10月17日(土)夜、天王洲アイルの「銀河劇場」でこまつ座&ホリプロの「組曲虐殺」を観た。
1930年前後の左翼活動という点では河上肇一家の「貧乏物語」や太宰治の「人間合格」でも描かれている。「きらめく星座」にも憲兵が登場した。しかし井上ひさしが特高刑事の幼年時代まで書き込むのは初めてだ。
1幕は、1930年5月「戦旗」防衛巡回講演で関西に行っていた多喜二が、日本共産党への財政援助の疑いで逮捕され大阪島之内署で2人の刑事の取り調べを受けている場面で始まる。取り調べのなかで、5歳のとき貧農の生活に耐えられなくなった一家が小樽で小林三ツ星堂パン店を経営する叔父を頼り移住したこと、叔父の援助で小樽商業や高商に進学したがパン工場の住込み店員として厳しい生活を送ったこと、20歳で北海道拓殖銀行に就職した多喜二が翌年12月酌婦の田口瀧子を身請けしたこと、作品を発表しても「大金持ち」「銀行」「天皇」「陸軍」「警察」などの文字は○○、××に置き換えられ、伏字だらけの本になったことなど、これまでの経緯が説明される。
2場は30年6月杉並の立野信之の借家。伊藤ふじ子が留守番をしていたところに、小樽から上京した姉チマと代々木の美容学校に通う瀧子が訪ねてくる。ふじ子は山梨出身で美学校に通っていたが左翼芝居の女優になった。そこに刑事2人が現れる。3場は30年8月治安維持法で豊多摩刑務所に収容された独房の多喜二、4場は31年1月保釈後に借りた杉並町馬橋の下宿。隣の部屋には監視の刑事が間借りしていた。
2幕1場は、麻布十番の「麻布アパート」。多喜二は地下生活に入り五反田の防毒マスク工場の契約工員向けビラを作成していた。すんでのところで刑事の急襲からふじ子とともに脱出する。工場内の工作の話は「党生活者」(32年8月)そのままである。2場は瀧子がアルバイトする麻布十番の果物店「山中屋」2階のパーラー。姉チマと多喜二が変装して面会する。隣席で慶応大学応援団員に変装し張り込んでいた刑事に逮捕されそうになる。3場は多喜二の死後、馬橋の借家を引き払おうとするチマと瀧子、ラストは刑事と街頭で出会う場面である。
このように敵役の特高刑事がどの場にも登場し、重要な役を担う。
刑事・山本正は東京生まれだが関東大震災で家族を亡くし、大阪の親戚に引き取られる。居心地の悪い思いをしていたところ、剣道の師範・斉藤虎三が学費64円を援助してくれたので学校を卒業できた。恩人の虎三のことをなんとか多喜二に書いてもらおうと工作する。自分でも執筆を試みるが、多喜二に「心に浮かぶかけがえのない光景を映写して原稿用紙に投影すればよい、自分は原稿用紙に体全体でぶつかっていって作品を書いている」とアドバイスされる。山本の「かけがえのない光景」は、子どものときお年玉をもらったとき自分一人抜かされ「いまに見ておれ」と奮起した光景である。最後は改心し、交番巡査組合をつくろうと警官の家を訪ね奥さん方にビラを渡し、自分が特高に追われる生活を送る。
もう一人のベテラン特高刑事・古橋鉄雄は双子の子どもが生まれたばかりだが安月給なので、多喜二逮捕の報奨金をオムツの新調代にと皮算用している。古橋は孤児院育ち、いまの奥さんも孤児院の後輩だ。毎日3時になるとお盆に糸、釘、タワシなど日曜雑貨を載せ京都の住宅街を一列になり行商させられた。冬になっても夜6時まで売り歩かないと叱られるので、孤児院に帰れない。子どもたちはいやでたまらないので、冬は北風吹きすさぶ原っぱで押しくらまんじゅうをして時間をつぶした。その押しくらまんじゅうが古橋の「かけがえのない光景」である。役者全員で押しくらまんじゅうする場面は感動的だった。多喜二の死後、古橋は山本を追っている。
その他、しっかりものの姉チマ、多喜二を慕う恋人・瀧子、同志ふじ子の女性3人の性格がていねいに描かれている。チマの「かけがえのない光景」は、女学校時代市場で雑役の仕事をしていたとき友人が通りかかり、思わず前掛けで自分の顔を隠した光景、瀧子の場合は、売られていく前の夜、母がちらしずしをつくってくれ、いつもならすぐ手を伸ばす弟や妹たちが食べていいのかどうかもじもじしていた光景である。
