アジア太平洋戦争と芸術については、林芙美子、菊地寛らの作家、西條八十、古関裕而ら作詞・作曲家が従軍したことは比較的知られている。また演劇、映画、大衆音楽の戦地慰問団があったことも有名だ。しかし美術については戦没画学生関係以外にはあまり知られていない。
針生一郎・椹木野衣・蔵屋美香・河田明久・平瀬礼太・大谷省吾編「戦争と美術 1937-1945」(国書刊行会 2007年12月 15750円)を読んだ。
以下、主に河田明久「『作戦記録画』小史1937-1945」から抜書きする。作戦記録画とは、アジア太平洋戦争期に陸海軍の委嘱で制作された公式の戦争絵画群のことである。100人あまりの画家が参加し200点以上の絵を描き、うち125点が国立近代美術館に保管されている。
日清・日露戦争のころは写真が発達していなかったせいもあり報道写真の代わりに従軍画家のスケッチが新聞の紙面を飾った。
ただし1937年7月の盧溝橋事件・上海事変勃発の時点では、従軍という制度はなかった。それなのに自発的な志願者が蒙疆や上海の戦地に殺到した。あまりの多さに軍が制限を加えざるをえない状況になった。その理由として、河田氏は、公募展の客足が劇的に減少したことに洋画家が危機感をもったこと、画家が総力戦にまきこまれつつある社会に対し「禊ぎ」として従軍を求めたことを挙げている。
しかし1938年以降、状況が変わる。1938年5月、陸軍中支那派遣軍報道部が向井潤吉、小磯良平ら8人を上海に招いた。作品は7月頃完成し陸軍省に納められ翌39年7月第1回聖戦美術展(朝日新聞社、陸軍美術協会の共催 会場:東京府美術館)で一般公開された。対する海軍軍事普及部は38年9月、藤田嗣治、石井柏亭ら5人を中・南支に招聘した。また朝日新聞社は、38年5月東京朝日新聞創刊50周年記念事業として「戦争美術展覧会」を東京府美術館で開催、19日間で6万8000人が訪れた。朝日は、第1回聖戦美術展をはじめ大東亜戦争美術展(第一回は42年12月)、海洋美術展(第一回は37年5月)、航空美術展(第一回は41年9月)など主要な戦争美術展の運営を取り仕切った(海洋美術展は第三回から参画)。
1941年に開戦した太平洋戦争では、11月に国民徴用令に基づき陸・海軍報道班が組織され、開戦と同時に向井潤吉、小早川篤四郎ら9人が南方戦線に動員された。42年3月にはさらに26人の画家、彫刻家が補充された。開戦1周年記念の第1回大東亜戦争美術展では、これら35人、40点の作戦記録画が展示された。中村研一「マレー沖海戦」、鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」、宮本三郎「山下、パーシバル両司令官会見図」などで、地方巡回も含め入場者数は、なんと380万人、文展の10倍に及んだ。
42年9月宮本三郎は座談会で「決して迎合するとか、止むを得ずやつているとかいふのでなく、面白いから描く」と発言している。中村研一も戦後の56年8月「戦争によって、日本人全体が有機的に結ばれていたね。だから一つの主題が与えられると、日本の歴史に必要なものになるにちがいないという気持を画家の誰もが持っていたね(略)現在われわれの画はわれわれが勝手に描いて、相手がないんだ」と述べている。
もちろん画家ならだれもが引き受けたわけではない。1944年9月「美術8号」の座談会で陸軍の山内一郎大尉は「大東亜戦争が始まってからお願ひした中にも、忙しいというお話の方もあり、気の向かれない方もあったと思ひます。或は命の危険を感じられた方もあると思ひますが、断られた方が随分あります。そんな訳で顔ぶれも段々限定されて仕舞った次第」と述べている。
ミッドウェー海戦敗戦以降、日本軍は敗戦への道をたどるが「アッツ島玉砕」を描いた藤田嗣治は「私の想像力と兼ねてからかいた腕だめしと言ふ処をやってみようと今年は一番難しいチャンバラを描いて見ました」と書簡に書いた。
