8月15日敗戦記念日の夕方、千駄ヶ谷区民会館で「<戦争の記憶>を問い続けよう!――8.15反「靖国」行動」という集会が開催された(主催8.15反「靖国」行動実行委員会、参加150人」

まず4人の方から問題提起を受け、参加者は自分の関心にしたがってどこかのセッションに加わるという形をとった。わたくし自身は映画「靖国 YASUKUNI」のグループに参加した。1時間あまり討論したあと、最後に各グループの討論内容がコーディネーターから発表された。したがってはじめから写真のように4人の問題提起者を参加者が取り囲んで着席するという変わった配置になっていた。
ディスカッションは、さまざまな観点から出た意見をコーディネーターの方が要約して紹介したものでなので、必ずしも論旨は一貫していない。しかも筆者の聞き違いや聞き落としもたくさんあると思われることをはじめにお断りしておく。
●人権と反中ナショナリズム 太田昌国(民族問題研究)
わたくしは遅刻したため残念ながら太田さんの話は聞けなかった。「人権と反中ナショナリズム」については、ディスカッションのみ紹介する。
ディスカッションより
拉致問題に関しては、言論レベルではわれわれは敗北した。
どの国も特別に排外主義的というわけではない。同じように自国のナショナリズムを他国にぶつけている。
中国のナショナリズム批判は口にしづらい。被侵略国や被植民地だった国のナショナリズムに対しては負い目があるのでなかなか対応できない。たとえ皇帝時代の歴史に裏付けられたものであってもやはり対応しづらい。
●死者の追悼をめぐって 日野直近(靖国解体企画)
本日午後靖国神社周辺でデモを行った。右翼はなぜ激怒してわれわれになぐりかかるのだろうか。英霊を冒とくする集団なので怒っていいというスイッチが自動的に入るのだろう。
追悼については、まず国家による追悼という問題がある。被害者であるのに賠償や社会保障を求めるのではなく、国家目的への貢献としての評価を求める、だから天皇参拝や首相参拝を求めるのが靖国護持派の考えである。本当は餓死した人も戦死と言い換え、軍人恩給の対象にして生きていく手段とした。その結果残ったのが現在の靖国にほかならない。醜悪な神社である。死者を持ち出されると反論は許されない。そこで思考がストップしてしまう。
次に政治運動や社会運動における死者の問題がある。虐殺された仲間の死をどう扱うかという問題である。わたくしはここにも危うさを感じる。死者を持ち出すのは、じつは、すぐれて生きている者の問題である。死者を持ち出して語ることがよいのだろうか。
第三に、身近な死者の問題がある。たとえば「金を貸してくれ」と電話をしてきてその後死んだ友人がいた。あとで、金を振り込んだのは2人だけだったことが判明した。しかし追悼の場には数十人集まり故人の思い出を語り合った。それなら生きているうちに援助すべきだった。死者の思い出は時とともに薄れていく。死者に拘束されずいまを見ることのほうが重要なはずだ。
死者の追悼をめぐり、3つの問題を提起する。
ディスカッションより
日野さんの問題提起は追悼を否定する過激なものだった。討論では、友人の死、山の遭難死、被爆死、山谷での死、内ゲバでの死など多くのケースの話が出た。
国の宗教施設については、国家そのものが宗教になってしまうという話があった。
また事故死であっても、(自分の)文脈にひきつけて解釈したくなる。しかしそうした日常レベルまで戻って、この問題を考えることが重要だ。
●映画「靖国 YASUKUNI」と表現弾圧 成澤宗男(ジャーナリスト)
右翼は次々に敗北した。まず拉致問題ではアメリカにはしごを外され、東京裁判史観の問題ではアメリカ国務省に、慰安婦問題ではアメリカ下院に裏切られた。歴史教科書問題は採択率があまりにも低かった。5番目の敗北がこの映画「靖国 YASUKUNI」公開の問題だった。
