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多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

飯館村の酪農家の怒りと願い

2011年09月05日 | 集会報告
非戦を選ぶ演劇人の会のピースリーディングvol.14が8月27,28日に開催された。わたくしがこの企画をみたのは、08年の「9条は守りたいのに口ベタなあなたへ…」 、09年の「遠くの戦争――日本のお母さんへ」に続き3回目だ。今年のテーマは原発問題だった。
第一部:朗読劇「核・ヒバク・人間」(ピースリーディング)に続き、第二部は飯舘村の酪農家・長谷川健一さんへのインタビューだった。聞き手は篠原久美子さんと円城寺あやさん。インタビューに先立ち、16分間のDVD「故郷を追われる村人たち」が上映された。監督は2年前のこの会でインタビューを受けた土井敏邦さん、6月1日までの飯館村の酪農家の苦悩を描く作品だ。今後2時間のドキュメンタリーに完成させる予定だそうだ。

原発事故のニュースでよく登場する福島県飯館村は、人口6200人、標高220-600mの高冷地で、米、畜産、葉タバコを生産している。かつては「山奥の貧しい村」というイメージが強かったが、いまは飯館ブランドの肉牛を生み出し、文化的レベルが高く、コミュニティのきずなが固い村だそうだ。長谷川健一さんは、飯館村のなかでいちばん北の50世帯あまりの前田地区の酪農家で、区長も務める。コミュニティをできるだけ維持できるよう、前田の人びと20世帯をまとめあげ、飯館の北の伊達市の仮設住宅に4人家族で暮らしている。
「安全神話」のなかで起こった福島第一原発の事故、事故が起きてからも国や「御用学者」たちは安全、安心の大合唱を続けたため被害を拡大した。あげくに家族同様の牛を殺すハメとなり酪農を廃業(一時休業)し、住み慣れた土地から避難せざるをえなくなった悲劇を、体験したご本人の口から話された。事故から半年、長谷川さんのいまの願いは「フクシマ」を風化させないようにすることだそうだ。

●飯館村と放射線
福島第一原発1号機に続き3号機が爆発した3月14日(月)夜9時ごろ、わたしは村の対策本部に向かった。職員に線量を聞くと「45マイクロsv(シーベルト)を超えている」とのことだった。そんなに高ければすぐ対策が必要だと思ったら、「長谷川さん待ってくれ、このデータは公表しないでほしい。村長に口止めされている」といわれた。そんな場合ではないので、その夜の一人ひとりに電話をし、翌日緊急集会を開いた。この日は雨が降っておりやがて雪に変った。あとでわかったが、
この日は放射線のピークで申し訳ないことをしたと、いまでは思う。
伊達市に滞在していたジャーナリストの線量計が50マイクロsvを超え、もっと南の飯館はすごいことになっているのではないかとやってきた。消防の屯所で計るとその線量計の限界100マイクロsvを振り切っていた。その人はびっくりして、屯所の前の知らない人が住む民家に入り「すぐ避難して!」と声をかけた。SPEEDIの画像をみるとこの日、北西の風が吹き飯館の峠にまともにぶつかり放射線が飛び散ったことが、あとでわかった。
3月22日に県の指示で栃木県鹿沼市に避難した。なるだけ集団避難をと、呼びかけたが、自主避難で友人や親せきの家に向かう人が多かった。3-5日いるとだんだん気まずくなるといったのだが、案の定1週間くらいで戻ってくる人が多かった。
4月12日に飯館は計画的避難区域に指定され、おおむね1か月以内に避難することが求められた。その前に学者がたくさん来た。「御用学者」ばかりだった。区長会で御用学者だけではなく、京都大学の今中先生のような方をと提案したがかなわなかった。そして4月10日ある大学教授が中学の体育館で「大丈夫ですよ。なんの心配もない。安心してださい」と講演をした。その翌日国は計画的避難地域に指定し「それ避難しろ」ということになった。昨日の今日なので、みんな「人を馬鹿にするな!」と猛烈に怒った。
わたしは酪農家の代表として、それより前、とくに線量の高い5軒の農家を訪れた。いっしょに行ったジャーナリストの持つ線量計は雨樋の下のところで1ミリsvを超えていた。ところが回りをみると、子どもは外で遊び、大人は外で働き、洗濯物を外で干している。危ないと知らされていなかったからだ。わたしはその足で役場に行った。そのとき村長はいなかったが議長、副議長がいた。2人とも酪農家出身だった。「お前ら、こんなところでのん気にやってる場合じゃねえべ」と怒鳴った。もちろん普段はそんな乱暴な口はきかない。「いま長泥から来たが、子どもが外で遊んでんだぞ。何で早く避難させないんだ。いま避難させなくてどうする。10年後、15年後、あの子どもがおとなになり子どもを産むとき、変な子どもが生まれて責任が取れるのか!」と怒鳴った。しかし「飯館は安全だ」と耳をかさなかった。

