12月14日(土)午後、第36回多田謡子反権力人権賞受賞発表会がいつものとおり連合会館で開催された(主催:多田謡子反権力人権基金運営委員会)。
今年の受賞者が闘い続けたのは、旧優生保護法被害者の国との闘い、東電福島第一原発事故で被災した梨づくり農家の苦難の復興、川崎の在日ヘイトスピーチ・ヘイトデモとの闘いと、3つともそれぞれ大きく、かつ深刻なテーマだった。
わたしは、ほぼ毎月文科省前抗議行動に参加したり、12月6日の記事に掲載した「クルド人差別問題」に関心があるので、崔江以子さんの「川崎市におけるヘイトスピーチとの闘い」を詳しく紹介する。
■川崎市におけるヘイトスピーチとの闘い
崔江以子(ちぇ・かんいじゃ)さん
●川崎市と在日、そして地域の公立小学校
わたしが生活する神奈川県川崎市は京浜工業地帯に面している。京浜工業地帯は軍需産業が営まれていたので戦前戦中と朝鮮半島から海を渡ってこざるをえなかった人たちがここで軍需産業に従事し、日本の敗戦後も帰るに帰れずそこにとどまらざるをえなかったので在日朝鮮人の集住地域が形成されてきた。
在日1世の人たちは必死に命をつなぎ、わたしの親の世代・2世は公平公正な社会を求めて声を上げ、3世のわたしたちは税金を原資として還元される社会保障を外国人にも適用するよう政府に声を上げている。
川崎市は、差別撤廃の声に応え、国民健康保険の適用を全国に先駆けて実施したり、外国人高齢者や障がい者への福祉手当を支給している。
地域の公立小学校の運動会で、韓国の伝統芸能プンムルノリが日本の子どもたちに演奏されるようになり30年になる。「楽しかったなあ、来年はもっと上手ににやりたいなあ」との感想が聞かれる。この小学校では6年生になると、地域の在日1世のハルモニ(おばあさん)からキムチ漬けを教わる。これも20年近く学校と連携して行ってきているので子どもたちは「キムチ、イェーイ!」とキムチ漬けを楽しむ。
地域には朝鮮学校がある。高校無償化から除外されたり、補助金が減少している。地域のカフェでメッセージ展を開くと、「校長先生へ 僕の保育園の友達がいる学校の朝鮮学校に川崎の一番偉い人がおカネをあげないといじめました。なので〇小学校のおカネを少し朝鮮学校に分けてください」と書いてくれた子どももいた。これが違いや豊かさを育まれた子どもたちの思いだ。
●2013年ヘイトデモの襲来と地域や市民の防衛
2013年5月川崎駅前にヘイトデモがやってきた。デモという行為は市民の表現の自由、自分たちの考えを社会に発信する大切な行為だが、「朝鮮人を殺せ、朝鮮人を叩き出せ、ゴキブリ・ウジムシ朝鮮人を海に沈めろ」、これがヘイトデモの主張だ。
この日は母の日で、当時小学2年だった次男と映画をみてお昼ごはんにファストフード店に向かっている途中だった。ヘイトの声を聞き、バスに飛び乗り、逃げ帰った。その後も繰り返しこのようなデモが続けられた。わたしがとった行動は沈黙と回避だった。
しかし、その2年後逃げられなくなる。2015年日本浄化デモというデモが予告される。冷たい雨の降る11月の日曜日、ヘイトスピーチをするデモがわたしたちの町を襲った。救いだったのは「わが街は差別を許さない、ヘイトデモの参加者はとっとと家に帰りなさい」というメッセージが地域で掲げられたことだ。あんなデモが来て迷惑ではなく、わたしたちは許さないという主語で語られた差別への怒りにわたしたちはどれだけ救われたかわからない。桜本の交差点には地域の人が玄関から飛び出してきて「許さないわよ」「何なのよ」と怒りの声をあげてくれた。
住民が掲げた「差別を許さない、ヘイトデモの参加者はとっとと家に帰りなさい」の横断幕(会場で放映されたスライドより)
被害を受けるのはデモのときだけではない。予告されたときからの恐怖、こわくて迎えた朝、ぶつけられた言葉の痛み、次の朝からは次の加害のデモへの恐怖が始まる。
傷つきながらも何より怒ったのは子どもたちだ。「おとなはいつも差別はダメっていってるのに、どうしておとなが差別をするの? どうしておとなが差別をするのを止められなかったんだ!」
警察や行政機関に相談すると、根拠法がないから具体的な策が取れないという。子どもに説明すると、「ルールがないならルールをつくれ。おとなは何をやってるんだ!」至極まっとうだ。