敗北の理由は稲田朋美衆議院議員の特異なキャラクターにある。まず稲田氏は日本映画ではないことを問題にした。李監督が永住権を取ったことを知らないのだろうか。そして議員向けの試写会を要求したわけではなく「公開前の特別な自主上映」を要求したという。これは普通「試写会」というのではないか。さらに国政調査権を発動したという。しかし国政調査権は衆参各議院の委員会を通じてはじめて行使できるものだ。一議員が勝手に行使できるものではない。稲田議員は日本芸術文化振興会が750万円の公的助成金を出したことが最大の問題だとした。しかし途中で「上映中止にはしていただきたくない」などというコメントを発表した。
この事件で、なぜ右翼は騒がなかったのだろうか。たまたま4月に胡錦涛が来日するので公安が右翼を抑えたからだろう。右翼は反靖国かどうかで牙をむく。本気でやればおそらく映画は日の目をみなかっただろう。2004年に本宮ひろ志の『国が燃える』(『週刊ヤングジャンプ』)が問題になったとき、右翼は3日間集英社に押し寄せただけで簡単に休載させた。
公安の本質は戦前の特高と変わっていない。公安は反天皇、反国体に容赦することはない。手段を選ばず右翼を動かす。言論の自由の問題と反天皇の言論の問題ははっきり区別したほうがよい。
ディスカッションより
今回の騒動の特徴は、稲田朋美、有村治子の2人の国会議員の介入だった。「反日」というレッテルはだれが、どういう定義で貼るのだろうか。戦前も「非国民」というレッテルがあり戦前・戦後共通の問題だ。
また文化庁の資金援助が今後厳しくなることが考えられる。それはだれがどのように規制をかけるのだろうか。
特高と公安は、たしかに似ている点もあるが、小林多喜二虐殺のような拷問までは起こらないという話が出た。それに対し被疑者に対する態度は同じだとの意見があった。この映画の問題は終わったわけではなく、有村など政治家はいまだに問題にしている。
その他、映画館側の自主規制で上映中止になった問題、ドキュメンタリーの登場人物や撮影場所の面で右翼の攻撃を受けたこと、大杉栄虐殺の大正時代には官憲擁護・減刑嘆願の民衆運動があったが、ネットの時代である現在では、面と向かって言うのでなくネットでうっぷんを晴らしていることなどが語られた。
●沖縄戦と大江・岩波裁判 天野恵一(反天皇制運動連絡会)
この裁判の始まりを振り返ってみたい。そもそも、遺族援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)を適用してもらうため、赤松隊長に罪をかぶってほしいと公務員が頼んだことなのに、部隊長が自決命令を下したといううわさが流布した。それはなぜかという問題だった。今年3月の大阪地裁判決では「援護法適用が意識される以前から隊長命令説が存在しており、ねつ造という主張には疑問がある」と正しく判断した。しかし原点に帰って考えると「戦時中、国に協力したから援護法で年金や弔慰金を支給しろ」ではなく、被害者として補償金を要求する視点もあったはずだ。あまり知られていないが1970年代には「沖縄戦被災者補償期成連盟」という組織と運動があった。しかし80年代に消えてしまった。
次に、沖縄戦「集団自決」は植民地侵略戦争のなかで起きたものであり日本軍の住民犠牲の事例のひとつであることを、林博史さんがていねいに論じている(季刊戦争責任研究2008年夏号)。戦時中「玉砕」といわれたものが戦後「集団自決」という名に変わった。現在「集団死」と呼び変えようという運動がある。「子どもは自決しない」など、もっともな論点はたしかにある。しかし「集団自決」には、愛するがゆえに殺してあげるという極限状態での悲劇という意味もこめられている。それを「集団死」と言ってしまうと抵抗の主体が消え、責任主体が消えてしまうのではないだろうか。
ディスカッションより
沖縄の加害責任の問題がある。しかしだれがそれを言えるのだろうか。ヤマトンチュにはいえないのではないか。
被害者意識を突き詰めると加害の意識が出てくる。そこから抵抗が可能になる。
☆会場周辺は、ものものしい警戒体制が敷かれていた。いつもこのグループの集会は公安や警官が多数出動するが、この日は区民会館の前の道60mほどを鉄パイプのゲートで完全に封鎖していた。そのゲートのところで2人の警官が「どちらへいらっしゃいますか」と一人一人に尋ねる。わたくしは遅れていったが、もっと早い時間には顔写真も撮影していたかもしれない。2.26事件の戒厳令下の皇居付近はこんな雰囲気だったのかと想像させられた。

