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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

没後10年 挑戦し続けた映画監督・大島渚

2023年06月03日 | 映画

京橋・国立映画アーカイブの特集「没後10年 映画監督 大島渚」で4-5月の2か月間に32本の映画が上映された。わたしは1970年代前半にたしか四谷公会堂(現・四谷区民ホールで主要作品はみたので、今回は未見作品を中心に観た。

制作年代順に並べると、飼育(1961大宝)、悦楽(65創造社 松竹)、無理心中 日本の夏(67創造社 松竹)、忍者武芸帳(67創造社 ATG)、帰って来たヨッパライ(68創造社 松竹)、東京戦争戦後秘話(70創造社 ATG)、マックス、モン・アムール(86グリニッチ・フィルム・プロ 東宝東和ほか)の7本のほか、ユンボギの日記(65創造社)、KYOTO,MY MOTHER'S PLACE(91大島渚プロ BBC)のドキュメンタリー、小さな冒険旅行(63日生劇場映画部)、私のベレット(64日本映画監督協会プロ・いすず)のPR映画、テレビドラマ「アジアの曙」(64-65創造社・TBS 13話あるがわたしがみたのは第1話のみ)、映画の感想はあとで述べるが、7階展示室の企画展の158点の作品資料、個人資料に珍しいものがたくさんあった。

