

近いと行かないの法則がある。史跡名勝・・・あまねく。
「当地は、佐野小太郎盛綱のときに、客将として招かれた福地丹波守仲久が初めて居住し、その後、仲久から四代後になる福地出羽守寧久が、永禄3年(1560)に、当城を築きました。当城は唐沢山城の南端の出城として構築され、川越・忍(おし)・館林の三城のおさえとしました。佐野氏の改易とともに廃城となり、それ以後は福地氏が名主として代々当地に居住しました。」とある。
佐野氏は代々北条であったが、一族の佐野房綱が豊臣に仕えていたので、房綱が当主になることで、佐野氏は延命する。
やがて、徳川の時代になって突然改易(理由は定かならず)・・家臣の福地氏は武士を捨てるわけだ。
西に才川・・・南には、大河渡良瀬川があり、渡良瀬川をはさんで館林城に対峙する守りの最前線であったか。


武士を捨て、名主として、才覚をふるったか?往時をしのばせる立派な家には、先祖代々を守る祖先が住んでいるに違いない。
挨拶して、見学と思い、ドアフォンを鳴らしたが、留守のようで、勝手に見学させていただいた。
「福地家には、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻撃する際、その臣加藤清正からの要請を受けて、天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)が、福地氏を含む佐野家の重臣5名に命じて提出させた絵図の控えも残っており、市の指定有形文化財として佐野市立郷土博物館に保管されています。」と佐野市の案内。

すぐに内堀とわかる、水路もなんだか、素敵であった。

城址遠景。
市指定の史跡であるが、こうして、キレイに整備しておくのは、現在の方々に、感謝だな。
当時の面影が浮かんで、お近くの方はぜひ訪ねることをお勧めする場所だった。


近く(歩いて3分)に俺の大好きな小さな公園がある。水場にはキショウブ・そしてスイレンがきれいで「プチ・モネの池」なのだ。

才川の土手には、キイチゴが沢山生えていて、また・・食いにくるかな・・?

そして、大きな実のなる「桑の木」があります。
早速、ドドメ・・・頂きました。
17日の濃厚接触・・女房・娘2人。