731部隊の正式名称は関東軍防疫給水部本部。細菌戦、毒ガス戦、「マルタ」と呼ばれた人体実験被験者、乳児の凍傷実験、銃弾実験など、当時でもハーグ陸戦条約3条違反などの戦争犯罪を続々と引き起こした部隊だった。しかも部隊長・石井四郎はじめ京都帝大などの医学者・医師が多数直接関与し、戦後「医学と倫理」の問題を問うこととなった。日本軍の加害責任の典型事例である。こうした概略は断片的には知っていたが、わたしは詳細を知らぬままだった。
8月11日(日)午後、中央区・月島社会教育会館で「731部隊は中国で何を行ったのか」という 奈須重雄さん(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)の講演を聞いた(主催:平和をねがう中央区民の戦争展実行委員会 参加:80人)。
この講演は731部隊の問題のうち、細菌戦が主たるテーマだった。写真、地図、表、絵、現地視察したときの写真、インタビューした被害者など多数の画像がプロジェクタで映し出され、細かいエピソードや証言が豊富に紹介された。それでも細菌戦の話の半分くらいに過ぎないとのことだった。基礎知識がないので理解が追いつかない。そこで配布されたレジュメの記載を中心に紹介する。
731部隊は中国で何を行ったのか
奈須重雄さん(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)
731部隊は旧満州国の真ん中あたり、新京(長春)の北、牡丹江の西にある都市ハルビンにあった。1931年9月が満州事変、32年3月満州国が建国され、4月に新宿・戸山の軍医学校を拡張し防疫研究室が発足し、8月に石井四郎ら5人の軍医を配属、早くも9月に満州国コレラ調査を行った。33年には職員を満洲に派遣したが、これが731部隊(東郷部隊)の始まりだった。
■731部隊の職務
731部隊は、細菌戦の研究および実行を目的とした。細菌戦とは、人、動物(家畜)、植物(穀物)に、微生物や生物的毒素などを兵器として用いることで、新兵器として期待された。石井は「細菌兵器は経費も少なくすみ資源の乏しい日本に適している。何よりも効果が大きい。ヨーロッパに遅れをとらないことが必要だ」と主張した。
36年に関東軍防疫給水部となったが、北支那(北京)、中支那(南京)、南支那(広東)、南方(シンガポール)にも同様の組織が配置され、細菌戦を担った。そして東京の陸軍軍医学校も含めネットワークを組んでいた。
731部隊は、ペスト菌などの病原体を航空機から空中撒布したり、地上撒布を行った。また病理データや疫学データを得るため、そしてワクチンを開発するため、人体実験を繰り返した。どのくらい病原菌を撒けばどのくらい発病し死亡するか、調べた。兵士が病気の流行地に赴くので、ワクチン開発と細菌戦はセットだった。
また戦後1947年にアメリカが事情聴取したフェル・レポートによれば、50%の人が感染する目安であるMID50を調べる人体実験が重要で、皮下注射、経口感染、空気感染などの人体実験を繰り返した。
細菌を多く扱ったが、当時の少年兵の証言によれば「ほとんどの細菌は透明感があり、きれいだった。ペスト菌は納豆のようだった」とのことだ。ノミの大量生産も重要な仕事で石油缶を半分にしたものの下のほうにノミ床をつくり、その上に動かないようにしたラッテ(大黒ネズミ)を飼うと4週で大量のノミを得ることができた。ノミは光を避ける習性があり、それを利用し分離して取り出した。ペストノミがネズミに感染し、それがヒトやネコ、イヌに感染するというルートを想定していた。
731部隊の規模は、軍人(軍医、薬剤、衛生、歩兵など)1344人、技師・看護婦長・通訳・現場監督など軍属2208人で合計3552人(2003年時留守名簿による)と大きかった。
■実行された細菌戦
最初に細菌戦が実行されたのは1939年のノモンハン事件だった。しかし敵・ソ連軍への効果はなく、部隊に経験を積ませたようなものだった。
●農安、農安・大賚
翌40年吉林省の農安で6月4日ペストノミを5g(1万匹)地上で撒布した。当時の農安県城内の人口は3300人だったが、一次感染で8人が死亡、二次感染で607人が死亡し、かなりの「効果」を上げた。
また農村部の農安から大賚(だいらい)の152キロの地帯に4日かけてペストノミ10g(2万匹)を地上撒布した。一次感染死者12人、二次感染死者は2424人に上った。
