多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

リヨンの虐殺者、バルビー

2008年08月15日 | 観劇など
元ゲシュタポのクラウス・バルビーの生涯を描いたドキュメンタリー映画「敵こそ我が友」(監督:ケビン・マクドナルド)をみた。

クラウス・バルビー(1913.10-1991.9)は22歳でナチスの親衛隊(SS)に入隊した。1942年ドイツのフランス全土占領にともない「レジスタンスの牙城」リヨンのゲシュタポ(親衛隊保安部第4課)の責任者となった。ドゴールの盟友で全国抵抗評議会初代議長ジャン・ムーランの逮捕、対独レジスタンス活動家の暗殺、34人のユダヤ人孤児の収容所移送命令を出し「リヨンの虐殺者」と呼ばれた人物だ。やがてドイツが第二次世界大戦に破れると、今度はアメリカ陸軍情報部(CIC)の反共産運動専門の工作員として暗躍する。1948年フランスから戦犯裁判出廷のため何度も身柄引き渡しを要求されたが、1951年CICの庇護のもと家族とともにボリビアへ脱出した。ボリビアでは海運会社を設立し極右軍人のために武器の輸出入に手を染め、80年ころにはコカイン密輸にもかかわった。1964年に成立したボリビアの軍事政権にも積極的に関与し67年にはチェ・ゲバラ殺害計画を立案したといわれる。ナチスの残党に再結集を呼びかけ「アンデスに第四帝国」を建設する運動を行い、81年7月の軍事クーデターにも関与した。1982年軍政が終了すると、バルビーはリヨンの裁判官の逮捕状を根拠に、ボリビアを追放され1987年リヨンで裁判を受けることになった。判決は終身禁錮刑だった。その後1991年ガンのため刑務所内の病院で77歳で死亡した。
このようにバルビーには、ゲシュタポとしての過去、敗戦直後アメリカ陸軍の工作員としての過去、偽名でボリビアで生きた過去の3つの人生がある。アルトマンという偽名は、学生時代を過ごしたトリアーの町のラビでアウシュビッツで殺害された人の名前を使ったそうだ。わたしはバルビーのことは知らなかったが、アルトマンという名は聞いたことがあるように思う。

映画をみる限り、極右と暴力の人生だったようにみえる。ボリビア時代の隣人は「自分をユダヤ人だと思い込んでいて、一度などサッカー場で自分を逮捕させようとしたこともあった。しかしユダヤ人でないとわかると態度が一変した」とカメラの前で証言していた。尋問のプロだったようで、被害者から「48時間氷の上に座らせる」「ペンチで歯を折る」「熱湯風呂に入れる」「電流を流す」など拷問を受けたときの様子や「お前は薄汚いユダヤ人だ」と罵られたことなど、生々しい証言が多く紹介された。またムーランを逆さにして足を持ち地下室へと引きずっていったのを通訳に目撃されている。
本人も「レジスタンス活動家を暗殺することが当時の仕事だった」と証言していた。レジスタンス活動の破壊や尋問に優れた能力をもつ人間をアメリカをはじめ国家が、たとえナチスや戦犯だと認識していても20世紀後半に重用したことの重要性、「政府はいかに不道徳か」という問題がこの映画のテーマだった。この点は数々の事実の提示により説得力があり、成功していた。

この映画はドキュメンタリーなのだが、どうもそうは見えなかった。理由のひとつは、「アンデスに第四帝国を」というスローガンやバルビーが「死神のフィアンセ」と名付けた傭兵軍団が非現実的に感じられることである。ドイツでは刑法86条で、ハーケンクロイツや「ハイル・ヒトラー!」と唱える敬礼などナチズムのプロパガンダを禁じているというのに、戦後40年たった1980年近くになって第四帝国を再建する運動があったとはまったく驚きだった。高層ビルの外壁に大きなハーケンクロイツを本当に掲げている映像があったが、まるで手塚治虫のマンガをみているようだった。
ナチ・ハンターやアメリカ陸軍情報部(CIC)の元メンバーの登場もドラマ性を感じさせる。戦後すぐのミラノのテロ現場の映像やゲバラの死体の映像は、実写フィルムのリアルさより象徴的な画像のように感じられた。
また映像がきれいすぎて劇場映画に見えることも大きな理由である。たとえば1987年リヨンでの裁判の証言場面だ。日本と違いフランスではこんなに間近に証言者の表情や肉声を撮ることが許されるのだろうか。

じつに多くの人が証言者として登場した。このこと自体は記録映画では珍しくない。バルビー側の人物、すなわちバルビー本人のフランス移送の機中でのインタビュー、裁判での証言、実の娘、弁護士、「死神のフィアンセ」の元メンバー、CICの元メンバーなど。
被害者側では、リヨンで拷問に会った人、妹2人が強制収容所に送られと父は目の前で射殺された遺族、ボリビアで拷問を受けた労組指導者、ナチ・ハンターである弁護士と妻などだ。
ところがそれだけでなく、第三者である歴史学者やジャーナリストがたくさん証言している。ヴィシー政権の研究者や南米地域の研究者が登場するのはごく普通だ。しかしバルビー宅前に取材しようと待っていたところマシンガンをつきつけられたニューヨークタイムスの記者やフランス移送中のバルビーに機中で取材したボリビアの記者がいた。また歴史学者といっても、元はオブザーバーの特派員やデイリーエクスプレスの寄稿者という人もいた。「人道に対する罪」は90年代に強調され始めた。フランスで初めてこの罪で起訴されたのがバルビーだった。それを考慮しても、注目したジャーナリストがこれほど多くいたことには驚かされる。そういうセンスを備えた日本の記者たちが増えればなあと、ないものねだりしたくなった。
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