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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

東京の交通100年博

2011年08月29日 | 博物館など
今年は東京都交通局創業100周年の年である。江戸東京博物館で東京の交通100年博が開催されている。

日本の鉄道のはじまりは、もちろん1872年工部省鉄道寮の新橋―横浜間の鉄道開業である。市内交通では馬車鉄道を経て1903年に路面電車が走り始め、新橋―品川、数寄屋橋―神田橋、土橋(新橋の北側)―御茶ノ水などの路線が開業した。1911年8月東京市電気局が新設され、民間会社東京鉄道を買収し、公営交通として再スタートする。これが100周年の起点である。なぜ民間企業を買収したのか。経営状態が悪かったからか、いやそんなことはない。3.5割配当を続ける優良会社だった。説明には「独占的運営に市民の不満」と書かれていたが、「欲得」がらみの何か深い事情があったのだろう。
東京鉄道は火力発電も営んでおり、路面電車事業と電気供給事業が事業種目だった。そこで東京都交通局が東京電力の株4267万株を所有する大株主になる遠因となった。
創業時に96キロだった路線は5年後には渋谷、巣鴨など128キロに伸び、乗降客は1日平均51万人から71万人に増えた。ただ23年の関東大震災で車両800両が焼け、アメリカからフォードを緊急輸入し乗合バス(円太郎バス)の運行が始まった。
市電の乗客数や車両数がもっとも多かったのはじつは戦時中である。乗客数は1日当たり193万人(43年度)、車両は41万8000台(42年度)に上った。なぜ昭和30年代でなくこの時期なのか?「都営交通100年のあゆみ」には、燃料使用が軍事優先となり、バス・タクシーを利用していた人が市電を利用するようになったから(p31)とある。なお43年7月に東京市は東京都になり、市電は都電に名称が変わった。
戦後、都電の乗客数がもっとも多かったのは1955年度で1日平均175万人である。使用車両数は39万4000台(59年度)、営業キロは213キロ(60年度)が最大である。北は志村橋、南は品川、東は瑞江、西は荻窪まで路線が延びた。しかし中心は山手線の内側と、東側の中央・台東・墨田・荒川・江東という戦前の市街部だった。車庫(営業所)も青山、新宿、大久保、駒込など一等地にあった。昭和30年代前半はいわゆる経済の高度成長期の直前だが、本格的なモータリゼーションで首位の地位が入れ替わったのだろう。

ところで都電というと、21世紀のいまイメージが浮かぶのは映画「ALWAYS 三丁目の夕日」だ。東京タワー近くの鈴木オートの前は都電通りで、子どもの目からみればということなのだろうが迫力のある都電が走っていた。ALWAYS 三丁目の夕日では新宿から荻窪に向かう58年の都電14系統、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では、59年の日本橋にスポットが当たったが、品川―上野の1系統、新橋―南千住の22系統、王子駅前―通三丁目の19系統など南北方向だけとっても4本の都電が走っていた。
来年1月には「ALWAYS三丁目の夕日'64」で東京オリンピックが開催された64年の都電が登場するはずだ。
この展覧会では6000形の現物の都電が屋外に展示されていた。社内の窓上になつかしいポスターがたくさん掲示されていた。ただ本物と微妙に違う。カッカーミシン(リッカーミシン)、TOKYOビール(サッポロビール)、リボントロント(リボンシトロン)、月王石鹸(花王石鹸)、大正コナミルク(明治コナミルク)、侘助靴下(福助靴下)、ゴングコング(キングコング)などである。この映画は3Gで迫力のある都電をながめられたが、ディテールにまでこだわっていることがよくわかった。
電車を下りると、鈴木オートだけでなく、郵便局、読売新聞販売店のロケ用の店舗が並んでいた。

屋内展示で電車の前面、ライトの横に付いていた系統板が展示されていた。1から41まで(26番は52年に廃止された一之江線なので欠板)ずらりと並んだ系統板は壮観だった。それまで菱形で番号だけ入っていたのが1955年4月から広告入りのカラーになった。広告の業種が時代を感じさせる。まず大衆薬で、ビオタミン(三共)、ルル3錠(三共)、新三共胃腸薬、化粧品の資生堂歯磨エコー、菓子の「ロッテガーナチョコ」、酒の「日本盛」、雑誌の「週刊文春」「週刊新潮」「小説新潮」「サンデー毎日」、その他小柳証券、ブラザー、オンワード、富士電機のテレビなど。合計しても42にならないのは、同じ会社が何系統も出稿しているからだ。たとえば週刊文春は7,13,19,21,27,28,29,33,36,38,41と11枚も展示されていた。ただし同じ時期にいっせいに掲示されていたものか、たとえば週代わりで別の会社に取り替えていたのかはわからない。車体側面に付けられていた経路を表示するサボも展示されていたが、マニアにはたまらないだろう。
またマニアの人がつくった王子駅、上野駅、渋谷駅などの駅前ロータリーの模型が展示されていた。とくに渋谷駅東口は屋上にプラネタリウムがある東急文化センターがまぶしかった。このビルはいまから8年前の03年に閉鎖、いま地上34階のヒカリエを建設中で2012年夏オープンの予定だ。

自動車交通に押され、67年から5年かけて都電は撤去されることになった。新型車両の製造も62年で打ち切りになった。
撤去第一弾は67年12月10日で、「12月10日から廃止になります。ながい間ご愛用ありがとうございました。 東京都交通局」という青文字の横断幕が展示されていた。横に置かれているビデオでは、この日23時銀座四丁目発の都電に乗り込む美濃部亮吉都知事がテレビのインタビューに「今後はもっと近代的な交通機関、みなさまにご迷惑をかけないようにいたします」とバカに低姿勢のあいさつをしていた。

☆わたくしが都電に乗ったのは、現存の荒川線を除くとたった一度だけだ。廃線2年前の67年、17系統・池袋―数寄屋橋の池袋―神保町間である。1回だけなので、あまり印象には残っていない。子どものころはバスは排気ガスの匂いで乗り物酔いすることがあり、スピードは遅くても路面電車のほうが好きだった。
都電以外では、京都市、大津市、岐阜市、広島市、函館市、長崎市などの路面電車に乗った経験がある。いちばん最近では旧東ベルリンのトラムに乗った。アレグザンダープラッツからハッケシャマルクトの短い距離で、膝が触れ合うくらい(かなり大げさ)の狭い車両、ゆったりしたリズム、回りの建物も古風なので、遊園地の乗り物に乗っているような気分だった。
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