このデータは、東京帝大出身の軍医・金子順一が1943年に陸軍軍医学校防疫研究報告に掲載し、戦後復員して学位請求論文として大学に提出したもので2011年に発見された公文書だ。感染死者の数などはともかく、当時の731部隊の軍医が日本軍による細菌戦実行を認めた事実は重要だ。
農安は物資の集積地だったので、9月末には首都新京にペストが伝播し、日本人15人、中国人13人の患者を出した。731部隊も防疫隊として派遣された。患者を隔離病院に移したり、ネズミを八万数千匹買い上げ、解剖して調べた。
満洲は植民地国家だったので、本当に細菌戦ができるか確認したかったのではなかろうか。また自然流行との違いがあるかどうか調べたかった。違いはほとんどなかった。
●寧波
10月27日、浙江省の重要港・寧波(にんぽう)に航空機から2kgのペストノミを撒布し、一次感染死者104人、二次感染死者1450人を出した。これは金子論文だけでなく、陸軍参謀・井本熊男の詳細な「井本日誌」でも確認できる。この資料は1993年に発見された。寧波から逃げ出した人の行先を調べ、すべて元の家に連れ戻した。領事館の報告にも320人の患者が発生したとの記述がある。
●常徳
16年11月には湖南省常徳で1.6kgのペストノミを航空機から撒布した。井本日誌にも記述されている。常徳は「湖南実れば四川飢えず」といわれた湖南の中心都市だった。人の出入りも多く、多くの患者が発生した。金子論文では一次感染死亡者310人、二次感染死者2500人に上った。聶莉莉さん(ニエ・リリ 東京女子大学教授)の鑑定意見書では周辺都市を入れて死者7600人(日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会)とある。家族全員が死亡した「絶戸」も数多い。
話の最後に、講師から署名のお願いがあった。京都大学総長と医学研究科長宛てで「旧満洲第 731 部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます」というものだ(満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会)。イヌノミのペスト媒介能力についての実験・研究について、論文中の「Ⅶ 特殊實驗」の項 3)で用いられた実験動物のサルは実はヒトではなかったかとの疑いがある、というものだ。発症したサルが「頭痛、高熱、食欲不振を起こした」とあるがいくらなんでも「頭痛」はないだろう、というものだ。もちろん署名に協力した。
講演後、質問する時間があったので「裁判以外の方法で、今後どういうことかできるか」お聞きした。というのは、1997年8月に180人の中国人被害者が日本政府に国家賠償請求訴訟を提訴したが、国家無答責の法理などにより2007年5月最高裁で敗訴したというからだ。これほどはっきり証拠がある戦争犯罪が犯罪にならないとは、と思った。金子論文の死者だけ合計しても19000人になる(引用した以外に4都市あり)。裁判そのものは何度でも起こせるが、結果は同じことになるだろう。奈須さんの回答は、ひとつは国会の場で質問してもらうこと、もうひとつは防衛省に非公開の細菌戦関連史料が多くあることは明らかなので公表を求めること、とのことだった。
講演のあと、2つのアピールがあった。ひとつは2018年6月から今年8月までの1年の間に主として高校生に聞いた平和憲法の意識調査の報告だった。
「安倍首相が憲法9条を変えようとしていることを聞いたことがありますか?」「(それを)どう思いますか?」「普段、平和や憲法について学んだり話し合ったりすることはありますか?」といった問いに対する回答は、「わからない」が半数以上、賛成であっても「戦争にまきこまれるのは不安」など、けして望まれているとはいいがたい。平和や憲法について「考えることがある」は半数以上だが「話し合う」のは1/3にとどまった。
