京橋の国立映画アーカイブで「松竹映画の100年」という企画展をみた。
松竹の創業は、大谷竹次郎が京都・阪井座を買収し、興行主となった1895年だ。大谷は双生児の兄・白井松次郎と1913年歌舞伎座の経営権を得るなど歌舞伎などの興行で地位を築いた。松と竹で「松竹」という社名になった。松竹キネマ合名会社を設立し映画製作を開始したのは1920年2月なので、映像分野に関しては今年が100年になる。
かつての日本の大手映画会社5社でいうと、横田商会、吉沢商店、福宝堂、Mパテー商会が合併して1912年に創立した日活(日本活動フィルム。ただし1942年から53年は興行のみで製作は行わず)、大映の前身のひとつ天然色活動写真(1914)に次ぐ(国立映画アーカイブの映画製作会社系譜図による)。ちなみに残りの2社、東宝の前身PCL設立は1933年、太泉映画・東横映画・東京映画配給の3社が合併して東映を設立したのは1951年である。その他、新東宝(1947-1961)という映画会社もあった。
100年の歴史を、第1章 松竹キネマの誕生―蒲田と下加茂、第2章 “大船調”の誕生と戦争の時代、第3章 戦後の飛躍期の名作・話題作、第4章 新しい“伝統”を求めて、第5章 松竹映画の現在―平成から令和への5つに区分し展開している。
サブタイトルに「松竹第一主義」とある。これはディレクター・システムを推進し「小市民映画」で独自色を発揮した城戸四郎のモットーであった。
わたしは小津安二郎や山田洋次の作品が好きなので、松竹映画をみる機会が自然に多くなった。ただ今回「松竹の100年」上映作品リストをみて「陸軍」(1944 木下恵介)、「桃太郎 海の神兵」(1945 瀬尾光世)、「安城家の舞踏會」(1947 吉村公三郎)、「カルメン故郷に帰る」(1951 木下恵介)、「旅の重さ」(1972 斎藤耕一)、「砂の器」(1974 野村芳太郎)、「つぐみ」(1990 市川準)など、それ以外にも意外に松竹映画を観ていたことを再発見した。
また大島渚の映画も好きで、大島というと独立プロ・創造社のイメージが強いが、考えると大島はもとは吉田喜重や篠田正浩らと松竹ヌーヴェルバーグの旗手と呼ばれ、初期の作品「愛と希望の街」(60)、「青春残酷物語」(60)、太陽の墓場(60)、「日本の夜と霧」(60)までは、問題はあっても松竹で撮影し公開した作品だった。
なお企画展の写真撮影は禁止だったので、撮影可能な常設展「日本映画の歴史」のものを転用させていただいた。
第1章 松竹キネマの誕生―蒲田と下加茂
「人生のお荷物」(1935 五所平之助)
1920年2月の松竹キネマ合名創立から36年1月の大船移転のための蒲田撮影所閉鎖までの16年。いわゆる蒲田時代。
松竹キネマは1920年6月蒲田に撮影所をオープンし「島の女」(1920 ヘンリー・小谷、木村錦花共同監督)、「路上の霊魂」(21 村田実監督 以降西暦の上2ケタ19は各章初出のみにし略した)を公開した。24年から撮影所長は城戸四郎(1894-1977)が務め、「マダムと女房」(31 五所平之助)、「突貫小僧」(29 小津安二郎)、「人生のお荷物」(35 五所平之助)などヒット作を生み出した。「マダムと女房」は日本初の本格的トーキー映画だった。
松竹キネマ合名の社長は白井信太郎(1897-1969 松次郎・竹次郎兄弟の末弟 戦後、社長・会長を歴任)、撮影所長が城戸四郎だった。信太郎は1929年にハリウッドを視察し、松竹シネマ設立のきっかけとなった。1932年城戸は「松竹第一主義」を打ち出した。
1923年の関東大震災で、蒲田の従業員は京都の下賀茂へ移動し、下賀茂撮影所が誕生した。下賀茂には1927年2月林長二郎(のちの長谷川一夫)が入所し、「大阪夏の陣」(32 衣笠貞之助)が公開された。
