5月13日(日)夕方、三軒茶屋の三茶しゃれなあどで、保坂展人区長就任一周年集会と広河隆一さんの記念講演「チェルノブイリ、そして、福島の子どもたち」が開催された。
まず星野弥生「元気印の会」事務局長からあいさつがあった。
就任1周年で集会をやろうということになり区長に電話した。たまたまその日は広河さんが区長を来訪した日だった。広河さんは沖縄で福島の子どもの保養活動をしているが、世田谷でも春休みに福島の50人の子どもを招待し「ふくしまっ子リフレッシュin世田谷」を開催し、夏休みにも第2回を計画している。そこでチェルノブイリと福島の原発事故を現地取材した広河さんに講演をお願いすることにした。
次に保坂区長本人からあいさつがあった。
区長に就任して1年、3・11を繰り返さないよう日本の対応を変えたいといろんな試みを実行した。区民参加と情報開示をポイントに、たとえば、月2回記者会見を行っている。そんな区はほかにない。毎回記者で満杯になる。
そして、広河隆一さんの講演が始まった。広河さんは1943年生まれ、区内羽根木在住、中東問題と核問題を中心に取材を続ける。そのかたわら救援のためサナトリウムやリハビリセンターを現地に建設しチェルノブイリ子ども基金顧問を務める。雑誌「DAYS JAPAN」編集長。
いまから26年前の1986年4月26日チェルノブイリ原発4号炉の炉心がメルトダウンし、たちまちヨーロッパ全域に放射線が広がった。
早期発見すれば助かるのに「必要ない」と捨て置かれ、見せしめ殺人のように子どもたちが死んでいった。
早期発見すれば助かったのに甲状腺ガンが肺や脳に転移し、苦しみながら死んでいった子どもたち、なぜ窓を閉めなかったのか、なぜわたしは哺乳瓶の吸い口を洗わなかったのかと嘆き、自分を責め続ける母親たち、巨大化したキノコ、60センチもあるタンポポの葉、赤く変色した松・・・。
原発事故の場合、まず大事なのは逃げることだ。いろんな事情で逃げられないのならときどき保養にいくことだ。とくに子どもと妊婦を逃がさないといけない。実験場においておくわけにはいかない。そこでチェルノブイリ子ども基金を立ち上げた。
現地には運転員や消防士などすぐに亡くなった28人の墓が並んでいた。これに小児甲状腺がんで亡くなった15人を加えた43人が、公式に発表されているチェルノブイリ原発事故の死者だ。しかしそんな人数でないことは住民がよく知っている。
IAEAから派遣された事故健康影響調査団の学者が安全だという。43人以外の死者には他の原因をつくり数字を操作する。学者は調査をしない。そして調べても結果を発表しない。その調査団長は広島のSや長崎のNだった。広島・長崎を背負っているので住民が信用すると、日本人が抜擢されたわけだ。しかしSは「チッソと水俣病は関係ない」「イタイイタイ病と工場排水とは関連なし」「黒い雨と病気には関係がない」と発言する人物だ。だからこういう結果になることは予想されたが、その通りになった。
25年たって福島原発で事故が起こった。わたしは3・11の翌朝東京を出発し、夜福島県に入り13日朝双葉町に入った。チェノブイリにも行っているのになぜ11日夜出発しなかったのか、深く後悔した。
わたしは100マイクロシーベルトまでの計測器、友人は1000マイクロシーベルトまで測れる計測器を持参したが、町役場の前で2台とも針が振り切れた。そのころ「ペットにエサをやろう」とか「通帳を持ち出そう」と戻ってきた町民に何人か出会った。それで計測器を示して「ここからすぐ出てください」と声をかけると、Uターンしていった。
事故から1年2か月が過ぎた。事故発生直後と同じく、「原発は安全だ」「日本経済が空洞化するので原発を再稼働すべきだ」という人がいる。
●対談
保坂 3・11が教えてくれた生き方は、「家族とともにする食事、友人との語らいなど人生のありふれた1シーンが大事だ」ということだ。「もっと高く」「もっとたくさん」から、ほどほどに今の場を大切にし、価値を再発見していく
