1月10日(日)午後、千歳烏山のらくだ&TUBOで「忘れないで!パレスチナ 映画とお話の会」が開催された(主催:生きる場づくりを考える会、今とこれからを考える一滴の会)。らくだ&TUBOはふだんはジャズのライブバーのようだが、会場は参加者で超満員になった。
まず「シャティーラキャンプの子ども達」(メイ・マスリ・1998年)という50分弱のドキュメンタリー映画をみた。シャティーラは、1982年9月隣接するサブラーと合わせて2000人以上が虐殺されたレバノンの難民キャンプである。12歳の少年イーサと11歳の少女ファラを中心に、家族・学校・くらし・仕事・遊びが紹介される。イーサは祖父と2人暮らし、車にはね飛ばされた後遺症が残っているので勉強は苦手だ。放課後は身体障害の工芸職人の助手をしている。工房に買い物に来たファラ親子と知り合い、ファラに勉強をみてもらっている。
ファラは3人姉妹の長女。父はコンピュータ技師だったが、いまは職がなく国連機関の紹介で心ならずも清掃の仕事をしている。母は編み物の仕事をしていたが、結婚後資格を取り、保母の仕事をしている。
2人の叔父や叔母には砲弾で死んだり、仲間内の抗争で死んだ人がいる。シャティーラは「掃溜めの町」で、すべてを失った者が肩寄せ合って暮らす町だ。イーサのように働いている子どもも多く、馬車で土砂を集める仕事をしている子もいる。子どもたちの楽しみは、たとえばフランスから来た大道芸人の芸をみたり、馬と海岸で遊ぶことだ。監督は時おり子どもにビデオを渡し撮影させる。ファインダーに監督自身が映し出されることもある。大道芸をみて、子どもは「すごく楽しかった。夢みたいだった」といっていた。ファラには将来医者になりたいという希望がある。
上映後、岡真理さんから「難民キャンプでは、就労禁止の仕事が70以上あり、ファラの父のようにエンジニアや医師になれるのにごみ収集の仕事に就かざるをえない人も多い。またファラもレバノンでは医師になれない。母はそれを知っているので『夢をこわしたくない』と浮かぬ顔をしていた。映画撮影から11年後の昨年訪問したとき聞くと、ファラの家族はついにキャンプを出ることができファラは大学生になった」と解説があった。
岡真理さん(京都大学・現代アラブ文学)の講演
ちょうど1年前の1月10日、小雪が舞うなか大阪でガザ攻撃に対する500人の抗議デモがあった。デモのあと梅田の地下街に下りると何万人もの市民が、あたかもガザの事件がないかのように、正月気分で買い物を楽しんでいた。このギャップをどう埋めればよいのだろうか。
●1年前、ガザで何が起きたか
08年12月28日朝アズハル大学のアブデルワーヘド教授から「Attack」と題するメールを受け取った。その後1日何通ものメールが続いた。
(パワーポイントのスクリーンには、首のない死体、爆弾が炸裂する町、子どもを抱える父、血まみれの人が、次々に映し出された)
22日間イスラエルはガザを空と陸から攻撃し1400人が虐殺され、5000人以上が負傷した。いままでの攻撃は封鎖しだれも入れないなかで起こったが、今回は世界が注視するなかのことで、しかも水をかけても鎮火しない白燐弾まで使用された。
昨年10月ガザからモナさんという女性が来日し、講演会を行った。攻撃はほとんど夜間なので停戦成立後も2-3日は恐怖でベッドでは眠れず床で寝たそうだ。大人でもそうだから子どもはどんなにこわかっただろうか。ガザの150万人の住民は出口を封鎖され、袋のネズミ状態で虐殺された。イスラエルの爆撃は精密なのでもっと多くの人を殺戮することも可能だったはずだ。そうしなかったのは「お前たちが屈伏しなければ、いつでも同じように殺す」という150万人に対してテロル(恐怖)を与えるためだった。これがガザ攻撃の目的であり、1400人は見せしめだった。
モナさんは「ガザを忘れないでください」と訴えた。いま私たちがガザを忘却すれば、次の「ガザ」への道を整備することになる。
