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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

沖縄復帰50年集会で石川元平さんの講演を聞く

2022年06月05日 | 集会報告

5月26日(木)夕方、日比谷野外音楽堂で「「復帰」50年  辺野古新基地建設を許さず 憲法が生きる沖縄と日本を!in 東京」という長いタイトルの集会と東京駅までのデモが実行された(主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会 「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会 参加1200人)
今年は沖縄の本土「復帰」、施政権返還50年の年だ。5月15日が記念日だったが、残念ながら15日14時半日比谷公園霞門出発のデモに参加できなかったので、この日はぜひと思っていた。
わたしと沖縄の関わりは40年以上前に一度旅行に行っただけだ。しかし2007年の沖縄戦歴史教科書問題(軍命による住民の集団自決の記述に関する教科書検定とその後の訴訟)などの集会をきっかけに辺野古新基地および高江ヘリパッド問題など徐々に学んできた。警視庁機動隊高江派遣住民訴訟の傍聴にも何度か行ったし、この10年近く沖縄意見広告運動にも少額ながらカンパを続けている。
この日の集会のメインの石川元平さん(屋良朝苗琉球政府主席元秘書)の講演を中心に報告する。

プラカード・アピール
勝島一博さん(総がかり行動実行委員会)の主催者あいさつでは、戦中・戦後の沖縄県民の苦労と、復帰は名ばかりで「基地の自由使用」という新たな再占領・日米の二重支配に入ったこと、米軍による事件・事故、環境汚染や騒音問題を批判し「改憲反対、憲法理念が生きる沖縄と日本をめざし、取組を進めよう」と締めくくった。
石川さんの話に出てこなかったことで「宮森小学校ジェット機墜落事故(1959年6月)により多くの命が奪われるなど、基地があるがゆえの事件・事故に苦しめられてきた。また復帰を口にすれば高校生でさえスパイ呼ばわりされ米軍による家宅捜索が行われるという時代を過ごしてきた」との話もあった。

立憲野党の議員たちのプラカード・アピール(一番右は社民党・服部良一幹事長)
立憲野党からのあいさつは、打越さく良議員(立憲民主 新潟 参)赤嶺政賢議員(共産 沖縄1区 衆)福島瑞穂議員(社会民主 比例 参)高良鉄美議員(沖縄の風 沖縄 参)の4人だった。
そして石川元平さん(屋良朝苗琉球政府主席元秘書)のメインスピーチが始まった。
明治以来ずっと日本本土の人の知事が続いたが、屋良朝苗(ちょうびょう)主席は、はじめて沖縄出身の政府主席となった人だ。この日は沖縄のコロナ感染が拡大していることもあり、石川さんはリモートによる参加だった。

沖縄は、かつて主権国家琉球王国で欧米列強と通商条約を結び、平和に暮らしていた。しかし1879年明治政府軍と警官隊により武力併合され、日本の版図に組み込まれた。武力併合のねらいは南進政策の拠点にするための軍隊を駐留させることだった。
やがて軍隊の駐留する島は沖縄戦の戦場となり、わたしたち県民は「軍隊は住民を守る存在ではない」ことを知ることとなる。それどころか食糧強奪や避難壕からの追い出し、捕虜になることの禁止、方言・島言葉の禁止、強制集団死・集団自決への誘導、スパイ容疑での虐殺など。戦況が悪化して首里城地下司令部壕からの南部撤退においても降伏せず住民を死の道連れにした。
こうしたいくつもの地獄を重ねた沖縄地上戦の悲劇を通して沖縄県民は「ぬちどぅ宝」(命は宝)という沖縄的平和思想を獲得した。それは日本国憲法前文や9条の理念にも合致する普遍的価値をもつ人類の宝ともいうべきものだと信じる。
戦後、米占領下における沖縄の運動と成果のいくつかを紹介する。1952年9月8日サンフランシスコ講和条約締結に向けて当時の沖縄群島、宮古群島、八重山群島、奄美群島においては即時日本復帰の署名運動が展開され、一番低調だった沖縄群島でも有権者の72.1%が集約され、日本全権団の吉田首相と米国のダレス特使へ届けられた。
しかしそのころすでに47年から48年の2回にわたり沖縄の米軍占領を25年、50年、それ以上続けたほうが日本の共産化を防ぐことにつながるという昭和天皇メッセージが米国に伝わっていた。
アメリカ施政権下にありながら、1958年7月10日日本国民としての教育を行う教育基本法と4項の民立法を勝ち取った。これは日本国憲法や教育基本法が適用されていないなか、アメリカ側の古い教育法に抵抗するなかで勝ち取ったものであった。
1960年4月28日、4.28と言われるその日、沖縄で祖国復帰運動の母体となる復帰協沖縄県復帰協議会)が結成された。6月19日にはアメリカのアイゼンハワー大統領が来沖し、6月23日に日米安保が改訂される。わたしはこの年、沖縄教職員会に採用され、屋良朝苗教職員会会長の秘書役となった。65年8月19日日本の佐藤栄作総理が来沖した。佐藤総理は空港で、沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本にとって戦後は終わっていないと声明を発した。復帰協は県民大会を開催した。決議文を手交するため宿泊予定のホテルにデモをかけた。その結果、佐藤総理は一夜を米軍施設内で過ごすことになった。
65年といえばベトナム・ダナン海岸へ在沖米海兵隊が上陸した。そして「黒い殺し屋」と恐れられたB52の北ベトナム爆撃、これにより、これまで民族主義的といわれた復帰運動が階級性を帯びたといわれる復帰運動に変わる大きな転換点になったといわれている。

