多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

レレレとラララ 赤塚不二夫と手塚治虫

2009年12月11日 | 日記
赤塚不二夫がトキワ荘に入居したのは1956年8月、20歳のときだ。2年前までここに住んでいた手塚治虫は7歳上で、「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」の連載を終了し、「火の鳥/エジプト編」を連載する大先生だった。赤塚は13歳のとき手塚の「ロストワールド」に感動し、55年に石ノ森や長谷とともに、雑司が谷の並木ハウスにあこがれの手塚を訪ねている。
12月5日(土) 午後、豊島区勤労福祉会館で「トキワ荘のヒーローたち」展の特別イベントとして、手塚るみ子さんと赤塚りえ子さんのトークセッション が開催された。進行は手塚プロの湯本裕幸さん。

手塚るみ子さんは、手塚治虫の長女、いまはフリーのプランニング・ディレクター。広告代理店のイベントプロデューサーだったが、手塚の死により父の作品を残すため独立した。赤塚りえ子さんは赤塚不二夫の長女で一人っ子。ロンドンで活動する現代芸術家で、2006年にフジオ・プロ社長に就任した。二人は共に40代なかばの同世代である。
お二人とも当然、トキワ荘時代のことは知るはずもなく、父から聞いたことはほとんどないようだった。りえ子さんがインタビュー記事で読んだ話として「おカネがなくキャベツだけ何日も食べた。しかし心の栄養があった。完全にカネが尽き挫折しそうになったとき、藤子氏に相談すると、『寺田さんに相談したら』とアドバイスされた。寺田さんはカネを貸してくれて『このカネが続く限り描き続けろ」といってくれた」というエピソードを紹介した。その3ヵ月に「ナマちゃん(「漫画王」1958年11月号)の連載の仕事が舞い込んだ。
父子関係についてはたくさん話があった。たとえばるみ子さんの反抗期のときの話、りえ子さんは、セーラー服姿の父やどじょうすくいを踊る父を日常的にみていて、つい最近まで「普通のお父さん」だと思っていたという話、などだ。
二人とも「ものをつくる」仕事に就いた点は親のDNAだと思うそうで、どんなところを尊敬するかという質問に、るみ子さんは「『手塚のマンガは面白くない』といわれショックだったり腹の立つこともあっただろうが、一人で孤独によく闘ったこと」、りえ子さんは「笑いに執着し、生き方がぶれなかったこと」と答えた。赤塚が元気なとき「オレ、笑われて死にたい」と、ボソッといったことがあるそうだ。
父のマンガで好きなのは、るみ子さんは「ジャングル大帝」、りえ子さんは「レッツラゴン」とのことだった。赤塚本人も「オレもあれ大好きなの。描きたいことをやりたいだけたっちゃった。そしたら連載終わっちゃった」と言っていたそうだ。
写真撮影は許可されなかったが、るみ子さんは「ふしぎなメルモ」のメルモちゃんそのままにみえた。りえ子さんはトト子ちゃんが大人になるとこんな感じになるのかなと思わせる方だった(お顔はこちらのサイトから)。

会場からいくつか質問があった。赤塚と手塚の人間像が垣間見えるものがあったので紹介する。
Q(エデンの常連で赤塚が座っていたイスを所蔵する人から)仕事をするときもヘビースモーカーだったのか。
赤塚「じつはマンガを描いている父は記憶にない。見せないようにしていたわけではないと思うが。タバコは、かつてはロングピース、晩年はケントだった。焼け焦げは至るところにある」
Q 父に薦められた映画
手塚 「アマデウス」、サリエリの嫉妬心に惹かれたようだ。
赤塚 「アルジャーノンに花束を」
Q 「マコとルミとチイ(1979.8-81.10 「主婦の友」)に出てくるエピソードは実話か?
手塚 ほぼ実話だ。たとえば長電話魔だったこと。ただルミは幼稚園児の設定だが実際には中学から高校時代だったので、エピソードはかなりデフォルメされている。当時父はめったに家に帰れない忙しい時期だったのに、よく3人の兄弟関係を観察している時間があったといま思う。
Q 音楽に関するエピソード
手塚 クラシックや映画音楽が好きだった。サウンドトラックのコレクションがたくさんストックされている。当時自分は吹奏楽をやっていたので、クラシック音楽や指揮者の話を父とよくした。
赤塚 ジャズから美空ひばり、ディズニーのエレクトリカルパレードの音楽、軍歌まで、いろんな音楽が好きだった。わたしがはじめて覚えた歌は父に教えられた「同期の桜」だった。

