今年は、賀川豊彦(1888年7月10日―1960年4月23日)が神戸市葺合新川の貧困地区に住み込み活動を始めて100周年に当たる。塩見鮮一郎「貧民の帝都」(文春新書 08.9)を読み賀川に関心を抱いたので、コープこうべ住吉事務所で開催された賀川豊彦パネル展をみにいった。賀川は社会運動家として有名だが、パネル展をみて活動分野が、キリスト教、幼児教育、救済事業、労働運動、社会運動、農民運動、災害救援活動、協同組合運動、保険・共済事業、平和運動、著作活動と、多面的、多角的な広がりをもつことがわかった。
神戸生まれの賀川は5歳のときにあいついで両親を病気で亡くし、鳴門の親戚に育てられた。中学のときキリスト教宣教師の影響を受け1905年上京して明治学院予科に入学、08年新設された神戸神学校に入学、路端伝道を始め09年12月24日21歳で葺合に住み込み、伝道と救済事業を開始した。夜学校や子どもの日曜学校を開設し、天国屋という食堂を開いた。この時期の活動は有名なので、おぼろげながら覚えていた。以下、わたくしが知らなかった3つの側面について触れる。
●労働運動のリーダー
賀川は11年神学校を卒業し、14年プリンストン神学校に留学した。そのときニューヨークで洋服製造会社の組合のデモをみて「貧困やスラムをなおすには、社会のゆがんだ仕組を治す必要がある。それにはアメリカの労働者のように組合をつくり正当な賃金を受けられるような社会をつくることだ」と気づく。
17年に帰国し、鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を設立し理事長、大阪印刷工革新同志会会長となる。印刷工新聞に寄稿した「自由組合論」の紙面(20年2月20日付け)が展示されていた。そして21年6月、川崎、三菱両造船所の争議で実行委員となり、
7月29日組合加入の自由と工場委員制度を求め川崎争議団1万3000人のデモで、賀川は先頭を歩いた。大原クロニカによれば戦前最大規模の争議だった。しかし賀川ををはじめ201人が検挙され、警官との衝突で死者も出た。多くの人は「組合活動はもうごめんだ」と離れていき、8月11日に賀川が釈放されたときには運動は瓦解していた。
しかしそれにもめげず21年10月神戸YMCAで牧師・杉山元治郎、毎日新聞記者・村島帰之らと日本農民組合を結成し、22年ベストセラーになった「死線を越えて」の印税のうち5000円を投じて大阪労働学校を開校し校長になる。友愛会はいまの連合の母体のひとつである。
●並外れた行動力
賀川の行動力は、1923年の関東大震災のときの迅速な救援活動にみられる。1921年10月奈良菊水楼で結成した「イエスの友会」が、全国組織に拡大したのは震災の1週間前の23年8月25日御殿場東山荘での修養会だった。神戸で震災を知った賀川は9月2日、山城丸で横浜に向かい、4日に横浜から徒歩で六郷まで行き、舟で品川に上陸、8月末に知り合ったばかりのYMCAの石田友治を訪ね、市内の惨状を目の当たりにする。市役所で救援品を問うと「衣類がいちばん不足している。もうすぐ寒くなるので古着でもよいから」という答えだった。9月7日に神戸に戻り、すぐ古着と薬品17個を東京に発送した。また関西、四国、九州で1か月に34回講演し義捐金を集めた。「死線を越えて」の著者ということで、どの会場も満員になった。ふたたび10月16日に上京し、神戸の経験を生かし本所松倉町でセツルメントを開始した。そして、これを機会に東京に移住し、24年には家族も松沢(世田谷区)に呼び寄せた。
●システム構築の才能
賀川の多彩な事業をみると、システムやスキームづくりの才能があったと思われる。たとえば生協は、組合員が出資金を出しあい、生産者から直接商品を仕入れ安く販売し、利益が出れば組合員に割り戻すシステムである。「生産階級と消費者が互助組織をつくれば商売上の投機も労働者階級からの搾取もなくなる」という理念から生まれた。いまでいうアソシエーションの考え方だ。