観客の側は作戦絵画をどのように見たのだろうか。中村研一は上記の戦後の座談会で「上野の美術館に朝行ってみると、まだ開場前に茨城あたりから出てきた百姓のおばさん達が、美術館の扉の開くのをシャがんで待ってるんだよ。あれを見て、僕等も少し奮起したんだよ」と述べている。
仙台では1940年9月の聖戦美術展で小中学生の入場が6000を突破し「協会派遣の記念スタンプ係が殺到する人波の前に悲鳴を挙げる」、11月熊本でも「市内小学生全部が団体観覧する事となったので開会と同時に一般や団体が殺到し劈頭から大賑ひを呈した」。東京大空襲1ヵ月後の45年4月の陸軍美術展ですら「連日の空襲下にもかかわらず、3万数千の観覧者」を動員したという記事が残っている。
さて、敗戦後「作戦記録画」はどうなったのだろうか。約120点の絵は46年ごろGHQ工兵部隊が収集し東京都美術館の中央5室に保管し、その後51年7月ワシントン近郊に輸送された。56年頃から返還運動が始まり70年4月「無期限貸与」というかたちで153点(うち125点が作戦記録画)が返還され開館したばかりの東京国立近代美術館に納められた。修復を経てその後77年7月宮本三郎、藤田嗣治らの作品4点のみが公開され、以降数点ずつ常設展示に組み込み展示されている。
この本には、現在所在不明の作品も含め、カラー170点(うち25点が44年、12点が45年に制作)、モノクロ80点が掲載されている。
この画集に掲載されている絵で、わたくしにとって印象の強かった作品7点を紹介する。なおこの7点のなかに作戦記録画は1点も含まれていない。
●北脇昇「空の訣別」(1937年東京国立博物館蔵)
日本のシュルレアリストとして有名な北脇の作。
楓(かえで)の種が3つ大空を舞う。ひとつは火を吹いており(解説によれば火ではなく、赤いサンゴだそうだ)白い布が翻る。海上から白煙が湧いている。1937年揚州上空で九六式陸上攻撃機が撃墜され、パイロットは捕虜にならぬようパラシュートを使わず自爆し軍神となった。最後に白いハンカチを振る姿が僚機からみえ、「ああ梅林中尉」という歌謡曲もできたという。この話をモチーフに制作されたそうだ。有名な「独活(うど)」もおなじ37年の作である。楓と空はなかなかよいが、白煙やサンゴの表現の完成度が低い。
●阿部合成「見送る人々」(1938年兵庫県立美術館蔵)
出征兵士を見送る北国の群衆。歓呼の声を上げているのだろうが、怒っているようにみえる。日の丸が打ち振られただならぬ迫力が伝わる。この絵は「国際写真情報」という雑誌に掲載され海外でも見られたが、駐アルゼンチン日本公使から「正義の日本人の姿とは見えず悲壮な黒人の群又は無知な土人の集まりの様な印象を外国人に与え、ひいては聖戦の認識を甚だ誤る虞れがあるので即刻海外頒布を厳禁され度し」と要請を受けた。以降、阿部は意図に反して反戦画家とみなされた。なお阿部は青森中学で、昨年生誕100周年を迎えた太宰治と同級である。30代初めのころ何冊か太宰の本の装丁をした。
●難波香久三「蒋介石よどこへ行く」(1939年板橋区立美術館蔵)
朽ちて空洞となった大きな切り株が、砂漠のような荒野に立っており、ちぎれた青天白日旗が下のほうに張り付いている。
当時、蒋介石が中国の民衆から巻き上げたカネをアメリカに送り亡命を図っているというウワサがあり、それに対する怒りから制作されたとある。
そういう意図はまったく読み取れないが、日本のシュレアリスム絵画として秀作だと思う。この絵は聖戦美術展の招待作品となったが、軍の検閲で展示されなかったそうだ。
●久保克彦「図案対象」(5枚組の1 1942年東京藝術大学蔵)
南方の海に、火を吹いた戦闘機が墜落して突っ込み、輸送船が傾いている。空は真っ赤に燃えている。
解説によれば戦闘機はイギリスのスピットファイア、戦闘は40年7-10月のバトル・オブ・ブリテン。飛行機、トンボ、鳥、女神などがコラージュ状に配置されデザインの先駆者の作とある。この作品は卒業制作で美校買い上げとなり、久保は卒業後すぐ陸軍に入隊し44年中国の湖北省で戦死した。
●山下菊二「日本の敵米国の崩壊」(1943年個人蔵)