1幕が1時間40分、2幕は1時間20分、合計3時間という長い芝居だが、そんなに長く感じさせなかった。長く感じなかったのは、プロローグの「代用パン」をはじめ、「伏字ソング」、「豊多摩の低い月」、「お早う多喜二君」、特高刑事の「番犬の歌」、「カタカタ回る胸の映写機」と、要所要所に挿入された歌が効いているからだと思う。
歌はみんなうまいが、とりわけ高畑淳子、神野三鈴がうまかった。芸大声楽科出身の井上芳雄は「ロマンス」と同じく、たしかにうまかった。ただ「独房の歌」の独唱は長すぎると思った。
シナリオが完成したのは初日の4日前、通し稽古は前日だったそうだ。それなのに井上ひさしの初演を何作もやっている演出の栗山民也の離れ業でソツなくまとめていた。ただシナリオも含めまだまだ手直しが必要だと思った。山形公演で進化するのではないだろうか。
役者としては、チマ役・高畑淳子、ふじ子役・神野三鈴が好演していた。神野はこまつ座に定着しつつあるが、高畑にはこれまで田根楽子や銀粉蝶がやっていたような役でまた登場してほしい。「頭痛肩こり樋口一葉」もよさそうだ。また井上芳雄がヒューマニストとしての多喜二らしさを出していた。たとえば瀧子を請け出したのに抱くこともなく純情だったことや、2幕2場で多喜二を刑事から守ろうとするふじ子がピストルを突きつけたとき暴力否定の信念からやめさせるくだりなどだ。井上は「両親がクリスチャンで自分も基本的考え方はクリスチャン」だとパンフに書いている。
最後に、わたくしが関心を抱く村山知義との関係について記す。村山は多喜二の2歳上(学年では3年上)の年代である。
多喜二が小樽から上京した1930年の4月、村山はプロレタリア劇場同盟(プロット)副議長に就任したが、5月21日治安維持法違反で検挙された。12月に保釈され31年5月に共産党に入党した。多喜二も1か月遅れの30年6月24日逮捕され31年1月に保釈された。31年7月には作家同盟常任委員、書記長になり、10月共産党に入党した。村山の数ヵ月遅れで同じようなコースをたどっている。
多喜二はしばしば上落合の村山宅を訪れた。「夏の日、我が家での作家同盟の会議に、彼は浴衣にカンカン帽という姿で、肩を振り振り、下駄音高くあらわれた。そして、私を見つけると、『ケケケ』と笑い声をたてながらすばやくつかまえて、アグラの中に抱き込んで、誰よりも盛んに発言し、時々『異議なし!』などと叫んだりした。頭の上のあのキンキンと甲高い声は、私の耳になまなましく残っているし、突き出した喉仏のコリコリと動く、くすぐったいような感覚を、私の後頭部がはっきりおぼえている」と村山の息子、亜土(1925年4月生まれ)が多喜二の思い出を書いている。その後32年4月ごろから多喜二は地下活動に専心した。一方村山は32年4月ふたたび検挙され33年12月まで獄中にあった。その間、多喜二は33年2月20日正午過ぎ赤坂福吉町で、スパイのせいで今村恒夫とともに逮捕され、その日の19時45分築地署で死亡した。
知義の妻で童話作家の籌子は、面会の際知義に「タキジ コロサレタ」とハンドバッグに白墨で書きつけて知らせた。
獄中にいたので葬儀には出ていないが、3年後の1935年2月21日神田の大雅楼で開かれた「多喜二を偲ぶ会」の記念写真には、多喜二の母セキ、妹・幸、宮本百合子、柳瀬正夢、中野重治、壷井栄、佐多稲子、藤森成吉、立野信之らと並び、村山知義・籌子夫妻の姿がある。
☆こまつ座の芝居は、シス・カンパニーとの共催の「ロマンス」で1度だけS席8400円ということがあったが通常5250円で観ている。この日の劇場は天王洲アイルの銀河劇場。入場料はS8400円、A6300円、わたしの席は2階(会場の呼び方では3階)の最前列だった。『てるてる家族』(2003年)や『義経』(2005年)の石原さとみの顔が見えず残念だった。パンフも1500円といつもの「座」の倍くらいだった。しかし座席は9割くらい埋まっていた。さすがホリプロである。