●パレスチナの歴史は虐殺の歴史
1948年以来62年間パレスチナの歴史は虐殺の歴史だった。イスラエル建国の1か月前の48年4月、エルサレム郊外のデイル・ヤーシーン村で120人が虐殺され女はレイプされた。このときも「パレスチナに止まれば、これがお前たちの運命だ」という見せしめ的な虐殺だった。住民は着のみ着のまま避難した。そのときはいずれ状況が落ち着けば帰ってくるつもりだった。しかし60年たってもパレスチナの人は故郷に帰れないままになっている。この虐殺のリーダー、メナヘム・ベギンはのちにイスラエルの首相になり、78年ノーベル平和賞を受賞した。
56年10月のスエズ動乱ではカフル・カースムで50人、76年8月にはベイルート郊外のタッル・エル=ザァタルでレバノンの右派民兵組織に降伏した日に4000人、82年9月ベイルート侵攻後に、映画にも出てきたサブラー、シャティーラで2000人以上、第二次インティファーダさなかの2002年4月にはジェニーンが空と陸から攻撃され、遺体とともに土地は地ならしされ跡形もなくなった。
●「ガザを忘れない」とはどういうことなのか
エルサレムにあるホロコースト記念館の出口に「それはかつて起こったのだから、また起こるかもしれない」という言葉が掲げられている。イスラエルは「ユダヤ人が二度とホロコーストに遭わないため、世界のユダヤ人の避難所としてユダヤ人国家が必要だ」と主張し、これをパレスチナ人への暴力を正当化する根拠にしている。
今日はガザから1年という集会だが、レバノンのキャンプの映画をみていただいた。「世界の注目はガザに集まったが、じつはシャティーラも大変だ」という、比較した話ではない。「パレスチナ、イラクに比べるとウガンダは報道されない」という言い方をよく聞く。ひとつの問題に強烈な光が当たると回りは闇になる。しかしガザを語るときその他を葬り去るのではなく、クルドやアフリカやアジアなど語られない地域に対し私たちの意識や思考を開かれているようなかたちで語れないものだろうか。これは大切な問題だ。
ホロコーストも、ユダヤ人だけでなく同じような論理で殺されたほかの犠牲者とつなげてわたしたちは考えないといけない。そうなっていないからパレスチナで繰り返し悲劇が起きている。
●ガザとは何だろう
ガザの住民150万人のうち8割が難民だ。1967年以来イスラエルの占領下に置かれている。また2008年末の攻撃以前の07年から18か月間完全封鎖され、それはいまも続いている。
イスラエル建国の年の1948年国連総会で「パレスチナ難民の即時帰還の権利」を決議194号として採択し、世界人権宣言でも「人はいつでも自分の国に帰る権利を有す」ことを人権として認めた。その後67年、国連安全保障委員会は、イスラエルに49年当時の休戦ラインまで撤退するよう求める決議242号を採択した。にもかかわらず62年間パレスチナの人は故郷に帰れない。イスラエルが認めないからだ。ハマースが選挙で勝利し支配すると、2007年にイスラエルはガザを完全封鎖した。ジャーナリストの古居みずえさんが08年春ガザを取材した。水や電気も1週間来ず廃油をガソリンの代わりにし車を動かしたり、灯油代わりの江戸時代の行灯のようなものを使って生活している。イスラエルはたしかに最低限の物資は供給させているが「生かさず殺さず」の状態だ。「150万の人間が1年以上こんな状態に置かれているのに人権侵害と認識せず報道されない。一度に20人とか50人大量死しないと反応しないわたしたちの人権感覚はなんなのか」と述べている。
パレスチナが8000発のロケット弾をイスラエルに撃ち込んだのは事実だ。ただ02年以降のイスラエルの死者は27人、それに対しガザの死者は2000人を越える。ケタが2ケタ違う。ガザの外に転院できず死ぬ人もいる。完全封鎖の下で2年半、ガザの難民は人権の彼岸に置かれている。