「日本が平和な世界をつくるために必要なことは?」という問いに、「東アジアでの平和共同体」「医療、教育、技術援助」「日米同盟の強化、東アジア平和共同体」「在日米軍をなくす」などの項目を選択し、コメントを書くようになっていた。自由記述として「平和な世界をつくるために他国へ援助することが必要で、授業でも少しふれたことがあるから」(16歳)、「東アジアで核兵器を使わない条約を作るため、唯一のヒバク国なのでなくすことを日本が発信すべき」(14歳)、「沖縄を見に行った時、多くてうるさかったので」(17歳)など、おとなが回答してもこんなものだろう(いや、高校生のほうが立派かも)。ずいぶん前の記事だが、増田都子さんが中学で指導した「紙上討論」を思い出した。
もうひとつは、東京2区で野党共闘運動を進める「ぶたちゅう」による本間龍さん(元・博報堂)の広告代理店と憲法「改正」に関する講演会(9月6日(金)18:30―21:00 文京区民センター)のお知らせだった。
☆この講演会は「平和をねがう中央区民の戦争展――平和プラザ2019」(8月10-11日)のプログラムのひとつだった。ほかに荻野富士夫さん(小樽商科大学名誉教授)の講演「しのびよる戦時体制」、報告と討論「俳句弾圧事件と日本の司法制度について」など、「侵略戦争、中国人強制連行など証言3部作」などのDVD上映、ワークショップ「しるしる憲法」、「原爆を許すまじ」「青い空は」ほか合唱団エーデルワイスの合唱、新婦人中央支部の朗読など盛りだくさんのイベントだった。2000年に始まり、池田香代子さん、堤未果さん、高橋哲哉さんなどを講師に招き今回で20回になるそうだ。
展示されたパネルのごく一部
会場壁面には、もちろん731部隊関係のパネルも多く掲示されていた。731部隊と100部隊(1936年に設置された関東軍軍馬防疫廠)、731部隊組織表、細菌部隊医学者の戦後(石井四郎はじめ37人の戦後の経歴が記載されている。東大教授、京大医学部長、京都府立医大学長、金沢大医学部長、国立予防衛生研究所長、ミドリ十字、武田薬品など錚々たる肩書が並ぶ。つまり司法界と同様に戦時中の体制がそのまま戦後に温存されたということだ)、「マルタ」「人体実験」などのパネルがあった。この日の講演には出てこなかった「炭疽」「流行性出血熱」「毒ガス実験」「赤ん坊への凍傷実験」のパネルも展示されていた。
また、新婦人中央支部の平和の「絵手紙」が掲示されていた。なかには「お国ことばで語る日本国憲法第9条 福井県」もあり、「世の中が乱れることがないようにぃ安心して住んでいられるぅ」「ほやでぇ そのために戦争するための陸軍、海軍、空軍やらあ」などの思いとともにアジサイやヒマワリなどの花が描かれていた。
エーデルワイスの合唱
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
8月11日(日)午後、中央区・月島社会教育会館で「731部隊は中国で何を行ったのか」という 奈須重雄さん(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)の講演を聞いた(主催:平和をねがう中央区民の戦争展実行委員会 参加:80人)。
この講演は731部隊の問題のうち、細菌戦が主たるテーマだった。写真、地図、表、絵、現地視察したときの写真、インタビューした被害者など多数の画像がプロジェクタで映し出され、細かいエピソードや証言が豊富に紹介された。それでも細菌戦の話の半分くらいに過ぎないとのことだった。基礎知識がないので理解が追いつかない。そこで配布されたレジュメの記載を中心に紹介する。
731部隊は中国で何を行ったのか
奈須重雄さん(NPO法人731部隊・細菌戦資料センター理事)
731部隊は旧満州国の真ん中あたり、新京(長春)の北、牡丹江の西にある都市ハルビンにあった。1931年9月が満州事変、32年3月満州国が建国され、4月に新宿・戸山の軍医学校を拡張し防疫研究室が発足し、8月に石井四郎ら5人の軍医を配属、早くも9月に満州国コレラ調査を行った。33年には職員を満洲に派遣したが、これが731部隊(東郷部隊)の始まりだった。
■731部隊の職務
731部隊は、細菌戦の研究および実行を目的とした。細菌戦とは、人、動物(家畜)、植物(穀物)に、微生物や生物的毒素などを兵器として用いることで、新兵器として期待された。石井は「細菌兵器は経費も少なくすみ資源の乏しい日本に適している。何よりも効果が大きい。ヨーロッパに遅れをとらないことが必要だ」と主張した。
36年に関東軍防疫給水部となったが、北支那(北京)、中支那(南京)、南支那(広東)、南方(シンガポール)にも同様の組織が配置され、細菌戦を担った。そして東京の陸軍軍医学校も含めネットワークを組んでいた。