破れたゴム人形のような中空の体の女性、メイクアップした女性、ハリウッドという文字のある騎士の兜、バックには破壊されたホワイトハウス、破れた星条旗、焼土となったアメリカが広がる。女性のまなざしのせいか緊迫感が漂う。
山下菊二は福沢一郎の研究所で学んだシュルレアリスト。戦後、山村工作隊に参加し「あけぼの村物語」を制作した。
●橋本関雪「讃光」(1943年大阪市立美術館)
南方の島、鳥が飛ぶヤシの木の下、歩兵銃を捧げ、白い骨箱を抱えた兵隊が立つ。顔のバックには大きな海軍旗が広がる。赤い花が咲いているせいもあるが、画面はやたらに明るい。旗と兵隊がなければ、南方の花鳥風月を描いた日本画に見える。
42年にフィリピンのコレヒドールを訪れたときの記憶をもとに「日本画の香気と品格とを矜持しつつ、しかもこの眼でみた現実の世界を描いてみようと思ひ立った」というもので、海軍の英霊への追悼の意を込めた作品だそうだ。しかし横尾忠則の70年前後のポスターとゴーギャンのタヒチを組み合わせたような不思議な感覚の絵である。 。
●女流美術家奉公隊「大東亜戦皇国婦女皆働之図」(春夏の部 1944年筥崎宮蔵) (秋冬の部 1944年靖国神社遊就館蔵)
春夏の部には、畑づくり、田んぼの仕事、海女さん、魚の仕分け、麦やナスの収穫、調理、電話の交換、防空演習など、秋冬の部には、従軍看護婦、幼稚園の先生、郵便局員、牧羊、陶器製造、長刀訓練など、女性が働く情景をコラージュした大作である。1シーンずつ見ると戦争の影響のあるものもあるが、非常に生き生きとした作品である。兵士や戦闘がまったく書かれていないこと、生活に密着した絵で、女性作家ならではの柔らかいタッチと明るい色彩に覆われているからだろう。合作なので186×300という大きな画面を使っている。
女流美術家奉公隊は、1943年2月、長谷川春子(長谷川時雨の妹)を委員長に、国画会、二科会、一水会、新制作派、文展に出品していた女性美術家を構成員に設立された。桂ゆきや三岸節子も会員だった。主たる活動は43年5月志願年齢を1歳引き下げ14歳となった少年兵募集のため、母親に息子の志願を呼びかける展覧会開催だったそうだ。戦後45年10月、女流美術家協会に改編された。
針生一郎・椹木野衣・蔵屋美香・河田明久・平瀬礼太・大谷省吾編「戦争と美術 1937-1945」(国書刊行会 2007年12月 15750円)を読んだ。
以下、主に河田明久「『作戦記録画』小史1937-1945」から抜書きする。作戦記録画とは、アジア太平洋戦争期に陸海軍の委嘱で制作された公式の戦争絵画群のことである。100人あまりの画家が参加し200点以上の絵を描き、うち125点が国立近代美術館に保管されている。
日清・日露戦争のころは写真が発達していなかったせいもあり報道写真の代わりに従軍画家のスケッチが新聞の紙面を飾った。
ただし1937年7月の盧溝橋事件・上海事変勃発の時点では、従軍という制度はなかった。それなのに自発的な志願者が蒙疆や上海の戦地に殺到した。あまりの多さに軍が制限を加えざるをえない状況になった。その理由として、河田氏は、公募展の客足が劇的に減少したことに洋画家が危機感をもったこと、画家が総力戦にまきこまれつつある社会に対し「禊ぎ」として従軍を求めたことを挙げている。
しかし1938年以降、状況が変わる。1938年5月、陸軍中支那派遣軍報道部が向井潤吉、小磯良平ら8人を上海に招いた。作品は7月頃完成し陸軍省に納められ翌39年7月第1回聖戦美術展(朝日新聞社、陸軍美術協会の共催 会場:東京府美術館)で一般公開された。対する海軍軍事普及部は38年9月、藤田嗣治、石井柏亭ら5人を中・南支に招聘した。また朝日新聞社は、38年5月東京朝日新聞創刊50周年記念事業として「戦争美術展覧会」を東京府美術館で開催、19日間で6万8000人が訪れた。朝日は、第1回聖戦美術展をはじめ大東亜戦争美術展(第一回は42年12月)、海洋美術展(第一回は37年5月)、航空美術展(第一回は41年9月)など主要な戦争美術展の運営を取り仕切った(海洋美術展は第三回から参画)。