モナさんは「私たちは乞食ではない」という。彼らは自然災害の罹災者ではない。人道支援は大切だが、最終的な目標は、彼らが自分の力で生きていけるようにするにはどうするかということだ。ガザ問題とは、ある特定の政治的意図をもった政策の結果として、ひとつの民族全体が集団的・組織的に人権をかくも長きにわたり否定され続けているという、あくまでも人権問題であり政治的問題なのだ。わたしたちに求められているのは、この問題をいかに政治的に解決するかということだ。
●パレスチナ人はなぜ難民になったのか
62年前パレスチナで起きたのは民族浄化だった。
ユダヤ人は、2000年前にパレスチナを追放され世界に離散し迫害され、20世紀にはホロコーストの悲劇に見舞われた。「イスラエル建国は2000年来の民族の悲願だった」というのがシオニズムのイデオロギーだ。
しかし間違いがある。ユダヤ人は追放されたわけではない。ローマ帝国のある時期エルサレム入城を禁じられたことはあるが追放された歴史的事実はない。ではなぜ世界中にユダヤ人がいるのか。ヨーロッパのユダヤ人はヨーロッパ人の顔、中東のユダヤ人は中東の人の顔をしている。ユダヤ人の国がエルサレムにあった紀元前から、スペインにはユダヤ教徒が住んでいた。つまり世界中にユダヤ人がいるのは、キリスト教徒が世界中にいるのと同様、改宗の結果に過ぎない。
2000年にわたりユダヤ人が祖国への帰還と再建を夢見たというのも違う。ユダヤ教の教義は、メシアが再び到来するまでエルサレムに帰還してはならない、メシアが到来するのは最後の審判のときというものだ。したがって現世では起こらないと了解され、現世では試練に耐えることになっている。正統派ユダヤ教徒のなかには、ユダヤ人国家建国は教義の否定であり、イスラエルに住むユダヤ人はユダヤ人と呼べないという人すらいる。またエルサレムに行くことが禁じられていたわけではなく聖地巡礼は許された。大量移民しなかったのは、教義のせいである。ホロコースト以降多くのユダヤ人は、シオニズム運動があったにもかかわらずアメリカ移住を希望した。しかし当時アメリカは門戸を閉ざしていた。
シオニスト自身は軍事力を持っていないので、イギリス、ドイツ、フランスなどに支援を求め、中東に影響力をもつ大英帝国と最終的に手を組んだ。したがってユダヤ対アラブの民族対立とか、イスラムとユダヤの聖地をめぐる争いという性格のものではなく、軍事力を背景にアジアにヨーロッパ人の国をつくる帝国主義的、植民地主義の色彩が濃い建国だった。1948年イスラエルが建国した当時、パレスチナにはユダヤよりはるかに多い100万人以上が住んでいたが、強制追放や見せしめ的な虐殺、レイプにより80万人が難民になった。この悲劇をアラビア語でNakba(大いなる破局)という。
●未完のNakbaの象徴・ガザ
昨年3月来日したガザの政治経済問題の専門家、サラ・ロイさんは「占領は辱めである」と述べた。占領は一民族全体をある民族に隷従させることであり、ホロコーストと同じメッセージ、すなわち他者の人間性の否定というメッセージを発している。サラさんはユダヤ人であり、両親はホロコーストのサバイバーである。昨年のガザ攻撃は未完のNakbaの象徴である。わたしたちがガザを心に刻むことはパレスチナ問題の根源にある暴力、そして暴力を被り続けている人を正しく記憶するということである。
1948年に80万人だった難民は人口が増加し、いま467万人になった。難民が住む地域はヨルダンに195万人、ガザに107万人、ヨルダン川西岸地区に76万人、シリアに47万人、レバノンに42万人などだ。うち137万人が難民キャンプの登録者である。ただしこの数は国連パレスチナ難民救済事業機構(UNRWA)に登録している人口で、エドワード・サイードのように裕福で難民ではない人もいる。離散パレスチナ人と呼ばれるそうした人を合わせれば467万人をはるかに上回る。
