
「夕方の三十分」 黒田三郎
コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折り紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮らしたので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
「ホンヨンデェ オトーチャマ」
「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼きをかえそうと
一心不乱のところへ
あわててユリが駆けこんでくる
「オシッコデルノー オトーチャマ」
だんだん僕は不機嫌になってくる
化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨー オトー」
「ハヤクー」
かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く
それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
おやじは素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向かい合ってふたり座る
( 「黒田三郎詩集」(思潮社・現代詩文庫)より)
「すばらしい手」 鈴木ユリイカ
子どもは丘のうえのシロツメグサの中に寝そべっていた
寝そべりながら黒い杉の森で大きな手が動くのを見た
泉には枯れ葉が落ちていて土の下の ずっと底に
青空があり死者の声がくぐもってきこえてきた
乾いた白い道や途方にくれた理髪店があった
そこからちいさな畑道やちいさな灰色の町が細く続いていた
日が暮れようとしていた 雲のカーテンから光が洩れ出し
光の柱となって暗い畑に降りていた
やわらかな声が空をすべっていった
おまえはどこだあ わたしはここにいる――
子どもは両手をひろげて 水をすくうように
風や光や森や泉や町をすくおうとした
四十年もたってから そのひとは都会の真ン中で両の手で
荒れ果てた顔を何度も何度もこすり 手を光にかざし透かし模様のように
両の手の中にちいさな森や町や泉や崖が ゆっくり
うかびあがるのを見る すると なんとうかびあがってくるのだろう
おまえはどこだあ わたしはここにいる――
(鈴木ユリイカ 「ビルディングを運ぶ女たち」思潮社より)
「豊 饒」 大石ともみ
十二色のクレヨンのなかにも
長いまま残る一本
なぜだか手の出せない色があった
わたしの言葉のパレットのなかにも
使うことのない乾いたままの単語が
いくつもある
そんな一つが
あのとき
父の口元に
粥を一匙はこんだとき
ふいに 〈 豊饒 〉と
浮かんだ
一匙ごとに
父の顔がやわらいで
顔に紅みがさしてくる
「イタイ イタイ」と
半身を動かすことさえ
顔をゆがめるひとが
米と水と火だけでこしらえたものを
ゆっくり身体におさめる
一日のうちで一番美しい
夜明け前の水で米を研ぐ
一年のうちでもっとも
なつかしさを運ぶ
十一月の風を粥に炊き込む
遠い日の野山の匂いがしますか
青々と空のしぶきがかかりますか
粥が父をしずめて
豊饒にかがやくひとときがあった
ー最近のぼくの詩ー
(1) 「母の夢」
ほんとに久し振りに
亡き母の夢をみた
夢の中での母の家は
外の壁板が真っ黒こげで
手で触ると
まだ燃え上がりそうに熱い
「今晩泊まってもいいかな」
「ああいいよ。狭いけどね・・」
何もない六畳間に
布団がひとつ引かれてたので
それに潜り込む
目が覚めると もう朝で
母は
何処かへと消え去っていた
小鳥たちのさえずり声でいっぱいの
家の周りには
同じような家が点在していて
その間の道をゆくと
咲き誇こる春の花々
(2)「アナキスト」
いったい
いつからだろう
アナキストとして
生涯生きようと決めたのは
「アナキストじゃくなくて
穴好き人だろう」という友人も
多かったけど・・
アナキストとは
すべてを否定することだ
いまあるすべてを否定し
いま生きてる自分さえも
否定することだ
すべてを否定するという
いい気な自分を
否定し続けることだ
否定の果てに
すべてを肯定することを希求することだ
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