731部隊は、ペスト菌などの病原体を航空機から空中撒布したり、地上撒布を行った。また病理データや疫学データを得るため、そしてワクチンを開発するため、人体実験を繰り返した。どのくらい病原菌を撒けばどのくらい発病し死亡するか、調べた。兵士が病気の流行地に赴くので、ワクチン開発と細菌戦はセットだった。
また戦後1947年にアメリカが事情聴取したフェル・レポートによれば、50%の人が感染する目安であるMID50を調べる人体実験が重要で、皮下注射、経口感染、空気感染などの人体実験を繰り返した。
細菌を多く扱ったが、当時の少年兵の証言によれば「ほとんどの細菌は透明感があり、きれいだった。ペスト菌は納豆のようだった」とのことだ。ノミの大量生産も重要な仕事で石油缶を半分にしたものの下のほうにノミ床をつくり、その上に動かないようにしたラッテ(大黒ネズミ)を飼うと4週で大量のノミを得ることができた。ノミは光を避ける習性があり、それを利用し分離して取り出した。ペストノミがネズミに感染し、それがヒトやネコ、イヌに感染するというルートを想定していた。
731部隊の規模は、軍人(軍医、薬剤、衛生、歩兵など)1344人、技師・看護婦長・通訳・現場監督など軍属2208人で合計3552人(2003年時留守名簿による)と大きかった。
■実行された細菌戦
最初に細菌戦が実行されたのは1939年のノモンハン事件だった。しかし敵・ソ連軍への効果はなく、部隊に経験を積ませたようなものだった。
●農安、農安・大賚
翌40年吉林省の農安で6月4日ペストノミを5g(1万匹)地上で撒布した。当時の農安県城内の人口は3300人だったが、一次感染で8人が死亡、二次感染で607人が死亡し、かなりの「効果」を上げた。
また農村部の農安から大賚(だいらい)の152キロの地帯に4日かけてペストノミ10g(2万匹)を地上撒布した。一次感染死者12人、二次感染死者は2424人に上った。
このデータは、東京帝大出身の軍医・金子順一が1943年に陸軍軍医学校防疫研究報告に掲載し、戦後復員して学位請求論文として大学に提出したもので2011年に発見された公文書だ。感染死者の数などはともかく、当時の731部隊の軍医が日本軍による細菌戦実行を認めた事実は重要だ。
農安は物資の集積地だったので、9月末には首都新京にペストが伝播し、日本人15人、中国人13人の患者を出した。731部隊も防疫隊として派遣された。患者を隔離病院に移したり、ネズミを八万数千匹買い上げ、解剖して調べた。
満洲は植民地国家だったので、本当に細菌戦ができるか確認したかったのではなかろうか。また自然流行との違いがあるかどうか調べたかった。違いはほとんどなかった。
●寧波
10月27日、浙江省の重要港・寧波(にんぽう)に航空機から2kgのペストノミを撒布し、一次感染死者104人、二次感染死者1450人を出した。これは金子論文だけでなく、陸軍参謀・井本熊男の詳細な「井本日誌」でも確認できる。この資料は1993年に発見された。寧波から逃げ出した人の行先を調べ、すべて元の家に連れ戻した。領事館の報告にも320人の患者が発生したとの記述がある。
●常徳
16年11月には湖南省常徳で1.6kgのペストノミを航空機から撒布した。井本日誌にも記述されている。常徳は「湖南実れば四川飢えず」といわれた湖南の中心都市だった。人の出入りも多く、多くの患者が発生した。金子論文では一次感染死亡者310人、二次感染死者2500人に上った。聶莉莉さん(ニエ・リリ 東京女子大学教授)の鑑定意見書では周辺都市を入れて死者7600人(日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会)とある。家族全員が死亡した「絶戸」も数多い。
話の最後に、講師から署名のお願いがあった。京都大学総長と医学研究科長宛てで「旧満洲第 731 部隊軍医将校の学位授与の検証を求めます」というものだ(満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会)。イヌノミのペスト媒介能力についての実験・研究について、論文中の「Ⅶ 特殊實驗」の項 3)で用いられた実験動物のサルは実はヒトではなかったかとの疑いがある、というものだ。発症したサルが「頭痛、高熱、食欲不振を起こした」とあるがいくらなんでも「頭痛」はないだろう、というものだ。もちろん署名に協力した。