小津の「生れてはみたけれど」(32)の撮影時使用台本が展示されていた。「啓二 「知らないよ」と首を振る 良一 得意相」などと書かれている。サイレント映画なので、シナリオではなく「撮影時使用台本」なのだ。
第2章 “大船調”の誕生と戦争の時代
「風の中の子供」(1937 清水宏)
1934年6月の松竹大船映画創立から45年8月の敗戦までの11年。
蒲田の5倍の敷地(3万坪)の撮影所で「愛染かつら」(1938 野村浩将)、「浅草の灯」(37 島津保次郎)、「淑女は何を忘れたか」(37 小津安二郎)、「風の中の子供」(37 清水宏)、「愛染かつら」(38-39 野村浩将)などの喜劇、メロドラマ、ホームドラマを制作し「大船調」を確立した。一方京都ではスター・プロダクションとの提携や太秦に新たな撮影所を獲得し、溝口健二の「残菊物語」(39)、「元禄忠臣蔵」(41)などを製作した。
しかし戦時色が濃くなると、「海軍」(43 田坂具隆)、「陸軍」(44 木下恵介)など戦争映画を製作した。
松竹大船の「武運長久」を祈る俳優のサインのある日章旗が掲示されていた。書いた年月は不明だが、飯田蝶子、田中絹代、三井秀男、笠智衆、三宅邦子らの直筆の名前が読み取れた。そうした状況のなか木下恵介が「花咲く港」(43)で監督第一作へと踏み出した。
第3章 戦後の飛躍期の名作・話題作
国産初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(51 木下惠介)
戦後封切第1作「伊豆の娘たち」(1945.8.30 五所平之助)から63年12月の小津安二郎逝去まで。
主題歌「リンゴの歌」(並木路子)が大ヒットした「そよかぜ」(1945 佐々木康)、「鐘の鳴る丘」(48 佐々木啓佑)、「長崎の鐘」(1950 大庭秀雄)、美空ひばりの歌で有名な「東京キッド」(50 斎藤寅次郎)、菊田一夫のラジオドラマが原作の「君の名は」(1953 大庭秀雄)、「二十四の瞳」(54 木下恵介)などが時代を背景に大ヒットした。また「大曾根家の朝」(46 木下恵介)、「安城家の舞踏會」(47 吉村公三郎)、国産カラー・フィルムによる「カルメン故郷に帰る」(51 木下惠介)、「白痴」(51 黒沢明)、阪東妻三郎・市川右太衛門が出演した「大江戸五人男」(51 伊藤大輔)、「東京物語」(53 小津安二郎)、「張込み」(58 野村芳太郎)、「人間の条件」(59 小林正樹)など名作映画、大作映画が発表された。
松竹だけでなく「日本映画の黄金時代」にふさわしい。観客数は1958年の11億2745万人、映画館数は60年の7457館、制作本数でも60年の547本が最高だ。小津の逝去はこの時代の終わりの象徴ともいえる。
「秋刀魚の味」(62 小津安二郎)の絵コンテ帖が展示され、すぐ隣で予告編が流れていた。バーのなかで加東大介が軍艦マーチに合わせて行進し敬礼する姿は、絵コンテのままだった。
第4章 新しい“伝統”を求めて
天地真理主演の「虹をわたって」(72 前田陽一)、ザ・ドリフターズの5人が主演の「いい湯だな 全員集合!! 」(69 渡辺祐介)(真ん中は「女生きてます 盛り場渡り鳥」(72 森崎東))
1959年3月の松竹本社にテレビ室開設から88年3月の映画製作投資ファンド「フィーチャー・フィルム・エンタープライズ」(FFE)設立までの29年。
映画からテレビへと時代が移り、映画観客数は63年に5億人に半減、70年に2億5500万人とさらに減少し、黄金時代の1/4に縮小した。
1960年代は松竹ヌーヴェルヴァーグの登場から始まった。大島渚は1954年松竹入社、初期の作品「愛と希望の街」(59)など4本は、問題はあっても松竹で撮影し公開した作品だった。61年に退社し創造社を設立した。
大島は吉田喜重や篠田正浩らと松竹ヌーヴェルバーグと呼ばれ、篠田は「恋の片道切符」(60)、吉田は「ろくでなし」(60)を撮った。