まず4人の方から問題提起を受け、参加者は自分の関心にしたがってどこかのセッションに加わるという形をとった。わたくし自身は映画「靖国 YASUKUNI」のグループに参加した。1時間あまり討論したあと、最後に各グループの討論内容がコーディネーターから発表された。したがってはじめから写真のように4人の問題提起者を参加者が取り囲んで着席するという変わった配置になっていた。
ディスカッションは、さまざまな観点から出た意見をコーディネーターの方が要約して紹介したものでなので、必ずしも論旨は一貫していない。しかも筆者の聞き違いや聞き落としもたくさんあると思われることをはじめにお断りしておく。
●人権と反中ナショナリズム 太田昌国(民族問題研究)
わたくしは遅刻したため残念ながら太田さんの話は聞けなかった。「人権と反中ナショナリズム」については、ディスカッションのみ紹介する。
ディスカッションより
拉致問題に関しては、言論レベルではわれわれは敗北した。
どの国も特別に排外主義的というわけではない。同じように自国のナショナリズムを他国にぶつけている。
中国のナショナリズム批判は口にしづらい。被侵略国や被植民地だった国のナショナリズムに対しては負い目があるのでなかなか対応できない。たとえ皇帝時代の歴史に裏付けられたものであってもやはり対応しづらい。
●死者の追悼をめぐって 日野直近(靖国解体企画)
本日午後靖国神社周辺でデモを行った。右翼はなぜ激怒してわれわれになぐりかかるのだろうか。英霊を冒とくする集団なので怒っていいというスイッチが自動的に入るのだろう。
追悼については、まず国家による追悼という問題がある。被害者であるのに賠償や社会保障を求めるのではなく、国家目的への貢献としての評価を求める、だから天皇参拝や首相参拝を求めるのが靖国護持派の考えである。本当は餓死した人も戦死と言い換え、軍人恩給の対象にして生きていく手段とした。その結果残ったのが現在の靖国にほかならない。醜悪な神社である。死者を持ち出されると反論は許されない。そこで思考がストップしてしまう。
次に政治運動や社会運動における死者の問題がある。虐殺された仲間の死をどう扱うかという問題である。わたくしはここにも危うさを感じる。死者を持ち出すのは、じつは、すぐれて生きている者の問題である。死者を持ち出して語ることがよいのだろうか。
第三に、身近な死者の問題がある。たとえば「金を貸してくれ」と電話をしてきてその後死んだ友人がいた。あとで、金を振り込んだのは2人だけだったことが判明した。しかし追悼の場には数十人集まり故人の思い出を語り合った。それなら生きているうちに援助すべきだった。死者の思い出は時とともに薄れていく。死者に拘束されずいまを見ることのほうが重要なはずだ。
死者の追悼をめぐり、3つの問題を提起する。
ディスカッションより
日野さんの問題提起は追悼を否定する過激なものだった。討論では、友人の死、山の遭難死、被爆死、山谷での死、内ゲバでの死など多くのケースの話が出た。
国の宗教施設については、国家そのものが宗教になってしまうという話があった。
また事故死であっても、(自分の)文脈にひきつけて解釈したくなる。しかしそうした日常レベルまで戻って、この問題を考えることが重要だ。
●映画「靖国 YASUKUNI」と表現弾圧 成澤宗男(ジャーナリスト)
右翼は次々に敗北した。まず拉致問題ではアメリカにはしごを外され、東京裁判史観の問題ではアメリカ国務省に、慰安婦問題ではアメリカ下院に裏切られた。歴史教科書問題は採択率があまりにも低かった。5番目の敗北がこの映画「靖国 YASUKUNI」公開の問題だった。
敗北の理由は稲田朋美衆議院議員の特異なキャラクターにある。まず稲田氏は日本映画ではないことを問題にした。李監督が永住権を取ったことを知らないのだろうか。そして議員向けの試写会を要求したわけではなく「公開前の特別な自主上映」を要求したという。これは普通「試写会」というのではないか。さらに国政調査権を発動したという。しかし国政調査権は衆参各議院の委員会を通じてはじめて行使できるものだ。一議員が勝手に行使できるものではない。稲田議員は日本芸術文化振興会が750万円の公的助成金を出したことが最大の問題だとした。しかし途中で「上映中止にはしていただきたくない」などというコメントを発表した。