国連が借りている土地は一定なので、人口が増えると家屋は上に積み上げるしかなくなる。10階以上のマッチ箱を重ねたようなアパートが、人がすれ違うのがやっとという日が差さない路地を挟んで立ち並んでいる。劣悪な住環境だ。余裕ができた人はキャンプの外に出ていく。
●レバノンのパレスチナ難民の状況
ヨルダンでは、パレスチナ人はヨルダン国籍を取得でき、選挙権も被選挙権もあり閣僚もいる。しかしレバノンでは市民権も社会的権利もない。また医師、弁護士、ジャーナリスト、建築家、デザイナーなど70以上の専門的な職業に就くことが禁じられている。大学教育を受けた人でも失業率は高く、外国に密航する青年も跡を絶たない。93年のオスロ合意で難民は切り捨てられた存在となった。
82年9月のサブラー、シャティーラの2000人以上に上る虐殺の犯人は処罰されず、長い間犠牲者への追悼も禁じられていた。その後20年たちやっと墓地ができた。
レバノンには経済的に困窮する子どもたちを支援する「パレスチナの子どもたちのソムードの家」というNGOがある。ソムードとは抵抗の意味だが、「武器をもち戦う」抵抗とは異なり、「踏みとどまり、そこでがんばる」という意味だ。これに呼応し広河隆一さんが「パレスチナの子どもの里親運動」を立ち上げた。
●私たちはなぜ支援するのか
私たちはなぜ支援するのか。難民4世の子どもが難民のまま、なんとか食いつなぎ、結婚し、5世を生みそして難民のままキャンプで生を終えるためなのか。けしてそうではないはずだ。このことは、ガザを忘れないことと深く結びついている。
☆昨年8月、非戦を選ぶ演劇人の会の「遠くの戦争――日本のお母さんへ」(作:篠原久美子/構成・演出:渡辺えり)を観た。「パレスチナの子どもの里親運動」で里親になった日本の母と13歳のパレスチナ少年の往復書簡が中心のフィクションだった。岡さんは25年以上里親を務め、いまは小学生の子の経済的支援をされているそうだ。18歳と15歳の兄は無職だが、朗読劇の少年の兄も失業中だった。演劇はフィクションだが、岡さんのお話を聞き非常にリアルであったことがわかった。
1月17日一部修正
まず「シャティーラキャンプの子ども達」(メイ・マスリ・1998年)という50分弱のドキュメンタリー映画をみた。シャティーラは、1982年9月隣接するサブラーと合わせて2000人以上が虐殺されたレバノンの難民キャンプである。12歳の少年イーサと11歳の少女ファラを中心に、家族・学校・くらし・仕事・遊びが紹介される。イーサは祖父と2人暮らし、車にはね飛ばされた後遺症が残っているので勉強は苦手だ。放課後は身体障害の工芸職人の助手をしている。工房に買い物に来たファラ親子と知り合い、ファラに勉強をみてもらっている。
ファラは3人姉妹の長女。父はコンピュータ技師だったが、いまは職がなく国連機関の紹介で心ならずも清掃の仕事をしている。母は編み物の仕事をしていたが、結婚後資格を取り、保母の仕事をしている。
2人の叔父や叔母には砲弾で死んだり、仲間内の抗争で死んだ人がいる。シャティーラは「掃溜めの町」で、すべてを失った者が肩寄せ合って暮らす町だ。イーサのように働いている子どもも多く、馬車で土砂を集める仕事をしている子もいる。子どもたちの楽しみは、たとえばフランスから来た大道芸人の芸をみたり、馬と海岸で遊ぶことだ。監督は時おり子どもにビデオを渡し撮影させる。ファインダーに監督自身が映し出されることもある。大道芸をみて、子どもは「すごく楽しかった。夢みたいだった」といっていた。ファラには将来医者になりたいという希望がある。
上映後、岡真理さんから「難民キャンプでは、就労禁止の仕事が70以上あり、ファラの父のようにエンジニアや医師になれるのにごみ収集の仕事に就かざるをえない人も多い。またファラもレバノンでは医師になれない。母はそれを知っているので『夢をこわしたくない』と浮かぬ顔をしていた。映画撮影から11年後の昨年訪問したとき聞くと、ファラの家族はついにキャンプを出ることができファラは大学生になった」と解説があった。
