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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

軍事博物館 靖国神社遊就館

2008年08月22日 | 博物館など
靖国神社遊就館は1882年(明治15年)に開館したわが国最古の軍事博物館で、皇国史観で染め抜かれた歴史博物館といわれる。1階、2階それぞれ10の展示室(回天、彗星などのある大展示室を含む)、その他映像ホールが2つ、企画展示室(安政の大獄150年・明治維新140年で「幕末維新展」を開催していた)、零戦やC56機関車がある玄関ホールとかなりの規模を誇る。神功皇后の朝鮮征伐から大東亜戦争終戦まで武の歴史を、とりわけ明治維新以降の軍隊の歴史中心に展示している。

わたくしの関心のあるところを中心に、展示内容を紹介する。
明治維新後、朝鮮に対する初の軍事行動である江華島事件(1875)の説明は「雲揚が砲撃されたので砲台を占拠した」とある。幕末の下関戦争と同じようなことをしている。福沢諭吉が唱えた脱亜は早くも始まっていたのか。
「朝鮮半島情勢」では、壬午事変(1882)での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の済物浦条約について「凶徒の処罰や損害賠償が主体」とあるだけで、漢城(京城)への軍隊駐留権や居留地の拡大を認めさせたことは書いていない。
「近代軍の建設」では、この壬午事変以降、日本と清国の対立は深刻になり国内防備重視から対外作戦可能な軍備へと転換した。陸軍は、それまでの鎮台を師団に変え(1888)、機動力増強と独立作戦可能とした。また日清戦争までに27万人体制に増強した。海軍は清国海軍に対抗できる常備艦隊の編成に着手した。83年には陸軍大学校、88年には海軍大学校を開校、といった説明がある。
日清戦争開戦(1894)のいきさつは、東学党の乱で朝鮮政府軍が各地で敗退したので朝鮮政府は清国に援兵を要請した。清国の出兵通知を受け、直ちに日本政府も出兵を決定したとある。いったいなぜ他国に出兵するのか説明になっていない。
日中戦争(支那事変)の第二次上海事変については、1937年8月9日の大山勇夫中尉射殺事件、8月14日の中国の日本人居留地の包囲・攻撃がきっかけで、「中国の戦争意志を挫折させる目的で首都南京を包囲攻略した」と説明する。宣戦布告もせず、海岸にある都市・上海の問題で300キロも内陸の首都まで攻め落とすとは、だれが見ても「侵略」というしかないのではないだろうか。また同時に上映していた当時のニュース映画では「支那を第二のスペインにしないため」「世界平和のために」と説明していた。一般国民はこんな説明に納得したのだろうか。
ただし中国国土は広大なので、徐州(38.4-6)、武漢(38.6-11)、南支方面・広東(38.10-40)と戦線を拡大してもなお戦争終結には至らなかった。
招魂齊庭という展示室では、1940年春に行われた招魂式をラジオの実況放送まで入れて再現している。
沖縄戦については「本土決戦に寄与するため32軍が堅忍持久に徹して全県民と一体となり3か月近く戦い抜いた」「牛島大将は(略)米軍を相手に中学生・女学生を含む防衛隊を兵力に加え軍民一体となって力闘を繰り広げた」と評価を与える。北京や上海の日本人保護のことはあれほど言っていたのに、住民は戦力の一部としか考えず沖縄住民の保護は何も考えなかったようだ。なお沖縄は本土決戦の捨石ということは認識しているようだ。
「靖国の神々」という展示室は、6790人の戦没者の遺影が圧巻だ。アルバム、遺書、遺品、手紙などとともに展示されているが、やはり遺影のボリュームに圧倒される。ほとんどの人は昭和19-20年、つまり最後の2年間の死亡だ。これは海軍飛行科予備学生の推移をみても昭和9-17年は1年に7~170人にとどまっているのに、18年9月5199人(うち戦没者1616人)、19年2月3323人(うち戦没者1411人)と急増していることでも裏付けられる。戦争の転換点はミッドウェイ(42.6)とガダルカナル(42.6-43.2)と展示してあった。靖国でなくとも衆目の一致するところだろう。43年の早めか半ばに休戦していればじつに多くの命がながらえられたことが遺影をみるとしみじみ思いやられる。
1階大展示室には、桜花の実物と一式陸攻の部隊が朝焼けのなか沖縄へ飛ぶ特攻ジオラマがある。桜花は1944年に開発された全長6mの一人乗り航空特攻兵器、1.2トンの大型の徹甲爆弾を搭載し一式陸攻で運ぶ。 
ラジオで、「高度4000mの別れ」と題した一式陸攻の元・機関兵の方のインタビューを聞いた。出撃前夜はウィスキーを飲み、気持ちが高ぶっているので「今度会うのは靖国で」などと言い、歌を歌ってごまかしていた。当日は鹿屋を離陸し開聞岳を目標に飛行するが、桜花隊の人はただうつむくばかりで口もきかない。敵艦隊を発見し「投下準備」の声がかかるとハッチを開けて隊員を乗り組ませ、ハッチを閉めるとき「頼むぞ」といってもうなづく程度、降下して高度1500で投下、どうなったかはまったくみえなかった。終戦から10年たっても夕方になると寂しく感じ、いまも毎日拝んでいるという。「あの戦争で相当な犠牲が出たが、みじめなものだ、戦争には自由なんかない、戦争は二度とやってはいけない」と感想を述べておられた。今年も8月8日茨城県神栖の神之池基地跡地で16回目の慰霊祭が開催された。

あの戦争を、そして戦前の日本をみるとき、7月の沖縄戦の講演で聞いた「国家の立場に立つのか民衆の立場に立つのか」という言葉が思い起こされる。遊就館を一貫して流れるのは「国家の立場」である。わたしが戦後教育で受けた歴史の見方とはまったく異なる。靖国の死者は祖国のために死んだ人、国家戦争に協力したから顕彰される人である。民衆を守ったから顕彰されているわけではない。当然のことだが国家戦争の被害で死んだ人は対象にはならない。これは現行憲法を否定するか、肯定するかということに通じる。
おそらく遊就館の展示説明と同じような教育を戦前・戦中、続けていたのだろう。
そういえば売店では「小学修身書」や「小学国語読本」(復刻版)が売られていた

住所:東京都千代田区九段北3-1-1
電話:03-3261-8326
開館日:年中無休
開館時間:9:00~17:30(10月から3月は17:00まで)
入館料:大人800円、中・高校生300円ほか


☆1階の茶房「結」で海軍カレー(680円)を食べた。1908年(明治41年)9月に発刊された海軍割烹術参考書のレシピのとおりにつくったものだ。いもやにんじんが小さい角切りになっているのが今とは違う。

靖国周辺の売店では、世間にはあまりない菓子が売られている。たとえば「やっくんのビンボーくじで福が来た」(630円)「やっくんのねじれ餅」(630円)「太郎ちゃんの牛乳カステラ」(525円)「男前揚げ」である。右翼の麻生太郎の人気が高い。さすがに今年は、昨年までの人気者安倍晋三の「晋ちゃんwithアッキー スイートサンドクッキー」「アッキーラッキークッキー」は影も形もなかった。

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