全国に空家は756万軒ある。世田谷には3万5000軒あり、そのうち戸建てが7000軒ある。今後増える一方だという。こういう空家を利用して一人暮らしの老人が、たまにはみんなで食事をする会場にできないものか。家族ではないが温かい関係を再構築する、修復修繕型の福祉社会を実現したい。そのうち「世田谷モデル」と呼ばれるようになるかもしれない。今後もがんばりたい。
広河 ベラルーシで保養センターをつくったように日本にも保養センターをつくりたいと思った。一番早く手を挙げてくれたのが沖縄だった。本島から80キロ西の久米島がその場所だ。7月1日オープンの予定で50人宿泊できる「球美の里」(くみのさと)という保養施設をつくっている。第一陣が7月5日に入り、夏休み中に3組招待する。その後秋から来春にかけ10―20組呼びたい。
費用は、犠牲者に払わせたくないのでできるだけ自己負担なしにしたい。ただ福島のほうで、羽田までのバス代は出したいと言ってくれている。しかしカネが圧倒的に不足している。たとえば建物と土地があっても、イスも机もベッドもない。カーテンやシーツもない状態だ。カンパには2種類あり、ひとつはいくらでもOK、もうひとつは特定の子どもの費用5万円を出す方式だ。チェノブイリ子ども基金の里親(スポンサー)のようなものだ。
保坂 昨年の夏休みに川崎で福島の子どもたちを招きサマースクールをやったという話を聞いた。それで世田谷でも春休みにやれないかということになり、区内のNPOなど30団体、区も応援して6泊7日と3泊4日の2グループ約50人が砧公園や羽根木のプレイパークで過ごした。1年間外に出られなかった子どもは「お母さん、この花に触っていいの?」と聞いていた。好評にこたえ、今年の夏休みにも第2回を開催することになった。
☆世田谷では6月に2つの集会が予定されている。ひとつは春休みに行った「第1回福島の子どもたちとともに 報告会」だ。6月17日(日)午後、産業プラザで行う(詳しくはこのサイトを参照)。もうひとつは昨年から話題になっている世田谷電力をテーマにした「世田谷電力 どこまで?」という集会だ。6月10日(日)昼、世田谷こどもいのちのネットワーク総会として開催する。
まず星野弥生「元気印の会」事務局長からあいさつがあった。
就任1周年で集会をやろうということになり区長に電話した。たまたまその日は広河さんが区長を来訪した日だった。広河さんは沖縄で福島の子どもの保養活動をしているが、世田谷でも春休みに福島の50人の子どもを招待し「ふくしまっ子リフレッシュin世田谷」を開催し、夏休みにも第2回を計画している。そこでチェルノブイリと福島の原発事故を現地取材した広河さんに講演をお願いすることにした。
次に保坂区長本人からあいさつがあった。
区長に就任して1年、3・11を繰り返さないよう日本の対応を変えたいといろんな試みを実行した。区民参加と情報開示をポイントに、たとえば、月2回記者会見を行っている。そんな区はほかにない。毎回記者で満杯になる。
そして、広河隆一さんの講演が始まった。広河さんは1943年生まれ、区内羽根木在住、中東問題と核問題を中心に取材を続ける。そのかたわら救援のためサナトリウムやリハビリセンターを現地に建設しチェルノブイリ子ども基金顧問を務める。雑誌「DAYS JAPAN」編集長。
いまから26年前の1986年4月26日チェルノブイリ原発4号炉の炉心がメルトダウンし、たちまちヨーロッパ全域に放射線が広がった。
早期発見すれば助かるのに「必要ない」と捨て置かれ、見せしめ殺人のように子どもたちが死んでいった。
早期発見すれば助かったのに甲状腺ガンが肺や脳に転移し、苦しみながら死んでいった子どもたち、なぜ窓を閉めなかったのか、なぜわたしは哺乳瓶の吸い口を洗わなかったのかと嘆き、自分を責め続ける母親たち、巨大化したキノコ、60センチもあるタンポポの葉、赤く変色した松・・・。
原発事故の場合、まず大事なのは逃げることだ。いろんな事情で逃げられないのならときどき保養にいくことだ。とくに子どもと妊婦を逃がさないといけない。実験場においておくわけにはいかない。そこでチェルノブイリ子ども基金を立ち上げた。