1920年大阪の共益社が日本初で、21年灘購買組合と神戸購買組合が設立された。はじめは労働者層向けだったが、労働運動の崩壊もあり24年に一般層へ基盤を広げ消費組合と名前を変えた。その後、東京学生消費組合、東京医療利用組合(現在の中野総合病院)、中ノ郷質庫信用組合(墨田区)、51年の日本生活協同組合連合会設立の際は初代会長に就任した。また共済組合をつくり、それが現在の全国共済農業協同組合連合会、全国労働金庫協会、全国労働者共済生活協同組合連合会(全労済)となった。
事業の新しい仕組み(システム)を考え、それが社会システムに適合したから21世紀の現在も存続しているのだと思う。いまの社会起業の成功例である。
資金集め、あるいは資金をもっている人を共鳴者にすることもうまかったのではないかと思う。賀川服というコーデュロイ地のスーツをつくり夏服1円50銭、冬服7円50銭で売り出し、結構売れたという。当時の山手線の1区の運賃は5銭だったので、現在価格に換算すると夏服3900円、冬服19500円ということになる。農民組合では、立体農業という名で、適地適作や遊休地の有効利用も指導した。
また適材適所の人の使い方もうまかったようだ。たとえば神戸購買組合の組合長は診療所づくりに協力した実業家、福井捨吉に任せ、灘購買組合の組合長は株取引で財をなした那須善治に任せた。そして後に東京海上の専務や川崎造船の社長になる平生釟三郎の協力も得た。東京医療利用組合の初代組合長は、農学者、教育学者の新渡戸稲造だった。また本所のセツルメントや小金井の戦災者向け施設向日荘は弟子の牧師、深田種嗣に任せた。
出資者も他のプレーヤーと同列に位置付けるプロデューサーシステム、スキームづくり、人材配置は、21世紀のわたしたちにも参考になる。ただこの点は検証したわけではないので単なる憶測にすぎない。
コープこうべ・櫻井啓吉理事長のパネル展のあいさつ文に、賀川が行ったことは「成功ばかりではありません。ときには手ひどく失敗したり、激しい非難を浴びたりしたこともありました。おそらくその生涯は、絶望と希望の間を行ったり来たりだったと思います。しかし彼は、前進を止めませんでした」とある。
たしかに短い評伝を読んだだけでもいくつもの挫折が登場する。まず神戸で行った救貧活動はアメリカ人牧師の寄付で賄っていたが、寄付が中断し1914年夏から大幅に規模を縮小せざるをえなくなった。それでアメリカへ渡ったのだ。帰国して住民が自立し生活するための歯ブラシ工場をつくったが、不良品が多く販売もうまくゆかず1年ほどで撤退した。労働組合も前述のとおり経営との闘いで敗退し、農民組合も結成4年後には左翼勢力が入って、賀川が将来を危惧する事態となり、やがて分裂してしまう。
1940年8月太平洋戦争開戦前夜には反戦運動の容疑で憲兵隊に連行され、巣鴨拘置所に18日も拘留された。なんと52歳という高齢だった。
それでもめげることがないのだから、バイタリティがいったいどこから生まれるのかと感心する。
最後に、賀川の著作について触れたい。賀川は生涯に350冊もの本を書いた。わたくしは有名な「死線を越えて」はじめ1冊も読んでいないので、残念ながら論評できない。ただ会場に詩集「涙の二等分」の一部が展示されていたので冒頭部分を紹介する。
「おいしが泣いて目が醒めて お襁褓(むつ)を更えて乳溶いて 椅子にもたれて涙くる」
レベルが高い詩だと思う。
このころ賀川は「貰い子殺し」という“商売”があることを知り、警察署で容疑者の産婆が連れていた乳児を引き取った。その子は手に石を握っていたので、おいしと名づける。しかし何日もせず死んでしまった。1919年の作なので、友愛会関西労働同盟会を結成したころだ。11月に福永書店から刊行しすぐ発禁処分になった。
以上、評伝の部分は、パネル展のほか、神戸淳吉「歩もうともに手をつなごう」(PHP 1988)、国際平和協会「賀川豊彦の時代史」を参考にした。
今年は、賀川豊彦献身100年記念事業として数々のプロジェクトが実施されている。
そのひとつに神戸の賀川記念館新築工事がある。今年12月に5階建て建物が完成し友愛幼児園などが入居する予定で工事が進んでいる。写真の右隣は葺合警察署。