1930年前後の左翼活動という点では河上肇一家の「貧乏物語」や太宰治の「人間合格」でも描かれている。「きらめく星座」にも憲兵が登場した。しかし井上ひさしが特高刑事の幼年時代まで書き込むのは初めてだ。
1幕は、1930年5月「戦旗」防衛巡回講演で関西に行っていた多喜二が、日本共産党への財政援助の疑いで逮捕され大阪島之内署で2人の刑事の取り調べを受けている場面で始まる。取り調べのなかで、5歳のとき貧農の生活に耐えられなくなった一家が小樽で小林三ツ星堂パン店を経営する叔父を頼り移住したこと、叔父の援助で小樽商業や高商に進学したがパン工場の住込み店員として厳しい生活を送ったこと、20歳で北海道拓殖銀行に就職した多喜二が翌年12月酌婦の田口瀧子を身請けしたこと、作品を発表しても「大金持ち」「銀行」「天皇」「陸軍」「警察」などの文字は○○、××に置き換えられ、伏字だらけの本になったことなど、これまでの経緯が説明される。
2場は30年6月杉並の立野信之の借家。伊藤ふじ子が留守番をしていたところに、小樽から上京した姉チマと代々木の美容学校に通う瀧子が訪ねてくる。ふじ子は山梨出身で美学校に通っていたが左翼芝居の女優になった。そこに刑事2人が現れる。3場は30年8月治安維持法で豊多摩刑務所に収容された独房の多喜二、4場は31年1月保釈後に借りた杉並町馬橋の下宿。隣の部屋には監視の刑事が間借りしていた。
2幕1場は、麻布十番の「麻布アパート」。多喜二は地下生活に入り五反田の防毒マスク工場の契約工員向けビラを作成していた。すんでのところで刑事の急襲からふじ子とともに脱出する。工場内の工作の話は「党生活者」(32年8月)そのままである。2場は瀧子がアルバイトする麻布十番の果物店「山中屋」2階のパーラー。姉チマと多喜二が変装して面会する。隣席で慶応大学応援団員に変装し張り込んでいた刑事に逮捕されそうになる。3場は多喜二の死後、馬橋の借家を引き払おうとするチマと瀧子、ラストは刑事と街頭で出会う場面である。
このように敵役の特高刑事がどの場にも登場し、重要な役を担う。
刑事・山本正は東京生まれだが関東大震災で家族を亡くし、大阪の親戚に引き取られる。居心地の悪い思いをしていたところ、剣道の師範・斉藤虎三が学費64円を援助してくれたので学校を卒業できた。恩人の虎三のことをなんとか多喜二に書いてもらおうと工作する。自分でも執筆を試みるが、多喜二に「心に浮かぶかけがえのない光景を映写して原稿用紙に投影すればよい、自分は原稿用紙に体全体でぶつかっていって作品を書いている」とアドバイスされる。山本の「かけがえのない光景」は、子どものときお年玉をもらったとき自分一人抜かされ「いまに見ておれ」と奮起した光景である。最後は改心し、交番巡査組合をつくろうと警官の家を訪ね奥さん方にビラを渡し、自分が特高に追われる生活を送る。
もう一人のベテラン特高刑事・古橋鉄雄は双子の子どもが生まれたばかりだが安月給なので、多喜二逮捕の報奨金をオムツの新調代にと皮算用している。古橋は孤児院育ち、いまの奥さんも孤児院の後輩だ。毎日3時になるとお盆に糸、釘、タワシなど日曜雑貨を載せ京都の住宅街を一列になり行商させられた。冬になっても夜6時まで売り歩かないと叱られるので、孤児院に帰れない。子どもたちはいやでたまらないので、冬は北風吹きすさぶ原っぱで押しくらまんじゅうをして時間をつぶした。その押しくらまんじゅうが古橋の「かけがえのない光景」である。役者全員で押しくらまんじゅうする場面は感動的だった。多喜二の死後、古橋は山本を追っている。
その他、しっかりものの姉チマ、多喜二を慕う恋人・瀧子、同志ふじ子の女性3人の性格がていねいに描かれている。チマの「かけがえのない光景」は、女学校時代市場で雑役の仕事をしていたとき友人が通りかかり、思わず前掛けで自分の顔を隠した光景、瀧子の場合は、売られていく前の夜、母がちらしずしをつくってくれ、いつもならすぐ手を伸ばす弟や妹たちが食べていいのかどうかもじもじしていた光景である。