企画展展示の一角
展示は「1 出生から学生時代、そして撮影所へ」「2 ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として」「3 松竹退社と模索の季節」「4 独立プロ・創造社の挑戦」「5 創造社の解散と国際的活躍」「6 大島映画の美的参謀、戸田重昌」「7 幻の企画と晩年」の7ブロックと3つのポスターギャラリー、アルバム・作家の肖像から構成される。
大島は資料保存魔で、膨大な作品資料・個人資料が遺された。それを映画評論家・樋口尚文が整理したものの一部がこの企画展であり、大著「大島渚 全映画秘蔵資料集成(樋口尚文編著 国書刊行会 2022.12 820p)である。
「出生から学生時代」には大島の進学適性検査受験票(1949)があった。これは1947-54年の7年間文部省が大学受験希望者に全国一斉に実施した検査制度の受験票である。大島が京都市立洛陽高校から京都大学法学部に進学し松竹に入社したことは知られているが、第一志望京大法学部のほか、第二が大阪市大、第三が大阪外語大学だったとは知らなかった。文学部への志向もみられる。学生劇団で狂言の脚本「雷神長者」という作品を書いていたこともわかった。
1954年松竹大船撮影所に入社したとき、同期に山田洋次、1期上に篠田正浩、2期上が今村昌平、1期下に吉田喜重がおり、大庭秀雄や野村芳太郎らの助監督を務めたそうだ。すごいメンバー、すごい時代である。
デビュー作「愛と希望の街」のタイトルや内容で会社と対立したことは有名だが、セット平面図やロケハン写真があった。脚本執筆時の原風景は京都の裏ぶれた住宅・工場・ガスタンクだったが、ロケハンは荒川、実際に撮影したのは鶴見だったそうだ。
妻の小山明子は1955年1月に松竹専属になり、直後の「結婚白書」の助監督が大島で60年12月結婚、大島28歳、小山26歳だった。翌61年6月2人とも退社し11月創造社を立ち上げた。結婚前年59年のクリスマスに小山の自宅で撮影した笑顔の2人の写真があった。
「創造社の挑戦」の時期に大島は、第1作「悦楽」(65)から「夏の妹」(72)まで12年で13本の映画をつくり出した。「日本春歌考(67)の「『日本春歌考』に参加する諸君へ」という冊子が展示されていた。「映画は全スタッフ及び俳優の参加により創造される」という心構えが記されていた。この映画は田村孟の教え子だった大学生・田島敏男のシノプシスをもとにイメージ台本をつくったそうだ。ラストシーンの手書き原稿「大学構内。七人が歩いていく。誰もしゃべるものはいない。はじめて七人が並んで歩く。しだいに眉子が急ぎ足になって先頭に立つ。次に上田たち三人がつづき、その後に豊秋と高子、少しおくれて金田がひとり歩む」とあった。「日本春歌考」は好きな作品だったが、ここからあの映像が生まれたのかと感慨深かった。
名作「少年(69)のヒーローには目黒区の児童施設の少年が選ばれた。この映画は稚内から北九州まで全国各地でロケしてつくられた。少年役の手記に「小樽の零下20度の雪の中では、ぼくは寒くて手がかじかんで泣いてしまった。そんな苦しみの中でもしかしぼくは、死にものぐるいでロケをつづけた」とあった。いまならロケ虐待として問題になりそうだが、当時の撮影現場の雰囲気が伝わる。
創造社の実質的内容のある最後の作品「儀式(71)準備中の70年11月25日、大島はロケハン中の埼玉県の食堂のテレビで三島由紀夫の自決を知った。大学ノートに書いたその日の日記まで展示されていた。ニュースをみた大島は美術監督・戸田に「昭和は芥川の死で始まり、三島の死で終わるのですね」と語った、とある。
「創造社の解散と国際的活躍」の73年7月7日付解散通知はがきには「私にとっては14年前の松竹退社以来人生2度目の転機でありますが、今後は自由な一個人として、映画製作その他の活動を、幅広く、深く、鋭く進めて行きたいと考えて居ります」と41歳の「決意」が書かれていた。
そして「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」など海外と提携合作した映画づくりに乗り出す。第1作「愛のコリーダ」は大映京都撮影所で撮影し、伊丹空港からパリにフィルムを運び現像した。
チーフ助監督は26歳の崔洋一が抜擢された。崔が撮影スケジュールを作成し見せると大島は「思想がない」と一喝した。1975年11月13日の完成スケジュール表は9時クランクインですぐ「本番」撮影を行い13時に撮影所試写室で記者会見するというもので「難しい作品に全力で挑まんとする「思想」を読み取った大島を満足させた」と解説に書かれていた。崔にとっても大変な現場だっただろう。
その他、珍しい着目で美術監督・戸田重昌のブロックがあった。大島は戸田に全幅の信頼をおいたそうだ。儀式のセット平面図、愛のコリーダのセット意匠写真、戦場のメリークリスマスのセットデザイン図などの展示があった。
また大島映画の音楽のコーナーがあった。大島は初期の「愛と希望の街」から「日本の夜と霧」「飼育」「天草四郎時貞」まで眞鍋理一郎、「白昼の通り魔」「無理心中 日本の夏」「少年」は林光、「東京戦争戦後秘話」「儀式」「愛の亡霊」は武光徹、「愛のコリーダ」は邦楽の三木稔、「戦場のメリークリスマス」はご存じのように坂本龍一に委嘱した。見る目というか聴く耳をもっていたのだろう。

今回みた映画のなかで一番よかったのは、意外にも「マックス、モン・アムール」だった。プロデューサーがセルジュ・シルベルマン、原作および脚本がジャン=クロード・カリエールとわたしが好きなブニュエルの晩年の作品のスタッフだからかもしれない。主人公がパリ駐在のイギリス外交官一家、というところから「ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972)に似ている。また妻とマックスのsex行為を見たくてたまらないがどうしても見られないのは、食事したいのにどこに行ってもなぜかありつけないシーンを思い出す。ただブニュエルならもっとシュールなトピックやシーンを入れるところが、マックスを含め一家4人で食事するなど、感傷的なシーンにしてしまったのは惜しいと思った。
次に興味深かったのも、意外なことに「帰って来たヨッパライ」だった。タイトルからクレージーキャッツや加山雄三の若大将のような歌謡曲もの映画の変形だと思っていたら、フォークル3人が、韓国から密航した脱走兵(佐藤慶)と高校生(車大善)に追われる卒業間近の大学生3人という設定で面白かった。「あなたは韓国人ですか」「はい韓国人です」「なぜですか」「韓国人だからです」という新宿でのインタビューが繰り返され、答えは同じ。
また九州北部の砂浜で服を盗まれ、代わりに韓国の軍服を着ることになった中ノッポ(北山)とチビ(橋田)。たばこ屋の店番の老婆(殿山泰司)に不審者とみなされ町の人に追われ、緑魔子のアドバイスでピンチを乗り切るが、再び密航2人組に付け狙われる。同じこの場面が3回繰り返される、結末が少しずつ異なるのも面白かった。20台前半の緑はきれいだった。