☆大正12年生まれの飲み屋のママさんに、昔は「人物」がいたといわれたことがある。美術、劇作、演出、著作など多面的に活躍した村山知義がすごいと思ったが、村山より12歳年長で、社会事業、労働運動、生協運動、平和運動で活躍した賀川豊彦もすごい存在である。
神戸生まれの賀川は5歳のときにあいついで両親を病気で亡くし、鳴門の親戚に育てられた。中学のときキリスト教宣教師の影響を受け1905年上京して明治学院予科に入学、08年新設された神戸神学校に入学、路端伝道を始め09年12月24日21歳で葺合に住み込み、伝道と救済事業を開始した。夜学校や子どもの日曜学校を開設し、天国屋という食堂を開いた。この時期の活動は有名なので、おぼろげながら覚えていた。以下、わたくしが知らなかった3つの側面について触れる。
●労働運動のリーダー
賀川は11年神学校を卒業し、14年プリンストン神学校に留学した。そのときニューヨークで洋服製造会社の組合のデモをみて「貧困やスラムをなおすには、社会のゆがんだ仕組を治す必要がある。それにはアメリカの労働者のように組合をつくり正当な賃金を受けられるような社会をつくることだ」と気づく。
17年に帰国し、鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を設立し理事長、大阪印刷工革新同志会会長となる。印刷工新聞に寄稿した「自由組合論」の紙面(20年2月20日付け)が展示されていた。そして21年6月、川崎、三菱両造船所の争議で実行委員となり、
7月29日組合加入の自由と工場委員制度を求め川崎争議団1万3000人のデモで、賀川は先頭を歩いた。大原クロニカによれば戦前最大規模の争議だった。しかし賀川ををはじめ201人が検挙され、警官との衝突で死者も出た。多くの人は「組合活動はもうごめんだ」と離れていき、8月11日に賀川が釈放されたときには運動は瓦解していた。
しかしそれにもめげず21年10月神戸YMCAで牧師・杉山元治郎、毎日新聞記者・村島帰之らと日本農民組合を結成し、22年ベストセラーになった「死線を越えて」の印税のうち5000円を投じて大阪労働学校を開校し校長になる。友愛会はいまの連合の母体のひとつである。
●並外れた行動力
賀川の行動力は、1923年の関東大震災のときの迅速な救援活動にみられる。1921年10月奈良菊水楼で結成した「イエスの友会」が、全国組織に拡大したのは震災の1週間前の23年8月25日御殿場東山荘での修養会だった。神戸で震災を知った賀川は9月2日、山城丸で横浜に向かい、4日に横浜から徒歩で六郷まで行き、舟で品川に上陸、8月末に知り合ったばかりのYMCAの石田友治を訪ね、市内の惨状を目の当たりにする。市役所で救援品を問うと「衣類がいちばん不足している。もうすぐ寒くなるので古着でもよいから」という答えだった。9月7日に神戸に戻り、すぐ古着と薬品17個を東京に発送した。また関西、四国、九州で1か月に34回講演し義捐金を集めた。「死線を越えて」の著者ということで、どの会場も満員になった。ふたたび10月16日に上京し、神戸の経験を生かし本所松倉町でセツルメントを開始した。そして、これを機会に東京に移住し、24年には家族も松沢(世田谷区)に呼び寄せた。
●システム構築の才能
賀川の多彩な事業をみると、システムやスキームづくりの才能があったと思われる。たとえば生協は、組合員が出資金を出しあい、生産者から直接商品を仕入れ安く販売し、利益が出れば組合員に割り戻すシステムである。「生産階級と消費者が互助組織をつくれば商売上の投機も労働者階級からの搾取もなくなる」という理念から生まれた。いまでいうアソシエーションの考え方だ。
1920年大阪の共益社が日本初で、21年灘購買組合と神戸購買組合が設立された。はじめは労働者層向けだったが、労働運動の崩壊もあり24年に一般層へ基盤を広げ消費組合と名前を変えた。その後、東京学生消費組合、東京医療利用組合(現在の中野総合病院)、中ノ郷質庫信用組合(墨田区)、51年の日本生活協同組合連合会設立の際は初代会長に就任した。また共済組合をつくり、それが現在の全国共済農業協同組合連合会、全国労働金庫協会、全国労働者共済生活協同組合連合会(全労済)となった。