1幕が1時間40分、2幕は1時間20分、合計3時間という長い芝居だが、そんなに長く感じさせなかった。長く感じなかったのは、プロローグの「代用パン」をはじめ、「伏字ソング」、「豊多摩の低い月」、「お早う多喜二君」、特高刑事の「番犬の歌」、「カタカタ回る胸の映写機」と、要所要所に挿入された歌が効いているからだと思う。
歌はみんなうまいが、とりわけ高畑淳子、神野三鈴がうまかった。芸大声楽科出身の井上芳雄は「ロマンス」と同じく、たしかにうまかった。ただ「独房の歌」の独唱は長すぎると思った。
シナリオが完成したのは初日の4日前、通し稽古は前日だったそうだ。それなのに井上ひさしの初演を何作もやっている演出の栗山民也の離れ業でソツなくまとめていた。ただシナリオも含めまだまだ手直しが必要だと思った。山形公演で進化するのではないだろうか。
役者としては、チマ役・高畑淳子、ふじ子役・神野三鈴が好演していた。神野はこまつ座に定着しつつあるが、高畑にはこれまで田根楽子や銀粉蝶がやっていたような役でまた登場してほしい。「頭痛肩こり樋口一葉」もよさそうだ。また井上芳雄がヒューマニストとしての多喜二らしさを出していた。たとえば瀧子を請け出したのに抱くこともなく純情だったことや、2幕2場で多喜二を刑事から守ろうとするふじ子がピストルを突きつけたとき暴力否定の信念からやめさせるくだりなどだ。井上は「両親がクリスチャンで自分も基本的考え方はクリスチャン」だとパンフに書いている。
最後に、わたくしが関心を抱く村山知義との関係について記す。村山は多喜二の2歳上(学年では3年上)の年代である。
多喜二が小樽から上京した1930年の4月、村山はプロレタリア劇場同盟(プロット)副議長に就任したが、5月21日治安維持法違反で検挙された。12月に保釈され31年5月に共産党に入党した。多喜二も1か月遅れの30年6月24日逮捕され31年1月に保釈された。31年7月には作家同盟常任委員、書記長になり、10月共産党に入党した。村山の数ヵ月遅れで同じようなコースをたどっている。
多喜二はしばしば上落合の村山宅を訪れた。「夏の日、我が家での作家同盟の会議に、彼は浴衣にカンカン帽という姿で、肩を振り振り、下駄音高くあらわれた。そして、私を見つけると、『ケケケ』と笑い声をたてながらすばやくつかまえて、アグラの中に抱き込んで、誰よりも盛んに発言し、時々『異議なし!』などと叫んだりした。頭の上のあのキンキンと甲高い声は、私の耳になまなましく残っているし、突き出した喉仏のコリコリと動く、くすぐったいような感覚を、私の後頭部がはっきりおぼえている」と村山の息子、亜土(1925年4月生まれ)が多喜二の思い出を書いている。その後32年4月ごろから多喜二は地下活動に専心した。一方村山は32年4月ふたたび検挙され33年12月まで獄中にあった。その間、多喜二は33年2月20日正午過ぎ赤坂福吉町で、スパイのせいで今村恒夫とともに逮捕され、その日の19時45分築地署で死亡した。
知義の妻で童話作家の籌子は、面会の際知義に「タキジ コロサレタ」とハンドバッグに白墨で書きつけて知らせた。
獄中にいたので葬儀には出ていないが、3年後の1935年2月21日神田の大雅楼で開かれた「多喜二を偲ぶ会」の記念写真には、多喜二の母セキ、妹・幸、宮本百合子、柳瀬正夢、中野重治、壷井栄、佐多稲子、藤森成吉、立野信之らと並び、村山知義・籌子夫妻の姿がある。
☆こまつ座の芝居は、シス・カンパニーとの共催の「ロマンス」で1度だけS席8400円ということがあったが通常5250円で観ている。この日の劇場は天王洲アイルの銀河劇場。入場料はS8400円、A6300円、わたしの席は2階(会場の呼び方では3階)の最前列だった。『てるてる家族』(2003年)や『義経』(2005年)の石原さとみの顔が見えず残念だった。パンフも1500円といつもの「座」の倍くらいだった。しかし座席は9割くらい埋まっていた。さすがホリプロである。