こまばアゴラ劇場で青年団第55回公演「火宅か修羅か」を観た。
舞台は江ノ島あたりの海の近くにある格式の高い旅館のロビー。登場人物は4グループに分かれる。
まず、ここに10年ほど住みついて仕事をしている小説家と由美、好恵、ルリの3姉妹。母は13-14年前にルリをかばい交通事故で亡くなった。そして小説家と近々結婚する30代半ばの登喜子と原稿待ちをしている編集者。長く大学に通学していないことが2人の姉に発覚し叱られて家を飛び出したルリが突然父を訪ねてきた。心配した2人の姉も後を追い旅館を訪れる。三姉妹は、由美とあまり年の違わない登喜子と初めてぎごちない対面を果たす。
もうひとつは、高校卒業後12年の高校ボート部OBの男性2人(小林、中島)と女性3人(平山、斉藤、湯浅)。1泊のOB会がこの旅館で開かれる。今年は、ボートの転覆事故で死亡した同級生の13回忌に当たる。OBはバラバラと集まり久々に顔を合わせ、風呂に入ったり射的に出かける。
そして旅館の経営者、独身の弥生・郁代姉妹と従業員の石田。弥生と石田はお互いに惹かれあっているようだと、郁代が小説家一家にほのめかす。
最後に、自殺をにおわせるような話をする謎の男女客。
三女ルリが妖精のような役回りで、弥生と石田の橋渡しをしたり、OBグループで一人生き残った小林のトラウマを聞いてやり母が好きだった「真白き富士の根」を口ずさんで「介入」し、シナリオはまとまっていく。姉妹が子どものころ、風呂で父から聞かされた海底での阿修羅と帝釈天の闘い、ボートから投げ出された小林が水中で見たギリシャ神話のポセイドン、この2つがある意味でのテーマである。作者は「すべての人は心に修羅を宿している」と書いている。ルリは登喜子と庭に散歩に出たとき思わず「お母さん」と叫び、登喜子は凍り付いてしまった。
やっと原稿を編集者に手渡した小説家が、テール・スープの材料を調達し手づくり料理をつくり始め、エンディングを迎える。
表面的には、ただお茶やジュースが出され、ときどき人物の出入りがあり淡々とした日常的な会話が交わされだけの舞台で、「冒険王」「東京ノート」「ソウル市民 昭和望郷編」と同様の、いつもの平田の芝居である。「非日常的」なシチュエイションでの「日常的」な会話が平田のシナリオの特徴だ。ツバキを飛ばす激しいセリフも激しいアクションもない。喜怒哀楽の感情すらほとんど表出されない。
では何がよいかというと、シナリオが持つ強さと微妙な内面の揺らぎを映し出す会話だ。ただしこの作品では、シナリオはあまり強くはなかった。
夜の宴会で小説家一家に新たな関係が築かれるかもしれないとの予感を与えるのでいちおうシナリオ上の解決はついている。しかし謎の男女客の「謎」は最後まで解き明かされない。ラストまでの道筋ももたもたした感じでシナリオとしては失敗のように思えた。
(とは言いながら、平田の作はたとえば「砂と兵隊」のように観劇直後は失敗作に思えても、後になるとなぜかいくつかのシーンが思い出されることもあるので、今後印象が変わる可能性もある)
演出では、初期の作品は同時多発会話が特徴だった。この作品は95年に「東京ノート」で岸田戯曲賞を受賞後の第1作で、同時多発会話が顕著に出現する(今回は12年ぶりの再演)。冒険王では左右振り分けの2段ベットを使っていたが、この芝居は左右振り分けのソファセットで2組が同時に発話する。筋を追いにくい場面もあった。
役者では、ルリ役荻野友里と小林役古屋隆太が好演、石田役島田曜蔵も存在感があった。ベテラン志賀廣太郎(小説家)と山村崇子(登喜子役)が作品のベースをしっかり支えていた。
太い柱に煤を塗りつけた舞台装置が、格式ある旅館の重厚な雰囲気をつくり上げていた。キリンの間、象の間、シマウマの間というシュールな部屋の名は、おかしかった。
こまばアゴラ劇場 向かいは東大電気という小さな電気屋さん
☆はじめてこの劇団の芝居をみたのは96年の冒険王(第31回公演)だった。その後1―2年に一本見ているが、最も印象が強かったのは「上野動物園再々々襲撃」(2001年 第41回公演)だ。原作・金杉忠男(中村座→金杉忠男アソシエーツ)で平田芝居とはちょっと趣を異にする。わたしには「とんとんともだち」(サトウハチロー)「月の沙漠」(加藤まさを)の熱唱と、騎馬を組み「藤崎、死ぬなよー」「おお」というラストのセリフが忘れられない。
☆ひらたよーこさんが下足番ならぬ荷物預かりをやっていた。こういうところがこまばアゴラ劇場のよさだと思う。
芝居がハネたのが3時半だったので、帰りに東大駒場の校内に入ってみた(こまばアゴラ劇場はその名も「東大電気」という電気屋さんの前にある)。この時期なので学生の姿はほとんど見えなかったが運動サークルの学生は男の子も女の子も賢そうに見えた(気のせいだとは思うが)。