デモに抗議して道路に寝転んで座り込んで阻止した人もいた。道路に寝転んだ人たちは警察にひとりひとり手と足を持たれ排除された。なぜか、日本にはルールがあるから。道路交通法のルールがあり、道路にとどまることはいけないからだ。それをみてヘイトデモの人たちは笑っていた。日本には差別をしてはいけないというルールがないからだ。
●国への申し立てとヘイトスピーチ解消法の成立
わたしたちは、弁護士に相談し、国に人権侵犯被害申告をして被害を届け、さらに国会でヘイトスピーチの被害を訴えた。人権差別撤廃推進法を提案した野党案の参考人陳述したが与党は法律をつくってまで禁止する深刻な被害はないというので、議員に現地視察してもらった。
ハルモニの被害、子どもの被害を聞き、成立したのが2016年のヘイトスピーチ解消法だ。理念法で不十分だが、法律ができたことを有効に使ったのはわたしたちだ。
●川崎市の罰則付き条例の制定
「法律ができました。この法律で、助けてください」と市長のところに行った。法律ができたことで議会が動き、公園は貸さない、デモは出発させないという意志表示が二元代表制、150万市民の代表の議会から続々と出され、市長が「貸さない」と決断した。
ただ、国の法律では足りないから、わたしたち市民は川崎市の施策をみんなで応援しようと訴え、さらに学習会を重ね国際人権法を学び、表現の自由を学び、東京弁護士会のモデル条例案を学び、学びを力に、市に意見書を提出した。
市は全国初の罰則をもつ「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例案」を議会に提出、2019年2月自民党も賛成し、全会派一致で採決された。
ハルモニたちは差別の被害から自分たちを守る策ができたことを受け、識字学級で字を学び「戦後ずっと川崎で暮らしていたのに、やっと川崎市民になれたような気がした」と喜びを綴った。
条例ができても川崎駅前には相変わらず差別を楽しみたい人たちが街宣を続けている。だが風景が変わった。条例に基づき川崎市の職員が監視をし、条例に抵触しないか、この脅威抑止効果で川崎駅前はこの条例が完全施行して5年になるが、以前のように、勧告が付されるようなヘイトが垂れ流されることはない。
さべつのないかわさき(会場で放映されたスライドより)
●野放しのネット上のヘイト、犯人が子どもだった衝撃
「崔江以子!お前、何様のつもりだ! 日本から出ていけ!」という206の差別語を含む掲示板サイトについて刑事告訴した。
警察の捜査で検挙された犯人は、なんと子どもだった。いま警察から家庭裁判所に送致され、これから更生のための審判が始まる。告訴を取り下げるか悩んだが、この子どもの更生を応援する意味でも更生のための裁判、家裁の審判にしっかり向かい合っていこうと思う。
インターネット上の匿名の課題については全然策がないことを、みなさんと共有したい。
皆さんは加害をする人ではないが差別のある社会の一構成員として、主権者として、主体として差別のない社会のために、皆さんといっしょに歩みを進められたらうれしい。
■優生保護法強制不妊手術を告発し国に謝罪を求める
旧優生保護法訴訟は今年7月最高裁が国に賠償を命じる判決を出し、全国11の高裁・地裁で争った22人の和解が11月にすべて成立し、裁判が終結した。今回受賞したのは、このうち仙台高裁で9月と10月末和解が成立した佐藤由美さん(および義姉・路子さん)と飯塚淳子さんである。
スピーチしたのは飯塚さんと佐藤路子さんの2人だったが、主催者の配慮により写真はない。
●飯塚さんは、16歳のとき優生手術を受けさせられた。当時宮城県では「愛の10万人運動」という運動があり、知的障碍者の収容施設・小松島学園がつくられ、民生委員により1期生として入所させられた。退所後、職親に預けられ住込みの家政婦となった。職親に虐待され、優生手術に連れて行ったのもこの職親だった。
結婚後、信頼する夫に手術のことを打ち明けると血のつながった子がほしいと出て行った。夫の兄や母に罵られ離婚を求められ、実家に逃げ帰った。精神的ストレスとPTSDで働けなくなった。1997年に優生手術に対する謝罪を求める会に出会い、その後27年以上ものあいだ優生手術の被害を訴えてきた。
また宮城県に手術記録が残っていないことにも苦しめられた。2017年の日弁連の意見書などで、県知事が飯塚さんを被害者と認めたので、18年に提訴し、今年秋やっと和解が成立した。
飯塚さんは「和解をしたからといってわたしの人生が戻ってくるわけではない。本当はわたしの体を元に戻してほしい、それができないのならせめて二度とこのような被害が起きないようにしていただきたいと願っている」と語った。