大島の「愛と希望の街」のシナリオが展示されていた。表紙には「鳩を売る少年」改題「光と雲」とあり、それを鉛筆で斜線を入れ「愛と希望の街」と書かれていた。上層部との紆余曲折があったことが推察される。
映画がテレビに食われるなか、松竹は、「コント55号と水前寺清子の神様の恋人」(68 野村芳太郎)、ザ・ドリフターズのうち5人が主役の「いい湯だな 全員集合!!」(69 渡辺祐介)、歌手・天地真理を起用した「虹をわたって」(72 前田陽一)など、テレビタレント、歌手、他社出身のスターを起用した作品を製作した。そんななか69年に始まった「寅さん」シリーズ(山田洋次)は正月と夏の定番映画として日本社会に定着した。
この時期には白井信太郎(69年)、大谷竹次郎(69年)、城戸四郎(77年)ら松竹映画の創業者たちが次々に逝去していった。86年には大船製作所設立50周年を迎えるが、一方映画をレンタルビデオで観たり、外部資金を映画製作に取り入れるFFE設立など新たな取組みも始まった。「宇宙大怪獣ギララ」(1967 二本松嘉瑞)という怪獣映画まで松竹でつくっていたことは知らなかった。
第5章 松竹映画の現在―平成から令和へ
1992年4月の衛星映画演劇放送(現・松竹ブロードキャスティング)設立から2020年2月の松竹キネマ合名社創立100周年までの28年。
「釣りバカ日誌」シリーズ(88-2009 栗山富雄、朝原雄三ほか)は平成を代表する人気シリーズとなり、「その男、凶暴につき」(89)で監督デビューした北野武(ビートたけし)が、「ソナチネ」(93)、「BROTHER」(2001)をつくった。
98年に鎌倉シネマワールドを閉鎖、2000年には大船撮影所を閉所し64年の歴史の幕を閉じ、「男はつらいよ」シリーズも渥美清が96年に死去し48作「寅次郎紅の花」(95)で終わったかに見えたが、2019年過去のフィルムを使った「お帰り寅さん」(2019)が公開された。
このブロックはみるべきものが少ない。しいて挙げれば、「カルメン故郷に帰る」「青春残酷物語」「東京暮色」などのデジタル修正版のポスターである。カンヌやヴェネツィアなどの国際映画祭で発表されたため、それぞれ「Carmen Comes Home」「 Cruel Story
of Youth」「Tokyo Twilight」という英文タイトルが和文タイトルとともに付いていた。2012年から18年にかけてつくられたものだが、新鮮な感じがした。しかしこれでは過去の遺産を食いつぶしているようなものだ。出口のところに貼られていたポスターは、「No Music,No Life」のタワーレコード40周年と「お帰り寅さん」の「男はつらいよ50周年」を掛け合わせたものだった。
会社としての松竹をみると、映像関連事業は売上では1034億円のうち53%を占めるがセグメント利益は78億円で27%に過ぎない。利益の63%は不動産事業に頼っている。不動産とは東劇ビル、歌舞伎座、新橋演舞場、銀座松竹スクエア、有楽町マリオン、南座(京都)、大阪松竹座ビルなどであり、いまやビル賃貸業者ともいえる。
長いようで短く、一方では短いようで長い松竹の100年である。
19階建て自社ビル・東劇ビルの6フロアを本社、演劇本部、映像本部、試写室等に使っている
☆2階・長瀬記念ホールOZUで「武士道無残」(1960松竹京都 森川英太朗 74分)という映画を観た。松竹時代劇ヌーヴェルヴァーグと呼ばれたという。森川監督の作品はこの1本だけだった。内容は、主君への殉死を巡り、義理の弟と不倫したため、夫婦と弟が死ぬという「荒唐無稽」な話だった。歌舞伎や文楽も荒唐無稽なストーリーが多いのでそれ自体はかまわないのだが、もうひとつ迫力がなかった。公開4日後に26歳で事故死した兄の信幸役・森美樹の演技がよかった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