1972年復帰の原動力になったと総括された教育2法闘争について述べる。1967年2月24日戦後最大の教育2法阻止闘争が展開された。復帰運動の主力であった教職員の復帰運動、政治活動とみなして禁止する法案を勤労大衆の力で阻止しよう、廃案協定を勝ち取ることができた。
そのことによって68年2月1日には慣例になっていた立法院における高等弁務官のジェネラルメッセージにおいて主席の公選を許すという発表がなされた。そして68年11月10日戦後初の県民投票的意義をもつ琉球政府行政主席の公選が行われた。即時無条件全面返還、これは核も基地もない平和な沖縄ということだが、それを掲げ革新統一候補の屋良朝苗・沖縄教職員会長が当選し日米政府を震撼させたといわれる。日米両政府は保守候補を当選させるため72万ドル、日本円にして2億5000万円の買収資金を投入するも、保守候補は落選した。それに関連しフェイクが流された。屋良はアメリカ側から100万ドルの支援を受けて教員の待遇改善をしたということがいまも囁かれている。当時琉球政府には文教局というものがあり教員給与の待遇改善のために100万ドル来たのは事実だが、これがまったく逆のかたちで語られている現実がある。
1969年11月19-21日の3日間、佐藤・ニクソン首脳会談が開催され共同声明が発表された。そして72年5月15日に施政権を返還するとの合意も発表された。しかしそれは核隠し、基地自由使用という県民・国民騙しの欺瞞的返還合意だった。わたしたちは日米安保の核安保体制での返還がもたらされたと復帰協の総括をしたのを覚えている。
県民意思に反した72年復帰・施政権返還について申し上げる。71年11月17日沖縄国会が召集された。衆院沖縄返還協定特別国会において沖縄返還協定と関連法が強行採決された日だ。沖縄戦の犠牲や27年間の米国施政下における苦労など一顧だにせず、県民要求の詰まった復帰措置に関する建議書、これは屋良建議書とも呼ばれていたが、無視された。当日の屋良日記には「県民の思いが弊履のように扱われた」と 失望と怒りの思いが記されている。
1972年5月15日、いわゆる復帰の日だが、施政権返還の日でもある。わたしはこの日、鉛のように重たい雲とどしゃぶりの雨の記憶が強く残っている。5月15日復帰協主催の県民大会が開催された。その横幕には「自衛隊配備反対、基地撤去、佐藤内閣打倒、5.15県民大会」と書かれた。大会後デモを展開したが、国際通りでみた日の丸は雨に打たれてしぼんだままだった。これがとても印象に残っている。
復帰の父と慕われた屋良主席、知事であったが、晩年、悔恨の思いを何度も聞かされた。沖縄は二度と国家権力の手段、つまり沖縄戦の捨て石となって利用されて犠牲を被ってはならないということだ。わたしはそのことについては、地元紙の論壇で屋良の遺訓としてたびたび取り上げてきた。
もうひとつは復帰の中身を勝ち取るのは、つまり核も基地もない沖縄を勝ち取るのは君たち、わたしちょうど沖教組の委員長と屋良知事の後援会の事務局長をやっていたのでこのわたしに対し、それが大切な責務だよと激励された。
今年の沖縄復帰50年はサンフランシスコ条約、日米安保条約、行政協定締結70年の節目でもある。条約発効の4.28は沖縄だけでなく、全国民にとっても屈辱の日であったと思っている。
サンフランシスコ条約はオペラハウスで全権団立ち合いのもと署名がされ、一方で日米安保・行政協定条約は米陸軍の下士官クラブで、吉田全権の単独で行われ、そこで密約の署名がされたといわれる。天皇メッセージの影響だと思われるが、その内容は52年4月28日日本の主権独立、回復後も在日米軍がもっていた基地特権を認めるというものだ。天皇は共産主義の脅威の前には日本の主権制限(それは米国の主権侵害でもあるが)を許容するというものだ。したがって70年が経過した今日、対米従属を断ち日本の真の主権独立国家のためにも戦後総括をしっかりやって基地特権、ひとつ例を出すと、いまも首都圏の空は米軍に握られているという実態がある。このような基地特権を結んだといわれる密約を改訂してほしいと、強く願っている。そのことがいまを生きるわたしたちの責任でもあると信じるからだ。