岡真理さん(京都大学・現代アラブ文学)の講演
ちょうど1年前の1月10日、小雪が舞うなか大阪でガザ攻撃に対する500人の抗議デモがあった。デモのあと梅田の地下街に下りると何万人もの市民が、あたかもガザの事件がないかのように、正月気分で買い物を楽しんでいた。このギャップをどう埋めればよいのだろうか。
●1年前、ガザで何が起きたか
08年12月28日朝アズハル大学のアブデルワーヘド教授から「Attack」と題するメールを受け取った。その後1日何通ものメールが続いた。
(パワーポイントのスクリーンには、首のない死体、爆弾が炸裂する町、子どもを抱える父、血まみれの人が、次々に映し出された)
22日間イスラエルはガザを空と陸から攻撃し1400人が虐殺され、5000人以上が負傷した。いままでの攻撃は封鎖しだれも入れないなかで起こったが、今回は世界が注視するなかのことで、しかも水をかけても鎮火しない白燐弾まで使用された。
昨年10月ガザからモナさんという女性が来日し、講演会を行った。攻撃はほとんど夜間なので停戦成立後も2-3日は恐怖でベッドでは眠れず床で寝たそうだ。大人でもそうだから子どもはどんなにこわかっただろうか。ガザの150万人の住民は出口を封鎖され、袋のネズミ状態で虐殺された。イスラエルの爆撃は精密なのでもっと多くの人を殺戮することも可能だったはずだ。そうしなかったのは「お前たちが屈伏しなければ、いつでも同じように殺す」という150万人に対してテロル(恐怖)を与えるためだった。これがガザ攻撃の目的であり、1400人は見せしめだった。
モナさんは「ガザを忘れないでください」と訴えた。いま私たちがガザを忘却すれば、次の「ガザ」への道を整備することになる。
●パレスチナの歴史は虐殺の歴史
1948年以来62年間パレスチナの歴史は虐殺の歴史だった。イスラエル建国の1か月前の48年4月、エルサレム郊外のデイル・ヤーシーン村で120人が虐殺され女はレイプされた。このときも「パレスチナに止まれば、これがお前たちの運命だ」という見せしめ的な虐殺だった。住民は着のみ着のまま避難した。そのときはいずれ状況が落ち着けば帰ってくるつもりだった。しかし60年たってもパレスチナの人は故郷に帰れないままになっている。この虐殺のリーダー、メナヘム・ベギンはのちにイスラエルの首相になり、78年ノーベル平和賞を受賞した。
56年10月のスエズ動乱ではカフル・カースムで50人、76年8月にはベイルート郊外のタッル・エル=ザァタルでレバノンの右派民兵組織に降伏した日に4000人、82年9月ベイルート侵攻後に、映画にも出てきたサブラー、シャティーラで2000人以上、第二次インティファーダさなかの2002年4月にはジェニーンが空と陸から攻撃され、遺体とともに土地は地ならしされ跡形もなくなった。
●「ガザを忘れない」とはどういうことなのか
エルサレムにあるホロコースト記念館の出口に「それはかつて起こったのだから、また起こるかもしれない」という言葉が掲げられている。イスラエルは「ユダヤ人が二度とホロコーストに遭わないため、世界のユダヤ人の避難所としてユダヤ人国家が必要だ」と主張し、これをパレスチナ人への暴力を正当化する根拠にしている。
今日はガザから1年という集会だが、レバノンのキャンプの映画をみていただいた。「世界の注目はガザに集まったが、じつはシャティーラも大変だ」という、比較した話ではない。「パレスチナ、イラクに比べるとウガンダは報道されない」という言い方をよく聞く。ひとつの問題に強烈な光が当たると回りは闇になる。しかしガザを語るときその他を葬り去るのではなく、クルドやアフリカやアジアなど語られない地域に対し私たちの意識や思考を開かれているようなかたちで語れないものだろうか。これは大切な問題だ。