松竹の創業は、大谷竹次郎が京都・阪井座を買収し、興行主となった1895年だ。大谷は双生児の兄・白井松次郎と1913年歌舞伎座の経営権を得るなど歌舞伎などの興行で地位を築いた。松と竹で「松竹」という社名になった。松竹キネマ合名会社を設立し映画製作を開始したのは1920年2月なので、映像分野に関しては今年が100年になる。
かつての日本の大手映画会社5社でいうと、横田商会、吉沢商店、福宝堂、Mパテー商会が合併して1912年に創立した日活(日本活動フィルム。ただし1942年から53年は興行のみで製作は行わず)、大映の前身のひとつ天然色活動写真(1914)に次ぐ(国立映画アーカイブの映画製作会社系譜図による)。ちなみに残りの2社、東宝の前身PCL設立は1933年、太泉映画・東横映画・東京映画配給の3社が合併して東映を設立したのは1951年である。その他、新東宝(1947-1961)という映画会社もあった。
100年の歴史を、第1章 松竹キネマの誕生―蒲田と下加茂、第2章 “大船調”の誕生と戦争の時代、第3章 戦後の飛躍期の名作・話題作、第4章 新しい“伝統”を求めて、第5章 松竹映画の現在―平成から令和への5つに区分し展開している。
サブタイトルに「松竹第一主義」とある。これはディレクター・システムを推進し「小市民映画」で独自色を発揮した城戸四郎のモットーであった。
わたしは小津安二郎や山田洋次の作品が好きなので、松竹映画をみる機会が自然に多くなった。ただ今回「松竹の100年」上映作品リストをみて「陸軍」(1944 木下恵介)、「桃太郎 海の神兵」(1945 瀬尾光世)、「安城家の舞踏會」(1947 吉村公三郎)、「カルメン故郷に帰る」(1951 木下恵介)、「旅の重さ」(1972 斎藤耕一)、「砂の器」(1974 野村芳太郎)、「つぐみ」(1990 市川準)など、それ以外にも意外に松竹映画を観ていたことを再発見した。
また大島渚の映画も好きで、大島というと独立プロ・創造社のイメージが強いが、考えると大島はもとは吉田喜重や篠田正浩らと松竹ヌーヴェルバーグの旗手と呼ばれ、初期の作品「愛と希望の街」(60)、「青春残酷物語」(60)、太陽の墓場(60)、「日本の夜と霧」(60)までは、問題はあっても松竹で撮影し公開した作品だった。
なお企画展の写真撮影は禁止だったので、撮影可能な常設展「日本映画の歴史」のものを転用させていただいた。
第1章 松竹キネマの誕生―蒲田と下加茂
「人生のお荷物」(1935 五所平之助)
1920年2月の松竹キネマ合名創立から36年1月の大船移転のための蒲田撮影所閉鎖までの16年。いわゆる蒲田時代。
松竹キネマは1920年6月蒲田に撮影所をオープンし「島の女」(1920 ヘンリー・小谷、木村錦花共同監督)、「路上の霊魂」(21 村田実監督 以降西暦の上2ケタ19は各章初出のみにし略した)を公開した。24年から撮影所長は城戸四郎(1894-1977)が務め、「マダムと女房」(31 五所平之助)、「突貫小僧」(29 小津安二郎)、「人生のお荷物」(35 五所平之助)などヒット作を生み出した。「マダムと女房」は日本初の本格的トーキー映画だった。
松竹キネマ合名の社長は白井信太郎(1897-1969 松次郎・竹次郎兄弟の末弟 戦後、社長・会長を歴任)、撮影所長が城戸四郎だった。信太郎は1929年にハリウッドを視察し、松竹シネマ設立のきっかけとなった。1932年城戸は「松竹第一主義」を打ち出した。
1923年の関東大震災で、蒲田の従業員は京都の下賀茂へ移動し、下賀茂撮影所が誕生した。下賀茂には1927年2月林長二郎(のちの長谷川一夫)が入所し、「大阪夏の陣」(32 衣笠貞之助)が公開された。
小津の「生れてはみたけれど」(32)の撮影時使用台本が展示されていた。「啓二 「知らないよ」と首を振る 良一 得意相」などと書かれている。サイレント映画なので、シナリオではなく「撮影時使用台本」なのだ。
