2022年11月に70歳で亡くなった大森一樹監督の遺著「映画監督はこれだから楽しい わが心の自叙伝」(リトルモア 2023.11.12 1800円)を読んだ。「自叙伝」の部分は没後の2023年1月から7月まで神戸新聞に連載された。それだけでは量が足りなかったからか、1973年から2000年、大森監督が20歳から48歳のころ著作や雑誌に発表した映画に関するエッセー14本を加え、ちょうど1年目の命日11月12日に刊行された。
三宮の森井本店のカウンターにて
自叙伝は、急性白血病で2度目の入院をした22年6月ごろ病室で書き始められ、夏に幹細胞移植を受けたあと10月に一度退院して自宅で書き続け、エピローグは死後大森さんのパソコンから家族が発見した。まさに絶筆である。後半のエッセーの最後は「子供たちへ」という書き出しの「少し早めの私の遺言」のなかの一篇、ただし48歳のときの作品である
自叙伝なので、もちろん大森さんの歩みが語られる。わたしは大森作品のいくつかには深い思い入れがあるが、大森さん個人については断片的な情報しかっ持っていなかった。だからわたしのような一個人ファンにとっては、珍しい話ばかりで興味深かった。
生まれ育ちは近鉄南大阪線の針中野(東住吉区)、小学4年10歳のとき、阪神本線の打出駅(芦屋市)北口徒歩10分くらいのところに引っ越す。放射線医の父の勤務先が近かったからだ。
市立精道中学に通っていた2年のとき「007ゴールドフィンガー」をみて夢中になり、「007/危機一髪」のパンフレットを何度も読み返し、主題歌のレコードを何度も聴いた。「映画は少年少女の夢物語以上に大人をたっぷり満足させる娯楽で、職人たちの芸だと確信した」(p14)。
六甲高校に入学すると映画好きの友人たちと映画研究会を創設し、8ミリ映画を2本つくった。父に見本として送られてきた富士フイルムのシングル8があったからだ。阪神間の高校生たちの自作映画上映会で、村上知彦ら他校の映画作家と知り合う。
1972年2浪して京都府立医科大学に入学、府立医大を選んだのは音楽活動は1年限定と宣言した北山修がとても格好良くみえたからだった。入学するやいなや「ヒロシマから遠く離れて」など8ミリ映画を立て続けに3本撮る。かつ日本映画4本立て200円の京一会館に入り浸った。その結果、進級判定不合格となり、三宮高架下の金盃森井本店で知り合った仲間たちのグループ「無国籍」で最後に1本映画を撮って、それで終わりにしようと決めた。
それが初めての16ミリ映画「暗くなるまで待てない!」(1975)だ。
森井本店の階段に貼られていたポスター
内容までは覚えていないが、わたしが好きな映画だった。ヒロイン・撫子(なでしこ)が個性的だったが、「元町の路上でアクセサリーを売っていた女の子」(p29)とある。
この作品は好評で、「ぴあシネマブティック」という名で上映イベント(のちのぴあフィルムフェスティバル)が行われた。全国各地の上映会、大学祭に出向き、4回生から5回生への進学でまたも留年した。「今何か映画を構想してますか?」と問われることが多く、脚本ぐらいは準備しておこうと書きだしたのが『オレンジロード急行(エクスプレス)』だった。
脚本家育成を目指す城戸賞にシナリオを送ったところ、思いもかけず受賞、さらに「城戸賞初受賞作品はぜひ松竹で映画化を、監督はあなたで」と運命が展開した(p33)。映画は78年3月末に完成し4月に全国公開、そして監督は医学部5回生をスタートした。
79年ATGのプロデューサー・佐々木史朗(新社長)から連絡があり「新生ATGのラインアップに大森も入って欲しいんだが、どうだろう?」(p36)と依頼される。
医学部最終学年の臨床実習というのは毎日発見があって面白く映画にならないかと思っていると話したら、それはいいかもしれないとなり『ヒポクラテスたち』は始まった(p36)。
その年のうちにシナリオを書き上げ、キャストも面接して古尾谷雅人、柄本明らを、自主映画から内藤剛志、キャンディーズを解散したばかりの伊藤蘭と準備は進んだ。明けて80年2月、難関の卒業試験をなんとかクリア、4月の医師国家試験も終え(撮影中に不合格を知らされたが)、5月京都・葵祭からクランクインした。11月に完成、公開(p36)。