この事件で、なぜ右翼は騒がなかったのだろうか。たまたま4月に胡錦涛が来日するので公安が右翼を抑えたからだろう。右翼は反靖国かどうかで牙をむく。本気でやればおそらく映画は日の目をみなかっただろう。2004年に本宮ひろ志の『国が燃える』(『週刊ヤングジャンプ』)が問題になったとき、右翼は3日間集英社に押し寄せただけで簡単に休載させた。
公安の本質は戦前の特高と変わっていない。公安は反天皇、反国体に容赦することはない。手段を選ばず右翼を動かす。言論の自由の問題と反天皇の言論の問題ははっきり区別したほうがよい。
ディスカッションより
今回の騒動の特徴は、稲田朋美、有村治子の2人の国会議員の介入だった。「反日」というレッテルはだれが、どういう定義で貼るのだろうか。戦前も「非国民」というレッテルがあり戦前・戦後共通の問題だ。
また文化庁の資金援助が今後厳しくなることが考えられる。それはだれがどのように規制をかけるのだろうか。
特高と公安は、たしかに似ている点もあるが、小林多喜二虐殺のような拷問までは起こらないという話が出た。それに対し被疑者に対する態度は同じだとの意見があった。この映画の問題は終わったわけではなく、有村など政治家はいまだに問題にしている。
その他、映画館側の自主規制で上映中止になった問題、ドキュメンタリーの登場人物や撮影場所の面で右翼の攻撃を受けたこと、大杉栄虐殺の大正時代には官憲擁護・減刑嘆願の民衆運動があったが、ネットの時代である現在では、面と向かって言うのでなくネットでうっぷんを晴らしていることなどが語られた。
●沖縄戦と大江・岩波裁判 天野恵一(反天皇制運動連絡会)
この裁判の始まりを振り返ってみたい。そもそも、遺族援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)を適用してもらうため、赤松隊長に罪をかぶってほしいと公務員が頼んだことなのに、部隊長が自決命令を下したといううわさが流布した。それはなぜかという問題だった。今年3月の大阪地裁判決では「援護法適用が意識される以前から隊長命令説が存在しており、ねつ造という主張には疑問がある」と正しく判断した。しかし原点に帰って考えると「戦時中、国に協力したから援護法で年金や弔慰金を支給しろ」ではなく、被害者として補償金を要求する視点もあったはずだ。あまり知られていないが1970年代には「沖縄戦被災者補償期成連盟」という組織と運動があった。しかし80年代に消えてしまった。
次に、沖縄戦「集団自決」は植民地侵略戦争のなかで起きたものであり日本軍の住民犠牲の事例のひとつであることを、林博史さんがていねいに論じている(季刊戦争責任研究2008年夏号)。戦時中「玉砕」といわれたものが戦後「集団自決」という名に変わった。現在「集団死」と呼び変えようという運動がある。「子どもは自決しない」など、もっともな論点はたしかにある。しかし「集団自決」には、愛するがゆえに殺してあげるという極限状態での悲劇という意味もこめられている。それを「集団死」と言ってしまうと抵抗の主体が消え、責任主体が消えてしまうのではないだろうか。
ディスカッションより
沖縄の加害責任の問題がある。しかしだれがそれを言えるのだろうか。ヤマトンチュにはいえないのではないか。
被害者意識を突き詰めると加害の意識が出てくる。そこから抵抗が可能になる。
☆会場周辺は、ものものしい警戒体制が敷かれていた。いつもこのグループの集会は公安や警官が多数出動するが、この日は区民会館の前の道60mほどを鉄パイプのゲートで完全に封鎖していた。そのゲートのところで2人の警官が「どちらへいらっしゃいますか」と一人一人に尋ねる。わたくしは遅れていったが、もっと早い時間には顔写真も撮影していたかもしれない。2.26事件の戒厳令下の皇居付近はこんな雰囲気だったのかと想像させられた。