●佐藤路子(みちこ)さんは、19歳で結婚し義母から義妹・由美さんの優生手術のことを聞いた。手術の傷跡は、14センチくらいあり、当時は紫色ではれ上がっていた。由美さんは読み書き、数字は理解できないが、洗濯、食器洗い、掃除など家事一般はこなせるし、路子さんの3人の子どもの世話をよくしてくれた。
路子さんは情報開示請求をして、由美さんの手術は中学3年の12月で、家族や本人の同意なしの強制不妊手術だったことを知った。医師が遺伝性精神薄弱であると診断すれば県の優生保護審査会の決定で手術できるというものだった。だが由美さんは遺伝性精神薄弱ではなく、1歳くらいのとき手術時の麻酔の失敗で知的障碍になったのだ。
2017年から18年にかけて3度、厚労省のヒアリングがあったが、担当課長補佐は「当時は合法、適法、厳正な手続きに基づいて実施した。今後も調査をする必要はない」と3回も同じ回答をした。
それで裁判をすることになり18年3月の提訴の日、「姉さんね、おなかの傷、手術しなくてもいいのに手術されたから闘うんだよ」と由美さんにいうと「お姉さん、がんばってね。家のことはちゃんとしておくからね」と答えた。
19年5月仙台地裁は旧優生保護法は違憲としながら20年の除斥期間の適用で敗訴、23年6月の高裁判決も敗訴だった。
だが今年7月最高裁の「原判決を破棄する。本件を仙台高裁に差し戻す」との判決を経て、9月に和解成立、10月には被害者に補償する法案が国会で成立した。
佐藤さんは「妹のことで旧優生保護法裁判をできたのは、妹の手術痕があまりにもひどかったこと、それを20年も疑念に思っていたこと、情報開示請求でわかったことで強制不妊手術したのは15歳、中学3年の12月、同級生は高校受験に向けて学習していたこと、なぜこの時期に病気でもないのに生身の体にメスを入れられたのかその悔しい思いを絶対に忘れない。長年活動してきた飯塚さん、謝罪を求める会、新里先生との出会いがあったから裁判を勝ち取り、法律も変えることができた」と締めくくった。
■被爆した福島の梨畑を復活させる
阿部一子さん
わたしは1990年の4月2日に夫の農家の跡を継ぐと決め、4人の子どもと一緒に大阪から福島に引っ越してきた。
2011年3月11日夫と梨畑で幸水の棚縛りをしていたところ、地鳴りがし、立っていられないほどの揺れで梨の棚にしがみついていた。夫が「ガスが心配だからすぐ家に帰ったほうがいい」というので、軽トラックを飛ばして帰宅すると塀が崩れ瓦が半分落ち、義母が呆然と立ち尽くしていた。停電していたので、津波のことは知らなかった。
12日から15日にかけ福島第一の1,3,2,4号機が相次いで爆発し放射線が降り注いだ。
4月末、梨の花が満開になった。JAは「米も梨も作れる数値なので、安心して作ってください」と通知し、政府も「直ちに健康に影響の出る数値ではない」と繰り返したが、信じてよいのか、不安が募った。
11月除染の話を聞きに行ったとき、放射線量も土も計れる線量計、ドイツ製のGMサーベイメータを見せてもらった。24万8000円もする高価な機器だが、自分の目で数値を見たいと事故以来ずっと思っていたので購入した。家の中、庭、あらゆるところを計って歩いた。目安は毎時0.23マイクロSv(シーベルト)だ。
●400本の梨の粗皮削り
2012年1月JAで果樹農家を対象にした除染説明会があった。果物に放射線セシウムが検出されないように梨の木の粗皮削りをするというものだった。メガネ、ゴム手袋、雨合羽、ゴム長靴を着用して完全武装、木の下にブルーシートを敷き皮を削るが、1本の木を削るのに夫と2人で約2時間かかり、いくらがんばっても1日10本だった。梨は400本近くあり「君の行く道は果てしなく遠い」という歌が口をついて出た。だんだん疲れ切ったころ東京、神奈川、横浜から友人9人が駆けつけてくれ、2日間で100本近くを削り終えた。
それと並行して1月末までに剪定、3月末までに今年使う木の枝を棚に縛る作業がある。とうとう頑張り切れなく31本梨の木を伐らざるをえなかった。2011年12月には最高値1.21マイクロSvだったのが0.77になったので逓減されたことがよくわかった。
●汚染土を630袋のフレコンバッグに詰める
2013年1月、福島県農業振興課から果樹園の表土除去モデル事業への協力依頼の文書が届いた。表土を5㎝剥ぐことで放射性物質が86.7%除去されたと書かれていた。ここで農業をして生きていくと決めたからにはやれることは何でもやって前に進むと、協力することにした。