「80年キネ旬のベストテンでは「ツィゴイネルワイゼン」「影武者」に続いての3位。ただの映画少年が鈴木清順、黒澤明に並んだのである。ベストワンよりも感激だった」(p37)。
アートシアター142号掲載の撮影風景(鈴木監督(映画の役は怪盗)、大森、堀田カメラマン)、DVDの裏表紙(表表紙は右のポスターと同じデザイン)、ピンボケで申し訳ないが森井本店の壁に掲示されたサイン入りポスター
この年8月に大学の同級生だった眼科医と結婚、媒酌人は大林宣彦監督夫妻、主賓は鈴木清順監督、12月に長女が誕生した(p42)。87年に長男誕生。
その後、ナベプロ・渡辺晋がプロデュースした大型新人アーティスト・吉川晃司の3部作(1984-86)、田中友幸プロデューサーとつくったゴジラ映画(91-95)、斉藤由貴主演の「恋する女たち」(86)など3本の作品、神戸市制100周年記念映画・古手川祐子がヒロインの「花の降る午後」(89)、東映のやくざ映画「継承盃」(92)、「大失恋」(95)、渡哲也の復帰第一作「わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語」(96)など幅広いジャンルの作品について語られる。
最後は、大阪芸術大学映像学科の学科長としてのトピックと病気の話である。
自叙伝の最終ページは、
「映画館へ行こう 映画館へ行こう
友達を連れて 恋人を連れて 息子を連れて
映画館へ行こう 映画館へ行こう
親父を連れて 女房を連れて 娘を連れて
映画館のいすには 白い翼が生えていて
どんな世界へも どんな時代へも 飛んでいけるのさぁ99年に」
という99年公開の短編映画『明るくなるまでこの恋を』のテーマ曲「映画館へ行こう」の歌詞と監督の撮影風景の見開きで締めくくられる。この映画は宝塚の公設民営映画館「シネ・ピピア」の開館を祝して制作された。
中学生からの映画ファンが監督になり、幅広いジャンルの「娯楽」映画を撮った「夢のような」70年の人生だったようだ。
第2部随筆集では、映画好きになったプロセス、映画への大森さんの向き合い方など映画との個人的関係、映画論、映画監督論が中心テーマになっている。
好きになった映画では、「自叙伝」の007シリーズに加え、中3でみた「続・荒野の用心棒」や高1でみた「冒険者たち」が紹介される。
映画論とは、たとえば次のようなことだ。
「僕の思っているエンターティメントと、相手の思っているエンターティメントとが全く違うんではないかと、ゴウ慢にも思いはじめているわけだ。(略)
少なくとも映画というものは、撮りたい物なり、人なりがあって、それが定着したフィルムの一コマ一コマがあって、それがいくつか集まって一つのカットと呼ばれるものになり、その一カット一カットがいくつか集まって一つのシーンと呼ばれるものになり、その一シーン一シーンがいくつか集まり、さらに音楽がのっかって一つの映画となる――そのような過程をふまえて構築されるのが映画であるとしたなら、撮りたい物や人だけがその要素とは限らず、どの過程においてでも、映画のエンターティメントを生み出す要素でありうると思う。「スター・ウォーズ」が秀れたエンターティメントの映画であると思うのは、その見世物的想像力もさることながら、その想像力を丹念にフィルムに定着させ見事につないでみせたことだと、僕は思う。」
(p123-124 初出「虹を渡れない少年たちよ」1981年 PHP研究所 29歳のころ)
自叙伝には「私が撮りたかった映画は自分が10代の時に週替わりの映画館で見ていた番線映画、いわゆるプログラムピクチャー、映画会社の二本立ての一本なのである」(p49)とあり、なるほどと思った。
映画監督論とはたとえば下記である。
「一本の映画を作るたびに、その作るきっかけ、経過、結果、反響はおもしろいほど変化してくる。そういう意味では、映画という生き物を、そのたびに誕生させ、育てているということなのかもしれない。映画監督という仕事がはたで見ているほど楽じゃないとぼやきつつも、はたで見ている以上におもしろくて、だからやめられないのはそのあたりではないかと思う。
(p153 初出『震災ファミリー』1998年/平凡社刊 (46歳の頃))
自叙伝には「私はカンヌやベネチアの賞を目指して映画監督になったのではない。昭和の映画館で見た映画会社の映画に憧れ、あんな仕事をしたいとなったのである。作家ではなくどちらかといえば職人」(p88)とある。