ホロコーストも、ユダヤ人だけでなく同じような論理で殺されたほかの犠牲者とつなげてわたしたちは考えないといけない。そうなっていないからパレスチナで繰り返し悲劇が起きている。
●ガザとは何だろう
ガザの住民150万人のうち8割が難民だ。1967年以来イスラエルの占領下に置かれている。また2008年末の攻撃以前の07年から18か月間完全封鎖され、それはいまも続いている。
イスラエル建国の年の1948年国連総会で「パレスチナ難民の即時帰還の権利」を決議194号として採択し、世界人権宣言でも「人はいつでも自分の国に帰る権利を有す」ことを人権として認めた。その後67年、国連安全保障委員会は、イスラエルに49年当時の休戦ラインまで撤退するよう求める決議242号を採択した。にもかかわらず62年間パレスチナの人は故郷に帰れない。イスラエルが認めないからだ。ハマースが選挙で勝利し支配すると、2007年にイスラエルはガザを完全封鎖した。ジャーナリストの古居みずえさんが08年春ガザを取材した。水や電気も1週間来ず廃油をガソリンの代わりにし車を動かしたり、灯油代わりの江戸時代の行灯のようなものを使って生活している。イスラエルはたしかに最低限の物資は供給させているが「生かさず殺さず」の状態だ。「150万の人間が1年以上こんな状態に置かれているのに人権侵害と認識せず報道されない。一度に20人とか50人大量死しないと反応しないわたしたちの人権感覚はなんなのか」と述べている。
パレスチナが8000発のロケット弾をイスラエルに撃ち込んだのは事実だ。ただ02年以降のイスラエルの死者は27人、それに対しガザの死者は2000人を越える。ケタが2ケタ違う。ガザの外に転院できず死ぬ人もいる。完全封鎖の下で2年半、ガザの難民は人権の彼岸に置かれている。
モナさんは「私たちは乞食ではない」という。彼らは自然災害の罹災者ではない。人道支援は大切だが、最終的な目標は、彼らが自分の力で生きていけるようにするにはどうするかということだ。ガザ問題とは、ある特定の政治的意図をもった政策の結果として、ひとつの民族全体が集団的・組織的に人権をかくも長きにわたり否定され続けているという、あくまでも人権問題であり政治的問題なのだ。わたしたちに求められているのは、この問題をいかに政治的に解決するかということだ。
●パレスチナ人はなぜ難民になったのか
62年前パレスチナで起きたのは民族浄化だった。
ユダヤ人は、2000年前にパレスチナを追放され世界に離散し迫害され、20世紀にはホロコーストの悲劇に見舞われた。「イスラエル建国は2000年来の民族の悲願だった」というのがシオニズムのイデオロギーだ。
しかし間違いがある。ユダヤ人は追放されたわけではない。ローマ帝国のある時期エルサレム入城を禁じられたことはあるが追放された歴史的事実はない。ではなぜ世界中にユダヤ人がいるのか。ヨーロッパのユダヤ人はヨーロッパ人の顔、中東のユダヤ人は中東の人の顔をしている。ユダヤ人の国がエルサレムにあった紀元前から、スペインにはユダヤ教徒が住んでいた。つまり世界中にユダヤ人がいるのは、キリスト教徒が世界中にいるのと同様、改宗の結果に過ぎない。
2000年にわたりユダヤ人が祖国への帰還と再建を夢見たというのも違う。ユダヤ教の教義は、メシアが再び到来するまでエルサレムに帰還してはならない、メシアが到来するのは最後の審判のときというものだ。したがって現世では起こらないと了解され、現世では試練に耐えることになっている。正統派ユダヤ教徒のなかには、ユダヤ人国家建国は教義の否定であり、イスラエルに住むユダヤ人はユダヤ人と呼べないという人すらいる。またエルサレムに行くことが禁じられていたわけではなく聖地巡礼は許された。大量移民しなかったのは、教義のせいである。ホロコースト以降多くのユダヤ人は、シオニズム運動があったにもかかわらずアメリカ移住を希望した。しかし当時アメリカは門戸を閉ざしていた。