●酪農家を襲った悲劇
酪農への影響の話をする。3月12日から原乳を売ることは禁止された。しかし乳を搾らないと乳房炎になるので、ただ川に捨てるためだけに6月6日まで乳搾りを続けた。
4月30日われわれは酪農家廃業の大きな決断を迫られた。廃業を決断した大きな要因は、土壌が22000ベクレルという非常に高い汚染値を示したことだ。ここから300ベクレル以下の牧草が生えてくるとはとうてい考えられない。そこで前田地区の人に「夫婦で来てほしい」と呼びかけ4月30日に全員の意見を聞いた。その結果「一時休止し、安全宣言が出されたら、もう一度ここで始めよう」という結論になった。奥さんたちはみんな泣いた
計画的避難区域に設定されると、区域内で牛を飼ってはいけない、牛乳も出荷してはいけない、牛の移動もダメということになった。
がんじがらめの規制のなか、人間が避難すると、牛はいったいどうなるのか。
まず子牛は「ただちに搾乳する目的ではない」ということで移動してよいということになった。そこで白河の育成牧場に預けた。次に「屠畜は認める」ということになった。殺せということだ。がんじがらめのなか屠畜にだけ道が開けた。そこで年老いた牛やお腹に子が入っていない牛を屠畜場に送ることにし、「もったいない牛」は残すよう線引きを迫られた。
情けなかったです」。家族同様の牛、わたしたちのために働いてくれる牛が屠畜される。東京生まれ、新潟育ちで、土地を求めて飯館に来て、40頭あまりに一生懸命増やしたT君は牛を送るとき、男泣きに泣いていた
そのころ20キロ圏内の牛の映像をみた。牛が餓死していた。それを見て自分は残った牛は「殺さない」と心に誓った。そのあとの行動は自分ながらすごかった。酪農組合、県への働きかけ、さらに国会にも働きかけた。超党派で議員に呼びかけ参議院の議員会館を借り集会を行い「オレは牛を殺さないぞ!どうか助けてくれ」とぶちまけた。その前に牛のサンプリングを3度行い、放射線は検出されなかった。その結果、県南・県中に限り牛の移動が解除された。地域を限定したのは、万一放射性物質が検出されたとき、メーカー1社のタンクだけで止められるからだ。こうしてトラックで牛を送り出したが、屠畜のときと違い今度はみんなニコニコ顔だった。

●自殺した友人の酪農家
6月10日、相馬市の牛舎のなかで自殺した55歳の酪農家がいたが、じつは友人だ。飯館の牛に何とか片がついたと思った矢先にもっとも恐れていたことが現実になった。牛舎の壁に白墨で「私の限度を越しました。原発さえなければと思います。仕事をする気力をなくしました。大工さんに保険金を支払ってください」と書かれていた。悲しいなどというものではなかった
いま伊達市の仮設住宅で暮らしている。しかし自分たちのところは自分たちで守ろうと全村見回り隊を組織した。また8月のお盆の14日には、40歳以上の人ぬ限定し前田のグランドに集まり、バーベキューパーティをやった。
飯館のある区長がぽつっと言った。「女子高生が『わたしらこれから結婚できねぇべな。たとえいい人ができて結婚したとしても子どもなんかこわくて生めねえっ』て。いまの高校生、そういうこというんだど。長谷川さんどう思う?」わたしは答えられなかった。
今年3月末、飯館村の子どもたちは甲状腺の検査を受け、全員異常なしといわれた。ところが最近1100人の子どもの甲状腺検査の結果45%から検出されていたと、いまになって報道された。国の隠ぺいだ。子どもたちは「放射線に汚染された飯館村」というステッカーを背負って一生生きていかなければいけない。かつて長崎や広島の人は差別を受けた。同じことが必ずフクシマでも起きる。
最後に2つお願いがある。ひとつは福島の大事故、国の隠ぺい、電力会社のメール問題を風化させないでほしいということだ。そしてもうひとつは、今後も福島県民や飯館村の人を暖かく見守ってほしいということだ。

長谷川さんは、後世の人に残すためビデオを撮り続けている。その映像を手に7月から全国で講演会を行っている。この日も20カットが映し出されたが、講演は14か所目ということだった。
また非戦を選ぶ演劇人の会は日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)と協力して、長野県の諏訪中央病院や信州大学付属病院で子どもも大人も定期的に内部被ばくの健康診断をを受けてもらう費用を援助するためカンパを受け付けている。

☆一昨年と同じようなことを書いているが、ピースリーディングにはなつかしい役者がたくさん出ていた。藤井びん田根楽子流山児の演劇団、円城寺あやは野田秀樹の夢の遊眠社根岸季衣は亡くなったつかこうへいの劇団の舞台で主演クラスだった。その他、ベテラン市原悦子、村井国夫、松金よね子がやはり存在感が大きかった。また山崎ハコが歌手でなく役者として4役を務める大活躍。小さくてかわいかった。
芝居そのものは、今年は6人の共同執筆ということもあり出来が悪かった。これではさすがの鵜山仁さんの演出といえども、手の施しようがなかっただろう。
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