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安井仲治の位置

2012年01月16日 | 美術展など
兵庫県立美術館で企画写真展「安井仲治の位置」を見た。安井仲治(なかじ)は1903年12月大阪生まれ、6歳のとき伯父の養子となり宝塚で育ち20歳のころから写真を撮り始める。本職は伯父が創業した洋紙店の経営者だが、心斎橋の丹平写真倶楽部のリーダーとして活躍した。42年38歳の若さで病没した。

わたくしがはじめて安井の作品をみたのは同じ県立美術館で、「流氓ユダヤ」シリーズの「窓」だった。その後、2011年7月、東京工芸大学写大ギャラリーで「安井仲治写真展 1930-1941」をみた。「山羊と半島婦人」(1937-40)、「山根曲馬団」(1940)、そして有名な「流氓ユダヤ」の「横顔」などドラマ性のある作品が好きになった。
ところで丹平写真倶楽部の丹平とは、心斎橋二丁目の丹平製薬の森平兵衛社長が1924年に建てた地上3階、地下1階のビルの名が丹平ハウスで、そこで活動したので会の名前にしたものである。1階には喫茶店と薬局、写真材料店、2階は美容室と写真スタジオ、赤松洋画研究所、3階が展示会場と暗室というモダンなビルだった。
今回の展覧会は、2010年に30点をモダンプリントしたものが遺族から寄贈され実現した。
なお下記の記事は「安井仲治写真作品集」(共同通信社 2004.11)を参考にしている。
男性の右目と鼻の右側をアップにした「凝視(1931)という印象的な写真のあと、30団体2万人が中之島公園に結集した1931年のメーデーをドキュメンタリー風に撮影した「旗」「検束」「歌」という左翼的な作品が展示されていた。この展覧会には安井の蔵書がたくさん展示されていた。そのなかに「ゲオルグ・グロッス(柳瀬正夢 鉄塔書院 1929)があった。21歳の村山知義がベルリンで見て「社会への目が開いた」思いをした画家である。安井は自分の愛犬に「トロツキー」という名前を付け「トロ」と呼んでいた。育った場所も学歴もまったく違うので、1920年代の「良家」の青年には似通った心情があったのかもしれない。
日の丸と海軍旗の後ろの赤ん坊を背負った母2人をアップにした「惜別」(1939-40)は、阿部合成の「見送る人々」(1937)を思い出させた。
「相克」(1932)は一見国鉄のガード下のレンガのようだが、じつは神戸の居留地跡の赤レンガに雑然と貼られたポスターを撮影したもので「エセ無産政党」「日本海員組合」「下山手六丁目青年会館」「税金は資本家地主からとれ」「労働者の敵だ。奴らをヤッけろ」といった文字が読み取れる。また石段に置いた斧と鎌を撮った「斧と鎌」(1931) は影が写りこみBとSという文字に見える。わたしは文字が好きなせいもあり、興味深く見た。
シュールレアリスティックな作品もいくつかあった。「海濱」(1936)は、傾いだ灯台の手前の草原に逆向きに傾いだ籐のバック(解説によれば転倒した乳母車)が置かれ、灯台の窓から電線が伸びている。そして左下隅に2人の男性が小さくシルエットで写っている。「作品」(1934)はビルの3つの窓に3人の女がいろんな向きで立っている作品で、ダリとブニュエルの「アンダルシアの犬(1929)に出てきてもおかしくないような構図だった。「恐怖」(1938)の少女の表情はなかなかすごい。
モダンプリントは、すべて24センチ×32センチ程度の小さめのサイズで統一されており、造形的な作品も芸術作品として面白い作品であることを発見した。たとえば鉄粉を磁石で引きつけて模様をつくる「磁力の表情」(1939)、身長計のようなネジがいくつか付いたポールが立ち花や雲が空中に浮かびまるで影絵芝居の背景を撮ったような「シルエットの構成」(1938)も「磁力の表情」は当初、グループのメンバー、手塚粲(ゆたか)の勤務先・住友金属のポスターになる予定だったが実現しなかった。この手塚とは手塚治虫の父のことで、家も宝塚だったので家族ぐるみのつきあいがあったそうだ。そのせいなのだろうが、企画展の謝辞に手塚真(治虫の長男)の名前があった。
そして名作「山羊と半島婦人」(1937-40)、「山根曲馬団」(1940)が2点、「流氓ユダヤ」(1941)が3点展示されていた。流氓ユダヤはリトアニアのカウナス領事館で杉原千畝にビザを発給され、シベリア鉄道経由で日本の神戸にたどりついたユダヤ人を撮影したものだ。41年4月には1600人が山本通り1丁目、中山手2丁目、中山手5丁目など5か所に分かれて滞在していた。3月に安井のほか、椎原治、田中銀芳、手塚粲らが一度撮影したが、気に入らず5月ごろ再撮影して丹平展に出展した。そういうわけで安井の作品は3点だが、その他の人が撮った作品20点ほどがスライドで上映されていた。写っている亡命ユダヤ人は男性が主だが、当然ながら女性や子どももいた。