除染土を入れたフレコンバッグが日に日に増えていった(会場で放映されたスライドより)
梨畑の表土を5㎝削り取り、山砂に入れ替える。梨畑には棚があり大きな重機は使えないので、はじめは鍬のようなもので削り取り、運搬車のようなもので運んでいた。ミニブルドーザのようなものが出現し、やっと作業がはかどるようになった。
汚染土は1立法メートルのフレコンバッグ(1トン入るのでトン袋とも呼ぶ)に詰める。1.5mの穴を掘りブルーシートを敷き、そこに1mのフレコンバッグを並べ上にもう一度ブルーシートを掛け、その上に50㎝山砂をかけていく。袋1つが1万円、使用した袋は630袋だった。
畑では重機が使えないので、運搬車で汚染土を運び梨畑の外で袋へ入れる作業をした。3月末から6月初めまでかかり、費用はなんと3400万円だった。5㎝削ったところは全部、山砂で埋め戻したので砂漠のようになった。仮置き場ができるまで3年の約束で、敷地は600坪ありなにもできずそのままの状態が続いているが、山砂なので風が吹くと飛び、目にも鼻にも入る。大変だった。
除染前は0.77マイクロSv/hだったのが0.22マイクロSv/hに下がった。毎時0.23マイクロSvが年間1ミリSvに当たるので、この畑で作業してもいちおう安全なかたちになったということだ。
2020年ようやく仮置き場ができ、埋立から7年経って汚染土の運び出しが始まった。深さ1.5m、1m幅で6レーン、長さ100mのプールを想像していただきたい。7年間生えてきた雑草を刈り続けてきたが、補償は何もない。埋戻しは山砂だが、夫が「おれは物わかりのよい農民になりたくない」と役所と交渉し、埋戻しは山砂、その上に畑の土を福島の農業試験場で分析してもらいそれに見合う肥料を山砂の上にまくことになった。山砂には大小さまざまな石が入っているので、業者に来てもらい石を取り除く作業をしたが小石は残るのでバケツを持ち夫と石拾いをし、そのあとにシロツメ草の種をまいた。4月になると徐々に緑色に変化してきた。
●ここで農業をして生きていきたい
被爆だけでなく、ここ3-4年、低温障害、6月の雹、酷暑による収穫の大幅減など、いままで経験したことがないようなことが起こっている。これから先農業はどうなっていくのか、作物はちゃんと育つのか、自給率の低い日本は飢えることがないのか、また農業の収入だけで生活は成り立っていくのか。不安なことはたくさんあるが、それでも農業は楽しいと思う。福島に来て34年、わたしはここが好きでここで農業をして生きていきたいなあとはっきりと自覚させてもらうようになったのは、皮肉にも原発事故だった。
講演終了後、司会者が「聞いていて、この国のひどさ、日本の国の法律も含めて、人権を大切にしていないと感じた。だが優生保護法、原発事故、在日朝鮮人への差別に対して本当に闘っている人、なんとか変えていこうとしている人がこんなにたくさんいる」と述べた。それぞれ重大な「人権」の問題であり、そのとおりだと思った。
簡単にわたくしの感想を記しておく。
「ゴキブリ・ウジムシを殺せ、叩き出せ、海に沈めろ、銃殺せよ」というヘイトをぶつけられた体験は、わたしも天皇制反対デモに参加したとき何度もあった。ただそれは年に数日、デモをしている1時間程度だけの辛抱だ。それが日常的に、しかも自宅周辺でぶつけられるとなると、クルドの人も同じだが「恐怖」を感じ、とても「安寧な生活」は過ごせない。まさに人権の問題だ。
旧優生保護法の被害は、女性の人生を根底から崩壊させる人権侵害だ。それも国策として行ってきたのだから、袴田さんの58年間の冤罪被害、あるいはアジア太平洋戦争の被害と同じだ。国はしっかり責任をとるべきである。
2020年秋に福島を訪れたとき、たしかにフレコンバッグが山積みの仮置場をみたことがある。また除染作業で、人が住む家、庭は実施するが山林はとてもムリと聞いたようにも思う。阿部農園の梨の木の粗皮削り、汚染土入替えのお話を聞き、これまで知らなかった果樹農家の13年のご苦労を知った。東電の原発事故さえなければ、なくてすんだカネと時間、そして苦難である。
今回の受賞者は、(偶然)女性ばかりだった。粘り強く長期間闘う女性は、強いと思った土曜の午後だった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。