第2章 “大船調”の誕生と戦争の時代
「風の中の子供」(1937 清水宏)
1934年6月の松竹大船映画創立から45年8月の敗戦までの11年。
蒲田の5倍の敷地(3万坪)の撮影所で「愛染かつら」(1938 野村浩将)、「浅草の灯」(37 島津保次郎)、「淑女は何を忘れたか」(37 小津安二郎)、「風の中の子供」(37 清水宏)、「愛染かつら」(38-39 野村浩将)などの喜劇、メロドラマ、ホームドラマを制作し「大船調」を確立した。一方京都ではスター・プロダクションとの提携や太秦に新たな撮影所を獲得し、溝口健二の「残菊物語」(39)、「元禄忠臣蔵」(41)などを製作した。
しかし戦時色が濃くなると、「海軍」(43 田坂具隆)、「陸軍」(44 木下恵介)など戦争映画を製作した。
松竹大船の「武運長久」を祈る俳優のサインのある日章旗が掲示されていた。書いた年月は不明だが、飯田蝶子、田中絹代、三井秀男、笠智衆、三宅邦子らの直筆の名前が読み取れた。そうした状況のなか木下恵介が「花咲く港」(43)で監督第一作へと踏み出した。
第3章 戦後の飛躍期の名作・話題作
国産初の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」(51 木下惠介)
戦後封切第1作「伊豆の娘たち」(1945.8.30 五所平之助)から63年12月の小津安二郎逝去まで。
主題歌「リンゴの歌」(並木路子)が大ヒットした「そよかぜ」(1945 佐々木康)、「鐘の鳴る丘」(48 佐々木啓佑)、「長崎の鐘」(1950 大庭秀雄)、美空ひばりの歌で有名な「東京キッド」(50 斎藤寅次郎)、菊田一夫のラジオドラマが原作の「君の名は」(1953 大庭秀雄)、「二十四の瞳」(54 木下恵介)などが時代を背景に大ヒットした。また「大曾根家の朝」(46 木下恵介)、「安城家の舞踏會」(47 吉村公三郎)、国産カラー・フィルムによる「カルメン故郷に帰る」(51 木下惠介)、「白痴」(51 黒沢明)、阪東妻三郎・市川右太衛門が出演した「大江戸五人男」(51 伊藤大輔)、「東京物語」(53 小津安二郎)、「張込み」(58 野村芳太郎)、「人間の条件」(59 小林正樹)など名作映画、大作映画が発表された。
松竹だけでなく「日本映画の黄金時代」にふさわしい。観客数は1958年の11億2745万人、映画館数は60年の7457館、制作本数でも60年の547本が最高だ。小津の逝去はこの時代の終わりの象徴ともいえる。
「秋刀魚の味」(62 小津安二郎)の絵コンテ帖が展示され、すぐ隣で予告編が流れていた。バーのなかで加東大介が軍艦マーチに合わせて行進し敬礼する姿は、絵コンテのままだった。
第4章 新しい“伝統”を求めて
天地真理主演の「虹をわたって」(72 前田陽一)、ザ・ドリフターズの5人が主演の「いい湯だな 全員集合!! 」(69 渡辺祐介)(真ん中は「女生きてます 盛り場渡り鳥」(72 森崎東))
1959年3月の松竹本社にテレビ室開設から88年3月の映画製作投資ファンド「フィーチャー・フィルム・エンタープライズ」(FFE)設立までの29年。
映画からテレビへと時代が移り、映画観客数は63年に5億人に半減、70年に2億5500万人とさらに減少し、黄金時代の1/4に縮小した。
1960年代は松竹ヌーヴェルヴァーグの登場から始まった。大島渚は1954年松竹入社、初期の作品「愛と希望の街」(59)など4本は、問題はあっても松竹で撮影し公開した作品だった。61年に退社し創造社を設立した。
大島は吉田喜重や篠田正浩らと松竹ヌーヴェルバーグと呼ばれ、篠田は「恋の片道切符」(60)、吉田は「ろくでなし」(60)を撮った。