東大駒場のグラウンド
舞台は江ノ島あたりの海の近くにある格式の高い旅館のロビー。登場人物は4グループに分かれる。
まず、ここに10年ほど住みついて仕事をしている小説家と由美、好恵、ルリの3姉妹。母は13-14年前にルリをかばい交通事故で亡くなった。そして小説家と近々結婚する30代半ばの登喜子と原稿待ちをしている編集者。長く大学に通学していないことが2人の姉に発覚し叱られて家を飛び出したルリが突然父を訪ねてきた。心配した2人の姉も後を追い旅館を訪れる。三姉妹は、由美とあまり年の違わない登喜子と初めてぎごちない対面を果たす。
もうひとつは、高校卒業後12年の高校ボート部OBの男性2人(小林、中島)と女性3人(平山、斉藤、湯浅)。1泊のOB会がこの旅館で開かれる。今年は、ボートの転覆事故で死亡した同級生の13回忌に当たる。OBはバラバラと集まり久々に顔を合わせ、風呂に入ったり射的に出かける。
そして旅館の経営者、独身の弥生・郁代姉妹と従業員の石田。弥生と石田はお互いに惹かれあっているようだと、郁代が小説家一家にほのめかす。
最後に、自殺をにおわせるような話をする謎の男女客。
三女ルリが妖精のような役回りで、弥生と石田の橋渡しをしたり、OBグループで一人生き残った小林のトラウマを聞いてやり母が好きだった「真白き富士の根」を口ずさんで「介入」し、シナリオはまとまっていく。姉妹が子どものころ、風呂で父から聞かされた海底での阿修羅と帝釈天の闘い、ボートから投げ出された小林が水中で見たギリシャ神話のポセイドン、この2つがある意味でのテーマである。作者は「すべての人は心に修羅を宿している」と書いている。ルリは登喜子と庭に散歩に出たとき思わず「お母さん」と叫び、登喜子は凍り付いてしまった。
やっと原稿を編集者に手渡した小説家が、テール・スープの材料を調達し手づくり料理をつくり始め、エンディングを迎える。
表面的には、ただお茶やジュースが出され、ときどき人物の出入りがあり淡々とした日常的な会話が交わされだけの舞台で、「冒険王」「東京ノート」「ソウル市民 昭和望郷編」と同様の、いつもの平田の芝居である。「非日常的」なシチュエイションでの「日常的」な会話が平田のシナリオの特徴だ。ツバキを飛ばす激しいセリフも激しいアクションもない。喜怒哀楽の感情すらほとんど表出されない。
では何がよいかというと、シナリオが持つ強さと微妙な内面の揺らぎを映し出す会話だ。ただしこの作品では、シナリオはあまり強くはなかった。
夜の宴会で小説家一家に新たな関係が築かれるかもしれないとの予感を与えるのでいちおうシナリオ上の解決はついている。しかし謎の男女客の「謎」は最後まで解き明かされない。ラストまでの道筋ももたもたした感じでシナリオとしては失敗のように思えた。
(とは言いながら、平田の作はたとえば「砂と兵隊」のように観劇直後は失敗作に思えても、後になるとなぜかいくつかのシーンが思い出されることもあるので、今後印象が変わる可能性もある)
演出では、初期の作品は同時多発会話が特徴だった。この作品は95年に「東京ノート」で岸田戯曲賞を受賞後の第1作で、同時多発会話が顕著に出現する(今回は12年ぶりの再演)。冒険王では左右振り分けの2段ベットを使っていたが、この芝居は左右振り分けのソファセットで2組が同時に発話する。筋を追いにくい場面もあった。
役者では、ルリ役荻野友里と小林役古屋隆太が好演、石田役島田曜蔵も存在感があった。ベテラン志賀廣太郎(小説家)と山村崇子(登喜子役)が作品のベースをしっかり支えていた。
太い柱に煤を塗りつけた舞台装置が、格式ある旅館の重厚な雰囲気をつくり上げていた。キリンの間、象の間、シマウマの間というシュールな部屋の名は、おかしかった。
こまばアゴラ劇場 向かいは東大電気という小さな電気屋さん
☆はじめてこの劇団の芝居をみたのは96年の冒険王(第31回公演)だった。その後1―2年に一本見ているが、最も印象が強かったのは「上野動物園再々々襲撃」(2001年 第41回公演)だ。原作・金杉忠男(中村座→金杉忠男アソシエーツ)で平田芝居とはちょっと趣を異にする。わたしには「とんとんともだち」(サトウハチロー)「月の沙漠」(加藤まさを)の熱唱と、騎馬を組み「藤崎、死ぬなよー」「おお」というラストのセリフが忘れられない。
☆ひらたよーこさんが下足番ならぬ荷物預かりをやっていた。こういうところがこまばアゴラ劇場のよさだと思う。
芝居がハネたのが3時半だったので、帰りに東大駒場の校内に入ってみた(こまばアゴラ劇場はその名も「東大電気」という電気屋さんの前にある)。この時期なので学生の姿はほとんど見えなかったが運動サークルの学生は男の子も女の子も賢そうに見えた(気のせいだとは思うが)。
東大駒場のグラウンド