わたくしが「保坂展人のどこどこ日記」を読み始めたのは2006年に「改正」教育基本法が国会で審議されているころだった。そして、ほぼ毎日このブログをみることが習慣になった。ブログやMMを通じて議員のファンになれば、選挙の支援に参加することはごく自然な行動である。
はじめて事務所に行ったのは投票から約1か月前の7月25日の夜だった。南阿佐ヶ谷駅近くの大勝軒というゲンのいい名のラーメン屋の2階、3階にある。
その後、週1度程度だがボランティアに通った。手伝ったのはポスター貼り、郵送物のセット詰め、檄文発送の補助、電話入れだった。その他、街宣でのビラまき、商店街練り歩きにも一度だけ参加し、お店へのビラいれを行った。
もともと杉並はポスターの少ない地域である。自民・石原伸晃にせよ、共産にせよ少なく、やや目立ったのは公明だった。地道に日常活動を行っていることが窺えた。貼り替えのつもりで行ったある地区では、歩けども歩けども見当たらない。結局3時間歩いて、その地区には保坂氏のポスターは1枚も存在しないことがわかった。民主のポスターを貼っている商店にお願いして新規に貼らせていただいたが、その日はそれしか収穫はなかった。
ビラまきはいろんな場所でやった体験があるが、中野駅頭や新宿駅頭よりはましだったが、受取は、やはりもうひとつだった。商店街練り歩きの際にも、ごあいさつを兼ねてお店の方にビラを手渡しした。駅前街宣と比較して、とても効率がよいと思った。
電話入れは、効率よく記入できる集計用紙だったので、1時間に30軒掛けるペースを保てた。わたくしが参加したのは土曜午後のことが多く、普通なら外出で留守の家が多い時間帯だが、8月だったので意外に在宅率は高かった。この選挙では「民主推薦」がもっとも大きな訴求ポイントだった。笑い話のような話だが、こちらがあまりにも「民主推薦」「民主推薦」と電話で強調するので、相手の人から「よく似た名前の社民党の議員を知っているのですが・・・」と言われたことがあった。もちろんそういう方には「ほさかは社民党の議員だが、杉並では民主、国民新党、生活者ネットの野党統一候補だ」と説明させていただいた。電話入れは有権者個人との直接会話ができる数少ないチャンスで重要である。ただ室内作業なので、たまには外の空気を吸いたくなる。幸いこの選挙では、街頭ビラまきや練り歩きを体験できて楽しかった。
最終日は7時すぎまで電話入れをし、いったん荻窪駅北口のフィナーレに参加してふたたび電話入れに舞い戻った。「杉並は石原候補が強力な地盤を築いている地区ですが、ここ2日くらいで、やっと石原候補にあと一歩というところに迫りました。○○さんの1票で、明日杉並に奇跡が起きるかもしれません。よろしくお願いします」と訴えた。候補の学歴を聞かれ「中卒(定時制高校中退)」と答えると「立派な方ですね」と心底尊敬の声をあげてくださった方もいた。
荻窪駅北口で行われたフィナーレは、区議、幸田シャーミン、生活者ネット、民主と型どおりの応援演説が行われた。候補者本人の最後の演説は、政権交代で納税者主権が実現し、1円に至るまで税金がどこに使われているか全部役人に出させられる。これが「民主主義のスタートだ」というものだった。
そして7時59分のラストは、練馬の北川かつしげ区議のあいさつと「ほさか、ほさか、いっしょにガンバロー! ガンバロー! ガンバロー!」だった。わたしも、労組関係の集会では「ガンバロー」のシュプレヒコールを唱和することはあるが、ちょっとあの場で「ガンバロー」は違和感があった。
解散時議席と新議席を比較すると、民主が112→308、自民が303→119、なんのことはない民主と自民の数が入れ替わっただけ、わたしに言わせれば、かつての大自民党のなかで、福田派と田中派が入れ替わっただけのようなものである。2党合わせれば12議席焼け太りしている。
小選挙区制を画策した小沢が苦節16年を経て、2大政党制という名の、一党独裁・翼賛体制を完成させたようなものである。
旧田中派との一体性ということでいえば、民主首脳の鳩山由紀夫、小沢一郎をはじめ、岡田克也、渡部恒三、羽田孜、石井一、藤井裕久など、すべて旧田中派の議員である(ただし山岡賢次は福田派)。
藤井は高齢(77歳)で小選挙区は引退したが、当選前から岡田は「重要閣僚」で処遇すると言っていた。また公示直前の田中真紀子夫妻の民主入党で旧田中派体制は完成したといえる。さすがに田中真紀子が党首になることはないとは思うが、元首あるいは象徴天皇のような地位につくかもしれない。
都議選の連想で共産、社民、国民新党など少数政党がますますジリ貧状態に陥るのではないかと危惧したが、意外にも解散前勢力より微減ですんだ。小選挙区制の衆議院では、すでに社民、共産は落ちるところまで落ちているということなのだろうか。
民主躍進のとばっちりで、一方的に損を引き受けたのは公明党である(30→21)。公明はかつて社民が歩んだのと同じように、凋落の道を歩み始めたのかもしれない