大島の「愛と希望の街」のシナリオが展示されていた。表紙には「鳩を売る少年」改題「光と雲」とあり、それを鉛筆で斜線を入れ「愛と希望の街」と書かれていた。上層部との紆余曲折があったことが推察される。
映画がテレビに食われるなか、松竹は、「コント55号と水前寺清子の神様の恋人」(68 野村芳太郎)、ザ・ドリフターズのうち5人が主役の「いい湯だな 全員集合!!」(69 渡辺祐介)、歌手・天地真理を起用した「虹をわたって」(72 前田陽一)など、テレビタレント、歌手、他社出身のスターを起用した作品を製作した。そんななか69年に始まった「寅さん」シリーズ(山田洋次)は正月と夏の定番映画として日本社会に定着した。
この時期には白井信太郎(69年)、大谷竹次郎(69年)、城戸四郎(77年)ら松竹映画の創業者たちが次々に逝去していった。86年には大船製作所設立50周年を迎えるが、一方映画をレンタルビデオで観たり、外部資金を映画製作に取り入れるFFE設立など新たな取組みも始まった。「宇宙大怪獣ギララ」(1967 二本松嘉瑞)という怪獣映画まで松竹でつくっていたことは知らなかった。
第5章 松竹映画の現在―平成から令和へ
1992年4月の衛星映画演劇放送(現・松竹ブロードキャスティング)設立から2020年2月の松竹キネマ合名社創立100周年までの28年。
「釣りバカ日誌」シリーズ(88-2009 栗山富雄、朝原雄三ほか)は平成を代表する人気シリーズとなり、「その男、凶暴につき」(89)で監督デビューした北野武(ビートたけし)が、「ソナチネ」(93)、「BROTHER」(2001)をつくった。
98年に鎌倉シネマワールドを閉鎖、2000年には大船撮影所を閉所し64年の歴史の幕を閉じ、「男はつらいよ」シリーズも渥美清が96年に死去し48作「寅次郎紅の花」(95)で終わったかに見えたが、2019年過去のフィルムを使った「お帰り寅さん」(2019)が公開された。
このブロックはみるべきものが少ない。しいて挙げれば、「カルメン故郷に帰る」「青春残酷物語」「東京暮色」などのデジタル修正版のポスターである。カンヌやヴェネツィアなどの国際映画祭で発表されたため、それぞれ「Carmen Comes Home」「 Cruel Story
of Youth」「Tokyo Twilight」という英文タイトルが和文タイトルとともに付いていた。2012年から18年にかけてつくられたものだが、新鮮な感じがした。しかしこれでは過去の遺産を食いつぶしているようなものだ。出口のところに貼られていたポスターは、「No Music,No Life」のタワーレコード40周年と「お帰り寅さん」の「男はつらいよ50周年」を掛け合わせたものだった。
会社としての松竹をみると、映像関連事業は売上では1034億円のうち53%を占めるがセグメント利益は78億円で27%に過ぎない。利益の63%は不動産事業に頼っている。不動産とは東劇ビル、歌舞伎座、新橋演舞場、銀座松竹スクエア、有楽町マリオン、南座(京都)、大阪松竹座ビルなどであり、いまやビル賃貸業者ともいえる。
長いようで短く、一方では短いようで長い松竹の100年である。
19階建て自社ビル・東劇ビルの6フロアを本社、演劇本部、映像本部、試写室等に使っている
☆2階・長瀬記念ホールOZUで「武士道無残」(1960松竹京都 森川英太朗 74分)という映画を観た。松竹時代劇ヌーヴェルヴァーグと呼ばれたという。森川監督の作品はこの1本だけだった。内容は、主君への殉死を巡り、義理の弟と不倫したため、夫婦と弟が死ぬという「荒唐無稽」な話だった。歌舞伎や文楽も荒唐無稽なストーリーが多いのでそれ自体はかまわないのだが、もうひとつ迫力がなかった。公開4日後に26歳で事故死した兄の信幸役・森美樹の演技がよかった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。