年(正治12年(後黎朝 英宗)崇康 4年(莫氏 莫茂洽))、NGUYEN HOANG はLE ANG TONG王に仕えてKhoa Trung行宮でTRINH KIEMと会見、父や先祖の眠る陵を訪問する。そして10月、頬がひどく痩せた、翌年1月(1570)、NGUYEN BA QUYNHに呼ばれNhge An の統治者として帰る、HOANGは全Quang Namを兼任で統治することになる。Ong 感謝する、行政区に戻らせてくれて、一ヵ月後の1570-3-24 TRINH KIEMの死を知る、息子がLE王の代理と押し自身から節約を認める。NGUYEN HOANG誤って葬儀に弔問した使者に新しい王への祝いの手紙を送った。

その後Thanh Hoa へ帰り、NGUYEN HOANG 先祖から続く申請に頭を悩ませ、自分の父から離れDan Dien県、Kim Tra、Tu VinhからQuang Dien市Huong Tra、Phu Vinhに移った。

追記9/15 まだ2pある。。。
これを書きながら他の人物に関しても同時にやっていかないと
読み手は理解できないだろうなぁと感じる
でもとりあえずこれができるまで待っててください
少しずつやっていきます


きつい。。。(9/12)

はぁ。。。難しい。。。。長い。。。(9/11)
かなり重要な人物みたいだ。。。

Nguyen Phuc Nguyen まで出てきちゃったし。。。
またあとで。。。
 






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