シオニスト自身は軍事力を持っていないので、イギリス、ドイツ、フランスなどに支援を求め、中東に影響力をもつ大英帝国と最終的に手を組んだ。したがってユダヤ対アラブの民族対立とか、イスラムとユダヤの聖地をめぐる争いという性格のものではなく、軍事力を背景にアジアにヨーロッパ人の国をつくる帝国主義的、植民地主義の色彩が濃い建国だった。1948年イスラエルが建国した当時、パレスチナにはユダヤよりはるかに多い100万人以上が住んでいたが、強制追放や見せしめ的な虐殺、レイプにより80万人が難民になった。この悲劇をアラビア語でNakba(大いなる破局)という。
●未完のNakbaの象徴・ガザ
昨年3月来日したガザの政治経済問題の専門家、サラ・ロイさんは「占領は辱めである」と述べた。占領は一民族全体をある民族に隷従させることであり、ホロコーストと同じメッセージ、すなわち他者の人間性の否定というメッセージを発している。サラさんはユダヤ人であり、両親はホロコーストのサバイバーである。昨年のガザ攻撃は未完のNakbaの象徴である。わたしたちがガザを心に刻むことはパレスチナ問題の根源にある暴力、そして暴力を被り続けている人を正しく記憶するということである。
1948年に80万人だった難民は人口が増加し、いま467万人になった。難民が住む地域はヨルダンに195万人、ガザに107万人、ヨルダン川西岸地区に76万人、シリアに47万人、レバノンに42万人などだ。うち137万人が難民キャンプの登録者である。ただしこの数は国連パレスチナ難民救済事業機構(UNRWA)に登録している人口で、エドワード・サイードのように裕福で難民ではない人もいる。離散パレスチナ人と呼ばれるそうした人を合わせれば467万人をはるかに上回る。
国連が借りている土地は一定なので、人口が増えると家屋は上に積み上げるしかなくなる。10階以上のマッチ箱を重ねたようなアパートが、人がすれ違うのがやっとという日が差さない路地を挟んで立ち並んでいる。劣悪な住環境だ。余裕ができた人はキャンプの外に出ていく。
●レバノンのパレスチナ難民の状況
ヨルダンでは、パレスチナ人はヨルダン国籍を取得でき、選挙権も被選挙権もあり閣僚もいる。しかしレバノンでは市民権も社会的権利もない。また医師、弁護士、ジャーナリスト、建築家、デザイナーなど70以上の専門的な職業に就くことが禁じられている。大学教育を受けた人でも失業率は高く、外国に密航する青年も跡を絶たない。93年のオスロ合意で難民は切り捨てられた存在となった。
82年9月のサブラー、シャティーラの2000人以上に上る虐殺の犯人は処罰されず、長い間犠牲者への追悼も禁じられていた。その後20年たちやっと墓地ができた。
レバノンには経済的に困窮する子どもたちを支援する「パレスチナの子どもたちのソムードの家」というNGOがある。ソムードとは抵抗の意味だが、「武器をもち戦う」抵抗とは異なり、「踏みとどまり、そこでがんばる」という意味だ。これに呼応し広河隆一さんが「パレスチナの子どもの里親運動」を立ち上げた。
●私たちはなぜ支援するのか
私たちはなぜ支援するのか。難民4世の子どもが難民のまま、なんとか食いつなぎ、結婚し、5世を生みそして難民のままキャンプで生を終えるためなのか。けしてそうではないはずだ。このことは、ガザを忘れないことと深く結びついている。
☆昨年8月、非戦を選ぶ演劇人の会の「遠くの戦争――日本のお母さんへ」(作:篠原久美子/構成・演出:渡辺えり)を観た。「パレスチナの子どもの里親運動」で里親になった日本の母と13歳のパレスチナ少年の往復書簡が中心のフィクションだった。岡さんは25年以上里親を務め、いまは小学生の子の経済的支援をされているそうだ。18歳と15歳の兄は無職だが、朗読劇の少年の兄も失業中だった。演劇はフィクションだが、岡さんのお話を聞き非常にリアルであったことがわかった。
1月17日一部修正