4月半ばだというのに、散り残りの桜や海棠のピンクの花の下、地面には雪がうっすら積る不順な気候のなか、新国立劇場で「夢の裂け目」を観た。これは東京裁判3部作の1作目で、初演は2001年である。2003年の「夢の泪」、06年の「夢の痂(かさぶた)」は観たが、1作目は観ていない。7年ぶりの再演が決まったので観に行った。作者の井上ひさし氏の訃報が報じられ1週間も経たない時期の観劇だった。
新国立劇場のサイトに出ているこの芝居のあらすじは下記のとおり。
昭和21年6月から7月にかけて、奇跡的に焼け残った街、東京・根津の紙芝居屋の親方、天声こと田中留吉(角野卓造)に起こった滑稽で恐ろしい出来事。講釈師から活動弁士を経て紙芝居という「語り物」の日本の芸能の系譜をひく“しゃべる男”天声が、突然GHQ・国際検事局から「東京裁判に検察側の証人として出廷せよ」と命じられ、民間検事局勤務の川口ミドリ(土居裕子)から口述書をとられる。ふるえあがる天声。
岳父の紙芝居の絵描き・清風(木場勝己)、都立第一高女を卒業したばかりの娘・道子(藤谷美紀)、妹で元柳橋の芸妓・君子(熊谷真実)、君子の柳橋の同僚・妙子(キムラ緑子)、失業中の映写技師・川本孝(大鷹明良)、紙芝居大好きな復員兵・関谷三郎(高橋克実)、謎の闇ブローカー・成田耕吉(石井一孝)ら、家中の者を総動員して「極東国際軍事法廷証人心得」を脚本がわりに予行演習をする。そのうちに熱が入り、家の中が天声や周囲の人間の〈国民としての戦争犯罪を裁く家庭法廷〉といった様相を呈しはじめる。
そして出廷。東条英機らの前で大過なく証言を済ませた天声は、東京裁判の持つ構造に重大なカラクリがあることを発見するのだが・・・・・・。
まず、シナリオについて。「紙芝居」に焦点を絞り、とてもまとまりがよい。登場人物は紙芝居の一座の民主天声会という家族のような集団。ストーリーは、当たり作の「満月狸ばやし」を中心に据え、東京裁判をからませる。天声は、一躍「有名人」になった直後に占領目的妨害罪容疑で逮捕され、「夢の裂け目」に真っ逆さまに転落する。それを未来の妻である女性伝道士が救いハッピーエンドで終わる。
なお、資料調べが緻密な井上らしく、東京裁判開廷1ヵ月半後の46年6月21日、本当に日本紙芝居協会会長・佐木秋夫氏が「国策紙芝居」について証言し、紙芝居を実演したそうだ。
テーマは、昭和天皇の戦争責任と庶民(フツー人)の戦争責任と、わかりやすくシンプルである。「その『でも』のつづきものが、あたしたちの暮らしなんだよ」という清風の道子へのことばが結論のようだ。
登場人物は、主人公の天声を中心に男女4人ずつとバランスが取れている。フツー人6人にインテリ2人の組み合わせである。
プロローグは46歳の天声の半生記で始まり、エピローグは10年後の9人の生活を紹介するカーテンコールで終わる。9人のうち4組8人はカップルになっている。1956年には、紙芝居の夢の時代が街頭テレビの時代に移り変わり「もはや戦後ではなく」なっている。
次に音楽の比重の高さについて。井上の芝居はもともと音楽が多いが、この3部作で「音楽劇」が完成したといえる。曲は、1幕で8曲、2幕で6曲、宇野が作曲した2曲以外はすべてクルト・ワイルの曲だった。
プロローグは「ところは東京鳥越、小さな下駄屋にある日おおめでたく生まれた子がいて・・・」の「しゃべる男」(The Saga of Jenny)で始まる。重要な場面には必ず歌が付いている。たとえば「あたしらはみんな豆腐が好きで、鰹節かけてくうフツー人」の「フツー人行進曲」(Green-Up Time)、「男の子はかけだして行き深い裂け目に真っ逆さま、落ちながら振り向いた顔はあなたなの」の「夢の裂け目」(Ach Bedenken Sie)など。