最後に、今後の予定が発表された。お二人と水木しげるの次女・悦子さんを加えた3人が語り合った新刊が来年2月に発売されるそうだ。仮タイトルは「ゲゲゲの娘・レレレの娘・ラララの娘」、タイトルだけみても興味がひかれる本である。おそらくこの日聞いた話も出てきそうだ。

トークセッションのあと、あらためて企画展の赤塚と手塚のコーナーをみた。
赤塚のコーナーには漫画の原画が3点あった。「ナマちゃん」(秋田書店「まんが王」1958年12月号)、「まつげちゃん」(61年7-12月号)、「ミミとイコちゃん」(59年2月号)である。赤塚がトキワ荘にいたのは56年8月から61年10月なので、すべてここで描かれた原稿だ。赤塚はトキワ荘時代には、主に少女マンガを描いていた。部屋の右隣には藤子不二夫F、左隣には石ノ森章太郎が住んでいた。すごいメンバーだ。
そのほか「漫画少年」55年2月号への投稿「石器時代の本」の印刷物が展示されていた。赤塚が19歳の作品、新潟から上京し江戸川区の化学工場で働いていた時代のものだろう。「まつげちゃん」のタイトルページの小口側余白には「今回は『ああ!なんとなくの巻」です!どんな話かおたのしみにね!」という写植の捨打ちが1行分貼り付けられていた。
赤塚の言葉「机も何もない部屋で売れないまんがをセッセと毎日かいていた。部屋代を3か月ためたのもこのころ、しかし意外とのんびりしていたのは、性格からだけではない。トキワ荘はまんがの宝庫だった。生きたマンガの参考書がゴロゴロいるのだ(COM 1970年10月号)という文が掲示されていた。貧しくても本当に充実した日々のようで、56年11月30日の野球チームの写真と12月22日の飲み会の集合写真があった。野球チームは「ERRORS」という名前でユニフォームを着た寺田ヒロオ、石ノ森、赤塚の3人が写っていた。飲み会は、寺田、藤子(AとF)、石ノ森、赤塚、つのだ、鈴木と7人が2列に並び、赤塚は隣の石ノ森の背中に抱きついている。
手塚のコーナーには「新人類フウムーン」「漫画のかきかた」、「ジャングル大帝」(52年6月学童社、56年1月・2月号「ぼくら」付録)があったが、手塚がトキワ荘にいたのは53年1月から54年10月までなので、いずれも並木ハウスに転出してからの作品だ。また大阪との往復のなかで使い、旅館に篭ることもあったので、他の9人に比べるとトキワ荘への密着度が高くはなかったのだろう。
「ぼくの孫悟空」(52年2月~59年3月『冒険王』)で、手塚が原稿を書けず九州に雲隠れしたため、赤塚、石ノ森、藤子の4人が代筆した、貴重な原稿が6ページ展示されていた。この回のはじめと終わりが同じシチュエーションになるよう工夫されているそうだ。なお、発刊ギリギリになり手塚本人の原稿が九州から届いたので、この原稿はボツになった。それなのに保存されているとは大したものだ。この時代にはすでに手塚の原稿遅れは常習化していたようだ。
「加藤謙一氏と私」という400字原稿用紙10枚の生原稿が掲示されていた。加藤謙一は「漫画少年」の編集長だった。手塚は「関西でくすぶっていた一赤本絵描きの手塚治虫」と自分を卑下している。「連載執筆のひどい遅れでこの出版社を閉鎖に追い込んだ責任は大半が手塚」にあると書いている。

☆トキワ荘だけでは手狭になったため、1960年、赤塚は紫雲荘にも部屋を借りた。トキワ荘はすでにないが、横というか裏というかにあった紫雲荘は健在である。
赤塚が仕事場兼寝室としていたのは2階4畳半の202号室だった。初代アシスタントは妻になる登茂子、61年に結婚して新居に引っ越したが、引越し先は、紫雲荘から150mほどのところ、目白通りとの二又交番の少し先椎名町4丁目
(現・南長崎2丁目)のバス停の向かいにある鈴木園というお茶屋さんの2階の2間で、家賃1万円の間借りだった。
父も母も絵を描いたので、なんの迷いもなくごく自然にりえ子さんは芸術家になったそうだ。
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