事業の新しい仕組み(システム)を考え、それが社会システムに適合したから21世紀の現在も存続しているのだと思う。いまの社会起業の成功例である。
資金集め、あるいは資金をもっている人を共鳴者にすることもうまかったのではないかと思う。賀川服というコーデュロイ地のスーツをつくり夏服1円50銭、冬服7円50銭で売り出し、結構売れたという。当時の山手線の1区の運賃は5銭だったので、現在価格に換算すると夏服3900円、冬服19500円ということになる。農民組合では、立体農業という名で、適地適作や遊休地の有効利用も指導した。
また適材適所の人の使い方もうまかったようだ。たとえば神戸購買組合の組合長は診療所づくりに協力した実業家、福井捨吉に任せ、灘購買組合の組合長は株取引で財をなした那須善治に任せた。そして後に東京海上の専務や川崎造船の社長になる平生釟三郎の協力も得た。東京医療利用組合の初代組合長は、農学者、教育学者の新渡戸稲造だった。また本所のセツルメントや小金井の戦災者向け施設向日荘は弟子の牧師、深田種嗣に任せた。
出資者も他のプレーヤーと同列に位置付けるプロデューサーシステム、スキームづくり、人材配置は、21世紀のわたしたちにも参考になる。ただこの点は検証したわけではないので単なる憶測にすぎない。
コープこうべ・櫻井啓吉理事長のパネル展のあいさつ文に、賀川が行ったことは「成功ばかりではありません。ときには手ひどく失敗したり、激しい非難を浴びたりしたこともありました。おそらくその生涯は、絶望と希望の間を行ったり来たりだったと思います。しかし彼は、前進を止めませんでした」とある。
たしかに短い評伝を読んだだけでもいくつもの挫折が登場する。まず神戸で行った救貧活動はアメリカ人牧師の寄付で賄っていたが、寄付が中断し1914年夏から大幅に規模を縮小せざるをえなくなった。それでアメリカへ渡ったのだ。帰国して住民が自立し生活するための歯ブラシ工場をつくったが、不良品が多く販売もうまくゆかず1年ほどで撤退した。労働組合も前述のとおり経営との闘いで敗退し、農民組合も結成4年後には左翼勢力が入って、賀川が将来を危惧する事態となり、やがて分裂してしまう。
1940年8月太平洋戦争開戦前夜には反戦運動の容疑で憲兵隊に連行され、巣鴨拘置所に18日も拘留された。なんと52歳という高齢だった。
それでもめげることがないのだから、バイタリティがいったいどこから生まれるのかと感心する。
最後に、賀川の著作について触れたい。賀川は生涯に350冊もの本を書いた。わたくしは有名な「死線を越えて」はじめ1冊も読んでいないので、残念ながら論評できない。ただ会場に詩集「涙の二等分」の一部が展示されていたので冒頭部分を紹介する。
「おいしが泣いて目が醒めて お襁褓(むつ)を更えて乳溶いて 椅子にもたれて涙くる」
レベルが高い詩だと思う。
このころ賀川は「貰い子殺し」という“商売”があることを知り、警察署で容疑者の産婆が連れていた乳児を引き取った。その子は手に石を握っていたので、おいしと名づける。しかし何日もせず死んでしまった。1919年の作なので、友愛会関西労働同盟会を結成したころだ。11月に福永書店から刊行しすぐ発禁処分になった。
以上、評伝の部分は、パネル展のほか、神戸淳吉「歩もうともに手をつなごう」(PHP 1988)、国際平和協会「賀川豊彦の時代史」を参考にした。
今年は、賀川豊彦献身100年記念事業として数々のプロジェクトが実施されている。
そのひとつに神戸の賀川記念館新築工事がある。今年12月に5階建て建物が完成し友愛幼児園などが入居する予定で工事が進んでいる。写真の右隣は葺合警察署。
☆大正12年生まれの飲み屋のママさんに、昔は「人物」がいたといわれたことがある。美術、劇作、演出、著作など多面的に活躍した村山知義がすごいと思ったが、村山より12歳年長で、社会事業、労働運動、生協運動、平和運動で活躍した賀川豊彦もすごい存在である。