また登場人物のテーマソングが歌われる。道子の歌は「一度だけの人生どう生きればいい、考えるたびに頭が痛む」の「ズキン!」(One Life to Live)、ミドリの歌は「いまは亡き父は伝道士、プロテスタントのメソジスト宗派のすぐれた指導者」の「伝道士の娘のワルツ」(Salomon Song)。
木場も藤谷もとても歌がうまいが、歌となると東京芸大出身の土居裕子とミュージカル出身の石井一孝が当然ながら抜群にうまい。音楽劇となると、こういうランクの歌手が2人は出ていないとつらい。再演で起用された土居と石井は、たぶん意識した配役なのだろうが、インテリ役2人に割り当てられている。
「きらめく星座」「太鼓たたいて笛ふいて」など、朴勝哲が舞台の上や舞台の前でキーボードを演奏する芝居がいくつかあったが、この3部作では、新国立劇場小劇場の奥行きの深い舞台を生かし、手前にピットがつくられていた。左手にチューバとパーカッション、右手にキーボードとウッドウィンズ(クラリネット、サックスの持ち替え)の席がある。キーボードはおなじみの朴勝哲、チューバは佐藤桃という女性だった。心が弾むようないい演奏だった。
役者はみんなうまいが、藤谷美紀が可憐だった。「きらめく星座」の斉藤とも子を思い出した。キムラ緑子は元・柳橋の芸者、上海で日本料理屋をやっていたが一文無しで帰国、10年後は酒屋のおかみさんという役どころだった。「おとうと」で鶴瓶の同棲相手を演じていたが、太地喜和子のような華のある役もできそうだった。
土居の演技ははじめて観たが、キリッとしていて好感がもてた。また観たい。
カーテンコールは、「マックザナイフ」の音楽に合わせて役者が登場した。観客の手拍子で、とても盛り上がった。スタンディングオベイをしている人が2人いた。役者よし、楽団よし、夢のような3時間だった。
☆わたくしがはじめて井上ひさしの芝居をみたのは、テレビでみた「きらめく星座」(85年)だった。はじめて舞台をみたのは「頭痛肩こり樋口一葉」(91年)で、それから毎年1本は観てきた。「マンザナ、わが町」(93年)以降たびたび新作も観た。遅筆堂と異名を取るだけあり、初日が2回も延びることもありヒヤヒヤすることが多かった。だんだんコツがわかり初日から2週間ほど離してチケットを予約するようにした。もう新作を観られなくなったと思うと残念だ。
新国立劇場のサイトに出ているこの芝居のあらすじは下記のとおり。
昭和21年6月から7月にかけて、奇跡的に焼け残った街、東京・根津の紙芝居屋の親方、天声こと田中留吉(角野卓造)に起こった滑稽で恐ろしい出来事。講釈師から活動弁士を経て紙芝居という「語り物」の日本の芸能の系譜をひく“しゃべる男”天声が、突然GHQ・国際検事局から「東京裁判に検察側の証人として出廷せよ」と命じられ、民間検事局勤務の川口ミドリ(土居裕子)から口述書をとられる。ふるえあがる天声。
岳父の紙芝居の絵描き・清風(木場勝己)、都立第一高女を卒業したばかりの娘・道子(藤谷美紀)、妹で元柳橋の芸妓・君子(熊谷真実)、君子の柳橋の同僚・妙子(キムラ緑子)、失業中の映写技師・川本孝(大鷹明良)、紙芝居大好きな復員兵・関谷三郎(高橋克実)、謎の闇ブローカー・成田耕吉(石井一孝)ら、家中の者を総動員して「極東国際軍事法廷証人心得」を脚本がわりに予行演習をする。そのうちに熱が入り、家の中が天声や周囲の人間の〈国民としての戦争犯罪を裁く家庭法廷〉といった様相を呈しはじめる。
そして出廷。東条英機らの前で大過なく証言を済ませた天声は、東京裁判の持つ構造に重大なカラクリがあることを発見するのだが・・・・・・。
まず、シナリオについて。「紙芝居」に焦点を絞り、とてもまとまりがよい。登場人物は紙芝居の一座の民主天声会という家族のような集団。ストーリーは、当たり作の「満月狸ばやし」を中心に据え、東京裁判をからませる。天声は、一躍「有名人」になった直後に占領目的妨害罪容疑で逮捕され、「夢の裂け目」に真っ逆さまに転落する。それを未来の妻である女性伝道士が救いハッピーエンドで終わる。