イ・ユンボギ、君は韓国少年。10歳の韓国少年」のナレーションが何度もリフレインされる「ユンボギの日記(65創造社)、観るのはは2度目だが、やはり名作だと思った。1960年代のまだ貧しかった韓国社会、母は家を出、病気の父と4人兄弟の長男で、ガム売り、新聞売り、靴磨きを次々に行い、一家の食を支える。2歳下の妹スンナも「大金を稼ぎに行く」と家を出、ユンボギは町中探したがみつからない。
しかしそのほかは、ストーリーが追えなかったり、登場人物がやたらに多かったりでがっかりした作品が多かった。一番期待外れだったのは「東京戦争戦後秘話(70創造社 ATG)だ。シナリオが「おかしさに彩られた悲しみのバラード」「初国知所之天皇」の原將人(正孝)と佐々木守、主演が自主映画監督も務めた後藤和夫だったのでぜひ一度みたいと念願していた。サブタイトルが「映画で遺書を残して死んだ男の物語」でほぼそういう観念的な映画だった。撮影監督・成島東一郎、美術・戸田重昌、音楽・武満徹とスタッフは本格的だが、観念的なシナリオと役者の大部分が都立竹早高校のグループポジポジの人だったので、やたら都心を走り回るアマチュア映画になっていた。
なお明治公園の入り口で中から中核、外から革マルがにらみあい、間に機動隊が入って衝突を阻止したという話で「両側から攻撃すれば機動隊を挟み撃ちにできる」「本当の『野合』だ」というエピソード、「クロカン(黒寛)を読め」など70年代学生運動用語が出てきて(ただし、わたしはもう少し下の世代だが)懐かしかった。なお「東京戦争」の「戦」は「占の右に戈」という昔アジびらによく出てきた字を書くが、パソコンではこの書体が出ない。(このサイトの冒頭を参照)。
飼育(1961大宝)、悦楽(65創造社 松竹)、無理心中 日本の夏(67創造社 松竹)、忍者武芸帳(67創造社 ATG)も観客からすればいろいろ問題があり、イビキの音が聞こえ、幕が閉じるとガッカリした雰囲気が漂った。

ただ、大島渚は一生チャレンジを続けた監督だったことがわかった。東京戦争戦後秘話、新宿泥棒日記、帰って来たヨッパライでは、役者としては素人をメインキャストに起用し、忍者武芸帳やユンボギの日記では、静止画だけで映画を構成することにチャレンジし、といった具合だ。悦楽は「黒い雪」(武智鉄二 日活 1965)の直後でタイミングが悪く、映倫からシナリオ段階で31、ラッシュ段階で18「注意」が入り、大島が「映倫審査員の方々に」という上申書を送ったほどだ。そういう苦労があったからか、映画そのものは薄い内容に終わった。しかしこの映画は人間の性愛をテーマにした作品で、後年、無理心中 日本の夏、愛のコリーダへつながった。マックス、モン・アムールもつくりもののチンパンジーを使う場面もあり、動物と人間の交情を扱う「挑戦的」な作品だ。
もちろんテーマもチャレンジングだった。何度も出てくる黒い日の丸に象徴される天皇制批判、「ユンボギの日記」「忘れられた皇軍」「帰って来たヨッパライ」など朝鮮半島・中国などへの日本の戦争責任、「絞死刑」にみられる死刑反対や在日問題、格差社会批判を先取りした「少年」・・・。
これらは観客に大きな影響を与えた。わたくしもその一人だ

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