そのなかで「みんなの党」の躍進(5議席だが、東海・近畿で比例単独を立てていればもう2議席多かった)と、兵庫8区で田中康夫が冬柴に勝利したことは特筆される。どういう戦略・戦術を取ったのか、探る価値がある。
はじめて事務所に行ったのは投票から約1か月前の7月25日の夜だった。南阿佐ヶ谷駅近くの大勝軒というゲンのいい名のラーメン屋の2階、3階にある。
その後、週1度程度だがボランティアに通った。手伝ったのはポスター貼り、郵送物のセット詰め、檄文発送の補助、電話入れだった。その他、街宣でのビラまき、商店街練り歩きにも一度だけ参加し、お店へのビラいれを行った。
もともと杉並はポスターの少ない地域である。自民・石原伸晃にせよ、共産にせよ少なく、やや目立ったのは公明だった。地道に日常活動を行っていることが窺えた。貼り替えのつもりで行ったある地区では、歩けども歩けども見当たらない。結局3時間歩いて、その地区には保坂氏のポスターは1枚も存在しないことがわかった。民主のポスターを貼っている商店にお願いして新規に貼らせていただいたが、その日はそれしか収穫はなかった。
ビラまきはいろんな場所でやった体験があるが、中野駅頭や新宿駅頭よりはましだったが、受取は、やはりもうひとつだった。商店街練り歩きの際にも、ごあいさつを兼ねてお店の方にビラを手渡しした。駅前街宣と比較して、とても効率がよいと思った。
電話入れは、効率よく記入できる集計用紙だったので、1時間に30軒掛けるペースを保てた。わたくしが参加したのは土曜午後のことが多く、普通なら外出で留守の家が多い時間帯だが、8月だったので意外に在宅率は高かった。この選挙では「民主推薦」がもっとも大きな訴求ポイントだった。笑い話のような話だが、こちらがあまりにも「民主推薦」「民主推薦」と電話で強調するので、相手の人から「よく似た名前の社民党の議員を知っているのですが・・・」と言われたことがあった。もちろんそういう方には「ほさかは社民党の議員だが、杉並では民主、国民新党、生活者ネットの野党統一候補だ」と説明させていただいた。電話入れは有権者個人との直接会話ができる数少ないチャンスで重要である。ただ室内作業なので、たまには外の空気を吸いたくなる。幸いこの選挙では、街頭ビラまきや練り歩きを体験できて楽しかった。
最終日は7時すぎまで電話入れをし、いったん荻窪駅北口のフィナーレに参加してふたたび電話入れに舞い戻った。「杉並は石原候補が強力な地盤を築いている地区ですが、ここ2日くらいで、やっと石原候補にあと一歩というところに迫りました。○○さんの1票で、明日杉並に奇跡が起きるかもしれません。よろしくお願いします」と訴えた。候補の学歴を聞かれ「中卒(定時制高校中退)」と答えると「立派な方ですね」と心底尊敬の声をあげてくださった方もいた。
荻窪駅北口で行われたフィナーレは、区議、幸田シャーミン、生活者ネット、民主と型どおりの応援演説が行われた。候補者本人の最後の演説は、政権交代で納税者主権が実現し、1円に至るまで税金がどこに使われているか全部役人に出させられる。これが「民主主義のスタートだ」というものだった。
そして7時59分のラストは、練馬の北川かつしげ区議のあいさつと「ほさか、ほさか、いっしょにガンバロー! ガンバロー! ガンバロー!」だった。わたしも、労組関係の集会では「ガンバロー」のシュプレヒコールを唱和することはあるが、ちょっとあの場で「ガンバロー」は違和感があった。
解散時議席と新議席を比較すると、民主が112→308、自民が303→119、なんのことはない民主と自民の数が入れ替わっただけ、わたしに言わせれば、かつての大自民党のなかで、福田派と田中派が入れ替わっただけのようなものである。2党合わせれば12議席焼け太りしている。
小選挙区制を画策した小沢が苦節16年を経て、2大政党制という名の、一党独裁・翼賛体制を完成させたようなものである。
旧田中派との一体性ということでいえば、民主首脳の鳩山由紀夫、小沢一郎をはじめ、岡田克也、渡部恒三、羽田孜、石井一、藤井裕久など、すべて旧田中派の議員である(ただし山岡賢次は福田派)。
藤井は高齢(77歳)で小選挙区は引退したが、当選前から岡田は「重要閣僚」で処遇すると言っていた。また公示直前の田中真紀子夫妻の民主入党で旧田中派体制は完成したといえる。さすがに田中真紀子が党首になることはないとは思うが、元首あるいは象徴天皇のような地位につくかもしれない。
都議選の連想で共産、社民、国民新党など少数政党がますますジリ貧状態に陥るのではないかと危惧したが、意外にも解散前勢力より微減ですんだ。小選挙区制の衆議院では、すでに社民、共産は落ちるところまで落ちているということなのだろうか。
民主躍進のとばっちりで、一方的に損を引き受けたのは公明党である(30→21)。公明はかつて社民が歩んだのと同じように、凋落の道を歩み始めたのかもしれない
そのなかで「みんなの党」の躍進(5議席だが、東海・近畿で比例単独を立てていればもう2議席多かった)と、兵庫8区で田中康夫が冬柴に勝利したことは特筆される。どういう戦略・戦術を取ったのか、探る価値がある。