なお、資料調べが緻密な井上らしく、東京裁判開廷1ヵ月半後の46年6月21日、本当に日本紙芝居協会会長・佐木秋夫氏が「国策紙芝居」について証言し、紙芝居を実演したそうだ。
テーマは、昭和天皇の戦争責任と庶民(フツー人)の戦争責任と、わかりやすくシンプルである。「その『でも』のつづきものが、あたしたちの暮らしなんだよ」という清風の道子へのことばが結論のようだ。
登場人物は、主人公の天声を中心に男女4人ずつとバランスが取れている。フツー人6人にインテリ2人の組み合わせである。
プロローグは46歳の天声の半生記で始まり、エピローグは10年後の9人の生活を紹介するカーテンコールで終わる。9人のうち4組8人はカップルになっている。1956年には、紙芝居の夢の時代が街頭テレビの時代に移り変わり「もはや戦後ではなく」なっている。
次に音楽の比重の高さについて。井上の芝居はもともと音楽が多いが、この3部作で「音楽劇」が完成したといえる。曲は、1幕で8曲、2幕で6曲、宇野が作曲した2曲以外はすべてクルト・ワイルの曲だった。
プロローグは「ところは東京鳥越、小さな下駄屋にある日おおめでたく生まれた子がいて・・・」の「しゃべる男」(The Saga of Jenny)で始まる。重要な場面には必ず歌が付いている。たとえば「あたしらはみんな豆腐が好きで、鰹節かけてくうフツー人」の「フツー人行進曲」(Green-Up Time)、「男の子はかけだして行き深い裂け目に真っ逆さま、落ちながら振り向いた顔はあなたなの」の「夢の裂け目」(Ach Bedenken Sie)など。
また登場人物のテーマソングが歌われる。道子の歌は「一度だけの人生どう生きればいい、考えるたびに頭が痛む」の「ズキン!」(One Life to Live)、ミドリの歌は「いまは亡き父は伝道士、プロテスタントのメソジスト宗派のすぐれた指導者」の「伝道士の娘のワルツ」(Salomon Song)。
木場も藤谷もとても歌がうまいが、歌となると東京芸大出身の土居裕子とミュージカル出身の石井一孝が当然ながら抜群にうまい。音楽劇となると、こういうランクの歌手が2人は出ていないとつらい。再演で起用された土居と石井は、たぶん意識した配役なのだろうが、インテリ役2人に割り当てられている。
「きらめく星座」「太鼓たたいて笛ふいて」など、朴勝哲が舞台の上や舞台の前でキーボードを演奏する芝居がいくつかあったが、この3部作では、新国立劇場小劇場の奥行きの深い舞台を生かし、手前にピットがつくられていた。左手にチューバとパーカッション、右手にキーボードとウッドウィンズ(クラリネット、サックスの持ち替え)の席がある。キーボードはおなじみの朴勝哲、チューバは佐藤桃という女性だった。心が弾むようないい演奏だった。
役者はみんなうまいが、藤谷美紀が可憐だった。「きらめく星座」の斉藤とも子を思い出した。キムラ緑子は元・柳橋の芸者、上海で日本料理屋をやっていたが一文無しで帰国、10年後は酒屋のおかみさんという役どころだった。「おとうと」で鶴瓶の同棲相手を演じていたが、太地喜和子のような華のある役もできそうだった。
土居の演技ははじめて観たが、キリッとしていて好感がもてた。また観たい。
カーテンコールは、「マックザナイフ」の音楽に合わせて役者が登場した。観客の手拍子で、とても盛り上がった。スタンディングオベイをしている人が2人いた。役者よし、楽団よし、夢のような3時間だった。
☆わたくしがはじめて井上ひさしの芝居をみたのは、テレビでみた「きらめく星座」(85年)だった。はじめて舞台をみたのは「頭痛肩こり樋口一葉」(91年)で、それから毎年1本は観てきた。「マンザナ、わが町」(93年)以降たびたび新作も観た。遅筆堂と異名を取るだけあり、初日が2回も延びることもありヒヤヒヤすることが多かった。だんだんコツがわかり初日から2週間ほど離してチケットを予約するようにした。もう新作を観られなくなったと思うと残念だ。