1941年に開戦した太平洋戦争では、11月に国民徴用令に基づき陸・海軍報道班が組織され、開戦と同時に向井潤吉、小早川篤四郎ら9人が南方戦線に動員された。42年3月にはさらに26人の画家、彫刻家が補充された。開戦1周年記念の第1回大東亜戦争美術展では、これら35人、40点の作戦記録画が展示された。中村研一「マレー沖海戦」、鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」、宮本三郎「山下、パーシバル両司令官会見図」などで、地方巡回も含め入場者数は、なんと380万人、文展の10倍に及んだ。
42年9月宮本三郎は座談会で「決して迎合するとか、止むを得ずやつているとかいふのでなく、面白いから描く」と発言している。中村研一も戦後の56年8月「戦争によって、日本人全体が有機的に結ばれていたね。だから一つの主題が与えられると、日本の歴史に必要なものになるにちがいないという気持を画家の誰もが持っていたね(略)現在われわれの画はわれわれが勝手に描いて、相手がないんだ」と述べている。
もちろん画家ならだれもが引き受けたわけではない。1944年9月「美術8号」の座談会で陸軍の山内一郎大尉は「大東亜戦争が始まってからお願ひした中にも、忙しいというお話の方もあり、気の向かれない方もあったと思ひます。或は命の危険を感じられた方もあると思ひますが、断られた方が随分あります。そんな訳で顔ぶれも段々限定されて仕舞った次第」と述べている。
ミッドウェー海戦敗戦以降、日本軍は敗戦への道をたどるが「アッツ島玉砕」を描いた藤田嗣治は「私の想像力と兼ねてからかいた腕だめしと言ふ処をやってみようと今年は一番難しいチャンバラを描いて見ました」と書簡に書いた。
観客の側は作戦絵画をどのように見たのだろうか。中村研一は上記の戦後の座談会で「上野の美術館に朝行ってみると、まだ開場前に茨城あたりから出てきた百姓のおばさん達が、美術館の扉の開くのをシャがんで待ってるんだよ。あれを見て、僕等も少し奮起したんだよ」と述べている。
仙台では1940年9月の聖戦美術展で小中学生の入場が6000を突破し「協会派遣の記念スタンプ係が殺到する人波の前に悲鳴を挙げる」、11月熊本でも「市内小学生全部が団体観覧する事となったので開会と同時に一般や団体が殺到し劈頭から大賑ひを呈した」。東京大空襲1ヵ月後の45年4月の陸軍美術展ですら「連日の空襲下にもかかわらず、3万数千の観覧者」を動員したという記事が残っている。
さて、敗戦後「作戦記録画」はどうなったのだろうか。約120点の絵は46年ごろGHQ工兵部隊が収集し東京都美術館の中央5室に保管し、その後51年7月ワシントン近郊に輸送された。56年頃から返還運動が始まり70年4月「無期限貸与」というかたちで153点(うち125点が作戦記録画)が返還され開館したばかりの東京国立近代美術館に納められた。修復を経てその後77年7月宮本三郎、藤田嗣治らの作品4点のみが公開され、以降数点ずつ常設展示に組み込み展示されている。
この本には、現在所在不明の作品も含め、カラー170点(うち25点が44年、12点が45年に制作)、モノクロ80点が掲載されている。
この画集に掲載されている絵で、わたくしにとって印象の強かった作品7点を紹介する。なおこの7点のなかに作戦記録画は1点も含まれていない。
●北脇昇「空の訣別」(1937年東京国立博物館蔵)
日本のシュルレアリストとして有名な北脇の作。
楓(かえで)の種が3つ大空を舞う。ひとつは火を吹いており(解説によれば火ではなく、赤いサンゴだそうだ)白い布が翻る。海上から白煙が湧いている。1937年揚州上空で九六式陸上攻撃機が撃墜され、パイロットは捕虜にならぬようパラシュートを使わず自爆し軍神となった。最後に白いハンカチを振る姿が僚機からみえ、「ああ梅林中尉」という歌謡曲もできたという。この話をモチーフに制作されたそうだ。有名な「独活(うど)」もおなじ37年の作である。楓と空はなかなかよいが、白煙やサンゴの表現の完成度が低い。
