考えさせられるニュースがありました。
遺体は“1000人以上” 暴行、レイプ…先住民の子どもを大規模虐待~カナダ寄宿学校の闇~
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae9209a0d919f825867e761fb1b309cc24f5fd00?page=1
カナダにしろドイツにしろ自国の闇歴史に対して立ち向かおうとしている気がします。
それでは日本は・・・?
『自虐史観』は90年代後半にある歴史教科書の内容に対し使われた言葉です。
「満州事変(1931年)から敗戦(1945年)に至る15年の戦争が、日本主導の対外戦争であり、アジアや世界の国々に対して悪いことをした、だから贖罪しなければならない、という面だけを一律に教えた、かの戦争のとらえ方のことを指す」として批判され、そのことにより一部日本が国(軍部)として行ってきたことに正対せず、評価を怠ってきたのではないかと感じます。
以前示した『真実は人の数だけある』という観点から見て、この歴史の検証を自虐史観と揶揄することにより、日本に対した主にアジア諸外国の真実に目を向けることを意図的に避けていったのではないだろうか。
少なくても我が国唯一地上戦が展開された沖縄では、このような真実(評価)があって然るべきとは考えられないだろうか。
インディアン法の元で行われた蛮行に対し、「心から深くお詫びします」「取り返しのつかない過ちだった」「キリスト教徒による悪行について、謙虚に許しを請う」と言った第266代ローマ教皇フランシスコの謝罪に対し「意味がない。決して許せない」寄宿学校の元生徒バド・ホワイトアイさん、ダイアン・ヒルさんは言っています。
しかし、許してもらえなくても事実に向き合うことが大切なのでしょう。
謝罪した教皇フランシスコはキリスト教徒達のバッシングに遭うのでしょうか。
日本で総理大臣が謝罪をしたら、右翼団体や宗教団体はどのように反応するのでしょうか?
過去は塗り替えることはできません。
失った命を取り戻すこともできません。
己の真実(価値観)に囚われ、他者の真実に思いを馳せることができないことが、進歩を妨げている気がします。
事実に向き合うことが「日本国民としての誇りを失わせる」とは、余りにも日本国民を馬鹿にしているのではないでしょうか。
本当の意味で「日本国民を信じていない」のは、都合の悪いことに蓋をしようとしている一部政治家とその取り巻き達ではないのか。
教皇フランシスコは今のキリスト教徒を「信じている」のだと思うのです。
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