〇新年度の準備が遅れている一方で、会社の近隣でも感染情報が秘かに伝わってくるごとに、背中に冷や水を浴びせられるような心地になる。連絡が来るたびに来週からの対応をどうしようか悩む。一方では、例年どおりの新年度の行事予定の進行で行くようにという要請も来ている。こういう矛盾した同時要請というのもダブルバインドのようなもので、人間の精神を混乱させる。
だから、これは「一見、普通の生活のように見えて、これは無政府状態なのか戦争中か何かなんだろうな」と思いながら、生活している。家族に会えないまま、自分の意志で移動する安全が保障されず、自分の持ち場で生活を続けているのは、戦時中のようなことに思えるから。もし報道で聞くように政権や五輪や感染研や厚労省や保健所を守るために検査も隔離も抑制して、海外の感染症対策の情報もシャットアウトしたまま、国民の感染者や死亡者が激増したまま放棄されているとしたら、太平洋戦争や東日本大震災のような棄民的損害が発生していることになる。
ミャンマーやブラジルやフランスの話をニュースで聞く時に、ディストピアなアニメのような展開が他人事じゃなくていつでもどこでも何でも起こりうるということを、感じながら生きているのは自分だけじゃないような気がしてきた。
晴れれば人出は増えるし、雨が降れば人出は減る、というような繰り返しで、ひところのような自粛の感じではもうなくなってきているから。なんとなく、太宰治の小説に出てくる昭和10年代の日本の雰囲気の感じ、というのを連想するんですよね。おちょやんあたりもそのへんか。後代から教科書で読むと歴史的に悲惨な状況なはずなのに、その当時の人たちにとっては日常生活が連続しているのにすぎない、というような感じの。
写真は、晴れている時の桜の並木のところのキイロイトリです。買物で県道を移動中に一時停車して瞬時に撮影してさらに移動を続ける。このblogでも各場所でできるだけ人のいないところを走りながら撮っています。
BGM:Don't Worry Baby / Vapour Trails
(邦題「Surfside Freeway」)ベストヒットUSAのテーマをここのところ特集が多くて頻繁に聴いている(20210402)