山根曲馬団は、サーカスの馬と半ズボンの少女を撮った作品で2枚しか展示されていないが、もっとたくさん見たくなる作品だ。
 
安井は1901年生まれの村山知義とほぼ同年代である。
村山との接点はいくつかある。安井の蔵書に村山の「プロレタリア美術のために」(アトリエ社 1930)があった。赤い表紙の本だった。村山は創刊直後のアサヒカメラ(1巻2号 1926年5月号)に「写真の新しい機能」という論文を掲載した。この雑誌も展示されていたが、日本の新興写真運動に影響を与えた。また村山と岡田桑三は31年7月に「独逸国国際移動写真展」を開催(東京は4月)した。この写真展はモホリ・ナジが構成し1929年5月にシュツットガルトで開催された「Film und Foto」の写真部門を日本で巡回したもので、ナジ、マン・レイ、リシツキーの作品やモンタージュやフォトグラムの技法が紹介された。安井に強い刺激を与えた。村山にとっては1回目と2回目の豊多摩刑務所収監の合間の時期に当たる。
村山は2回目の出獄のあと34年に新協劇団を発足させ、37年冬、大阪朝日会館で「どん底」の公演を行った。このとき安井らは撮影会を行い、写真100点以上を劇団に寄贈した。そのうちの1枚「アクター」が展示されていた。

安井は、41年10月朝日講堂の「新体制国民講座」の「写真の発達と芸術的諸相」の講演を行ったあと12月に腎臓病で入院、42年3月に死去した。享年38。

☆いまから四半世紀前に「写真時代」(白夜書房)という雑誌が発行されていた。荒木経惟が中心の雑誌だったが、そのなかに森山大道の「仲治への旅」という連載があった。この仲治が安井仲治を指すとは思わなかった。84年9月号の連載2には森の上の黒雲、廃線の鉄路、のら犬、キャベツ、ネギ、ブーツなどの写真と文章が載っている。文はたとえば下記のようなものだ。
問6「天才って何ですか。」「荒木経惟です。」
  「じゃ、凡才とは?」「三木淳です。」
ナジ
(1895-1946)はハンガリー人でブダペスト大学法学部に入学したが、23歳で芸術家を志し、1919年にウィーン、20年にベルリンへ移住した。1923年から8年間グロピウスのバウハウスの教師として活躍した。ドイツ新興写真(ノイエ・フォト)の中心人物の1人である。わたしはベルリンのバウハウス資料館で1927-31年の写真の作品を4点見た。機会があればさらに多くの作品をみてみたい。

●「文字が薄い」というご指摘をいただきました。テンプレートと本文の文字色が連動しているとは知らなかったので、ためしにすこし濃くみえるものに変更してみました。ただでも文字量ばかり多くて読みにくく恐縮です
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