●阿部合成「見送る人々」(1938年兵庫県立美術館蔵)
出征兵士を見送る北国の群衆。歓呼の声を上げているのだろうが、怒っているようにみえる。日の丸が打ち振られただならぬ迫力が伝わる。この絵は「国際写真情報」という雑誌に掲載され海外でも見られたが、駐アルゼンチン日本公使から「正義の日本人の姿とは見えず悲壮な黒人の群又は無知な土人の集まりの様な印象を外国人に与え、ひいては聖戦の認識を甚だ誤る虞れがあるので即刻海外頒布を厳禁され度し」と要請を受けた。以降、阿部は意図に反して反戦画家とみなされた。なお阿部は青森中学で、昨年生誕100周年を迎えた太宰治と同級である。30代初めのころ何冊か太宰の本の装丁をした。
●難波香久三「蒋介石よどこへ行く」(1939年板橋区立美術館蔵)
朽ちて空洞となった大きな切り株が、砂漠のような荒野に立っており、ちぎれた青天白日旗が下のほうに張り付いている。
当時、蒋介石が中国の民衆から巻き上げたカネをアメリカに送り亡命を図っているというウワサがあり、それに対する怒りから制作されたとある。
そういう意図はまったく読み取れないが、日本のシュレアリスム絵画として秀作だと思う。この絵は聖戦美術展の招待作品となったが、軍の検閲で展示されなかったそうだ。
●久保克彦「図案対象」(5枚組の1 1942年東京藝術大学蔵)
南方の海に、火を吹いた戦闘機が墜落して突っ込み、輸送船が傾いている。空は真っ赤に燃えている。
解説によれば戦闘機はイギリスのスピットファイア、戦闘は40年7-10月のバトル・オブ・ブリテン。飛行機、トンボ、鳥、女神などがコラージュ状に配置されデザインの先駆者の作とある。この作品は卒業制作で美校買い上げとなり、久保は卒業後すぐ陸軍に入隊し44年中国の湖北省で戦死した。
●山下菊二「日本の敵米国の崩壊」(1943年個人蔵)
破れたゴム人形のような中空の体の女性、メイクアップした女性、ハリウッドという文字のある騎士の兜、バックには破壊されたホワイトハウス、破れた星条旗、焼土となったアメリカが広がる。女性のまなざしのせいか緊迫感が漂う。
山下菊二は福沢一郎の研究所で学んだシュルレアリスト。戦後、山村工作隊に参加し「あけぼの村物語」を制作した。
●橋本関雪「讃光」(1943年大阪市立美術館)
南方の島、鳥が飛ぶヤシの木の下、歩兵銃を捧げ、白い骨箱を抱えた兵隊が立つ。顔のバックには大きな海軍旗が広がる。赤い花が咲いているせいもあるが、画面はやたらに明るい。旗と兵隊がなければ、南方の花鳥風月を描いた日本画に見える。
42年にフィリピンのコレヒドールを訪れたときの記憶をもとに「日本画の香気と品格とを矜持しつつ、しかもこの眼でみた現実の世界を描いてみようと思ひ立った」というもので、海軍の英霊への追悼の意を込めた作品だそうだ。しかし横尾忠則の70年前後のポスターとゴーギャンのタヒチを組み合わせたような不思議な感覚の絵である。 。
●女流美術家奉公隊「大東亜戦皇国婦女皆働之図」(春夏の部 1944年筥崎宮蔵) (秋冬の部 1944年靖国神社遊就館蔵)
春夏の部には、畑づくり、田んぼの仕事、海女さん、魚の仕分け、麦やナスの収穫、調理、電話の交換、防空演習など、秋冬の部には、従軍看護婦、幼稚園の先生、郵便局員、牧羊、陶器製造、長刀訓練など、女性が働く情景をコラージュした大作である。1シーンずつ見ると戦争の影響のあるものもあるが、非常に生き生きとした作品である。兵士や戦闘がまったく書かれていないこと、生活に密着した絵で、女性作家ならではの柔らかいタッチと明るい色彩に覆われているからだろう。合作なので186×300という大きな画面を使っている。
女流美術家奉公隊は、1943年2月、長谷川春子(長谷川時雨の妹)を委員長に、国画会、二科会、一水会、新制作派、文展に出品していた女性美術家を構成員に設立された。桂ゆきや三岸節子も会員だった。主たる活動は43年5月志願年齢を1歳引き下げ14歳となった少年兵募集のため、母親に息子の志願を呼びかける展覧会開催だったそうだ。戦後45年10月、女流美術家協会に改編された。