最後は、大阪電気通信大学、大阪芸術大学など大学の教員を20年以上続けたこともあり、映画教育の話になる。
「「娯楽は文化である」という認識は、映画を見る姿勢によってしか生まれないということであり、その姿勢とは、とりもなおさず、映画の見方を学ぶということである。(略)
要は、近頃、映画の見方を知らない、わからない若い人が増えている、ということだ。(略)そんな人間が増えたのは、義務教育に、音楽、体育、美術の授業はあっても、映画はないからだというのが僕の持論である。
(略)人材を育てるシステマチックな教育機関ももちろんだが、もっと根本的に観客を育てることから始めなくてはならないところまで来ていることに、どうして気づかないのだろう。」
(p157-158 初出『震災ファミリー』1998年/平凡社刊 (46歳の頃))
わたしにとっては、わたしが好きだった「暗くなるまで待てない!」(1975)や『ヒポクラテスたち』(1978)のエピソード紹介の部分にとくに関心が引かれた。たとえば「暗くなるまで待てない!」のヒロインは元町でアクセサリーを売っていた(p29)とか、「先輩」役はその後高校教員になった(p134)、映画をつくった「無国籍」というグループは毎週末に、三宮の高架下「金盃森井本店」で飲んでいた映画ファンのグループだった(p28)などだ。
『ヒポクラテスたち』では「撮影は、手術室から便所に至るまで全て、本当の病院にカメラを持ちこんで行なった。古尾谷君は、本当に胃カメラをのまされ、蘭ちゃんは本当に注射器で自分で自分の血を抜いた」(p108)とか、北山修にはじめて会ったのは「大学を卒業した80年『ヒポクラテスたち』の出演をお願いしに行った大阪のラジオ局だった」(p26)などである。自叙伝の佐々木史郎からの依頼や臨床実習を題材にとの提案にも、そもそもの作品誕生の発端が理解でき、なるほどと思った。
また目次のページに1988年文部省芸術選奨新人賞受賞パーティのときの4人家族の記念写真が掲載されている。美人の奥さまだが、この人はどんな方なのかか、『ヒポクラテスたち』のヒロイン中原順子(真喜志きさ子 郷里・舞鶴近辺の高校の同級生という設定)のようなタイプか、大学の同級生というと木村みどり(伊藤蘭)のような人か、あるいは医師同士の夫婦というと吉川先輩の妻・直子(角替和枝)のようなタイプか、と妄想をかき立てられる(正解はどのタイプでもなく、少しずつそれらをもつ方かと思われるが)・・・。
ただ「夏子と、長いお別れ(ロング・グッドバイ)」(1978)への言及がないこと、「風の歌を聴け」(ATG 1981)について精道中学の3年先輩・村上春樹との出会いにしか触れていないのが少し残念だった。わたしには映画デビューの室井滋が新鮮だったのだが。
☆三宮の高架下にある「金盃森本本店」を訪ねた。「暗くなるまで待てない!」で映画製作の話をしているところに女将さんがあいさつに来るシーンがあり、シャキッとした清潔な居酒屋だと記憶している(このサイトに1シーンがある)。いつか行ってみたいと長く思っていた。
なんと2023年に創業105年になる伝統ある店だった。大森監督の個人ファンでこの店を訪れたというと、ずいぶん歓待していただき、自筆サインの入ったポスターや100周年のときに大森監督があいさつをしている写真まで見せていただいた。
大森監督が東京から来た友人を連れてこの店で毎年のように会っていたとのことだ。
じつは11月に監督の奥さまが1周忌のパーティをこの店の2階で行い、多くの人が集まったこと、そのときお土産に配られたのがこの本であったこともお聞きした。つまり、この本の存在を知ったのがそもそもこの店だった(本文中の写真3点もこの時に撮影させていただいたものである)。
このときは閉店近い時間に伺い、あまり時間がなかったので、再訪して大森監督を偲びたいと思う。
森井本店
電話:078-331-5071
住所:神戸市中央区北長狭通2-31-42
営業:17:00~22:00(21:30ラストオーダー)
日曜・祝日休み
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
☆2023年の記事29本の総目次をアップしました。過去記事タイトル一覧の「総目次を作成」の2023年からご覧ください。