現地には運転員や消防士などすぐに亡くなった28人の墓が並んでいた。これに小児甲状腺がんで亡くなった15人を加えた43人が、公式に発表されているチェルノブイリ原発事故の死者だ。しかしそんな人数でないことは住民がよく知っている。
IAEAから派遣された事故健康影響調査団の学者が安全だという。43人以外の死者には他の原因をつくり数字を操作する。学者は調査をしない。そして調べても結果を発表しない。その調査団長は広島のSや長崎のNだった。広島・長崎を背負っているので住民が信用すると、日本人が抜擢されたわけだ。しかしSは「チッソと水俣病は関係ない」「イタイイタイ病と工場排水とは関連なし」「黒い雨と病気には関係がない」と発言する人物だ。だからこういう結果になることは予想されたが、その通りになった。
25年たって福島原発で事故が起こった。わたしは3・11の翌朝東京を出発し、夜福島県に入り13日朝双葉町に入った。チェノブイリにも行っているのになぜ11日夜出発しなかったのか、深く後悔した。
わたしは100マイクロシーベルトまでの計測器、友人は1000マイクロシーベルトまで測れる計測器を持参したが、町役場の前で2台とも針が振り切れた。そのころ「ペットにエサをやろう」とか「通帳を持ち出そう」と戻ってきた町民に何人か出会った。それで計測器を示して「ここからすぐ出てください」と声をかけると、Uターンしていった。
事故から1年2か月が過ぎた。事故発生直後と同じく、「原発は安全だ」「日本経済が空洞化するので原発を再稼働すべきだ」という人がいる。
●対談
保坂 3・11が教えてくれた生き方は、「家族とともにする食事、友人との語らいなど人生のありふれた1シーンが大事だ」ということだ。「もっと高く」「もっとたくさん」から、ほどほどに今の場を大切にし、価値を再発見していく
全国に空家は756万軒ある。世田谷には3万5000軒あり、そのうち戸建てが7000軒ある。今後増える一方だという。こういう空家を利用して一人暮らしの老人が、たまにはみんなで食事をする会場にできないものか。家族ではないが温かい関係を再構築する、修復修繕型の福祉社会を実現したい。そのうち「世田谷モデル」と呼ばれるようになるかもしれない。今後もがんばりたい。
広河 ベラルーシで保養センターをつくったように日本にも保養センターをつくりたいと思った。一番早く手を挙げてくれたのが沖縄だった。本島から80キロ西の久米島がその場所だ。7月1日オープンの予定で50人宿泊できる「球美の里」(くみのさと)という保養施設をつくっている。第一陣が7月5日に入り、夏休み中に3組招待する。その後秋から来春にかけ10―20組呼びたい。
費用は、犠牲者に払わせたくないのでできるだけ自己負担なしにしたい。ただ福島のほうで、羽田までのバス代は出したいと言ってくれている。しかしカネが圧倒的に不足している。たとえば建物と土地があっても、イスも机もベッドもない。カーテンやシーツもない状態だ。カンパには2種類あり、ひとつはいくらでもOK、もうひとつは特定の子どもの費用5万円を出す方式だ。チェノブイリ子ども基金の里親(スポンサー)のようなものだ。
保坂 昨年の夏休みに川崎で福島の子どもたちを招きサマースクールをやったという話を聞いた。それで世田谷でも春休みにやれないかということになり、区内のNPOなど30団体、区も応援して6泊7日と3泊4日の2グループ約50人が砧公園や羽根木のプレイパークで過ごした。1年間外に出られなかった子どもは「お母さん、この花に触っていいの?」と聞いていた。好評にこたえ、今年の夏休みにも第2回を開催することになった。
☆世田谷では6月に2つの集会が予定されている。ひとつは春休みに行った「第1回福島の子どもたちとともに 報告会」だ。6月17日(日)午後、産業プラザで行う(詳しくはこのサイトを参照)。もうひとつは昨年から話題になっている世田谷電力をテーマにした「世田谷電力 どこまで?」という集会だ。6月10日(日)昼、世田谷こどもいのちのネットワーク総会として開催する。