講演後、質問する時間があったので「裁判以外の方法で、今後どういうことかできるか」お聞きした。というのは、1997年8月に180人の中国人被害者が日本政府に国家賠償請求訴訟を提訴したが、国家無答責の法理などにより2007年5月最高裁で敗訴したというからだ。これほどはっきり証拠がある戦争犯罪が犯罪にならないとは、と思った。金子論文の死者だけ合計しても19000人になる(引用した以外に4都市あり)。裁判そのものは何度でも起こせるが、結果は同じことになるだろう。奈須さんの回答は、ひとつは国会の場で質問してもらうこと、もうひとつは防衛省に非公開の細菌戦関連史料が多くあることは明らかなので公表を求めること、とのことだった。
講演のあと、2つのアピールがあった。ひとつは2018年6月から今年8月までの1年の間に主として高校生に聞いた平和憲法の意識調査の報告だった。
「安倍首相が憲法9条を変えようとしていることを聞いたことがありますか?」「(それを)どう思いますか?」「普段、平和や憲法について学んだり話し合ったりすることはありますか?」といった問いに対する回答は、「わからない」が半数以上、賛成であっても「戦争にまきこまれるのは不安」など、けして望まれているとはいいがたい。平和や憲法について「考えることがある」は半数以上だが「話し合う」のは1/3にとどまった。
「日本が平和な世界をつくるために必要なことは?」という問いに、「東アジアでの平和共同体」「医療、教育、技術援助」「日米同盟の強化、東アジア平和共同体」「在日米軍をなくす」などの項目を選択し、コメントを書くようになっていた。自由記述として「平和な世界をつくるために他国へ援助することが必要で、授業でも少しふれたことがあるから」(16歳)、「東アジアで核兵器を使わない条約を作るため、唯一のヒバク国なのでなくすことを日本が発信すべき」(14歳)、「沖縄を見に行った時、多くてうるさかったので」(17歳)など、おとなが回答してもこんなものだろう(いや、高校生のほうが立派かも)。ずいぶん前の記事だが、増田都子さんが中学で指導した「紙上討論」を思い出した。
もうひとつは、東京2区で野党共闘運動を進める「ぶたちゅう」による本間龍さん(元・博報堂)の広告代理店と憲法「改正」に関する講演会(9月6日(金)18:30―21:00 文京区民センター)のお知らせだった。
☆この講演会は「平和をねがう中央区民の戦争展――平和プラザ2019」(8月10-11日)のプログラムのひとつだった。ほかに荻野富士夫さん(小樽商科大学名誉教授)の講演「しのびよる戦時体制」、報告と討論「俳句弾圧事件と日本の司法制度について」など、「侵略戦争、中国人強制連行など証言3部作」などのDVD上映、ワークショップ「しるしる憲法」、「原爆を許すまじ」「青い空は」ほか合唱団エーデルワイスの合唱、新婦人中央支部の朗読など盛りだくさんのイベントだった。2000年に始まり、池田香代子さん、堤未果さん、高橋哲哉さんなどを講師に招き今回で20回になるそうだ。
展示されたパネルのごく一部
会場壁面には、もちろん731部隊関係のパネルも多く掲示されていた。731部隊と100部隊(1936年に設置された関東軍軍馬防疫廠)、731部隊組織表、細菌部隊医学者の戦後(石井四郎はじめ37人の戦後の経歴が記載されている。東大教授、京大医学部長、京都府立医大学長、金沢大医学部長、国立予防衛生研究所長、ミドリ十字、武田薬品など錚々たる肩書が並ぶ。つまり司法界と同様に戦時中の体制がそのまま戦後に温存されたということだ)、「マルタ」「人体実験」などのパネルがあった。この日の講演には出てこなかった「炭疽」「流行性出血熱」「毒ガス実験」「赤ん坊への凍傷実験」のパネルも展示されていた。
また、新婦人中央支部の平和の「絵手紙」が掲示されていた。なかには「お国ことばで語る日本国憲法第9条 福井県」もあり、「世の中が乱れることがないようにぃ安心して住んでいられるぅ」「ほやでぇ そのために戦争するための陸軍、海軍、空軍やらあ」などの思いとともにアジサイやヒマワリなどの花が描かれていた。
エーデルワイスの合唱
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。