最後になるが、琉球弧、南西諸島の自衛隊基地強化について。南は与那国から石垣、宮古、沖縄本島、奄美に至るまでミサイル基地化が進行している。中国敵視を煽り台湾有事に備えようとしているが、これはまったく軍の論理だ。軍備強化や抑止力で対処しようとしているこの政府に対し、わたしは政府に「本当に中国と戦争したいのか」と問い質したい気持ちだ。沖縄のわれわれは第二の捨て石になることなく断固拒否し、憲法の指し示す外交努力こそ力を注ぐべきと強く要求したいと思う。
辺野古新基地建設阻止についても触れさせていただく。玉木デニー沖縄県知事は5月7日沖縄の日本復帰50年に合わせ、日米両政府に対し米軍普天間飛行場の速やかな運用停止、名護市辺野古の新基地建設断念、日米地位協定の改正を求める新たな建議書を発表した。わたしは今日の日米安保体制は圧倒的な多数の国民が支持しているのは事実だが、その日米安保体制下で近い将来の日本軍基地建設が、「辺野古が唯一」を繰り返す日本政府の隠された意図だと思っている。絶対に許してはならない。
埋立てに使おうとしている南部の土砂についても、全国の多くの市町村議会から反対の決議が上がってきている。北海道から鹿児島に至る戦没者兵士の骨のかけらや血の沁みついた土砂を軍事基地建設に使用するとは死者を二度殺したうえに新たな軍事基地の礎にしようとする人道上も許されないこのような蛮行、これは断じて許されない。

このあと、平和をつくり出す宗教者ネット沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックピースボートの3つの団体から連帯のあいさつがあった。そしてわたしは参加していないが、東京駅手前の鍛冶橋駐車場まで夜のデモに移った。

石川さんの講演で、アメリカの施政権下での沖縄の人の、教育基本法獲得、復帰運動、教育2法阻止闘争、主席公選制獲得、復帰措置に関する建議書提出運動などが粘り強く、繰り返しおこなわれたことを、わたしは断片的には知っていたこともあるが、歴史の経緯とともに聞いたのは初めてだった。山城博治さんなど沖縄の人が「けしてあきらめない勝つまで闘う」というのは、こういう体験からきているということがよくわかった。

集会に先立ち、太田武二さんとテーゲー三線クラブの合計6人の13分ほどのミニ・コンサートがあった。
この日披露したのは「座りこめここへ」「今こそ立ち上がろう」「ちょんちょんキジムナー」「沖縄を返せ」の4曲。みんな有名な曲だ。「ちょんちょんキジムナー」は、オスプレイ 高江、ノグチゲラ、基地を閉鎖せよ、などの言葉を足した替え歌になっていた。また「沖縄を返せ」2番は、琉球民族、日米軍事基地いらないよ、普天間と辺野古の新基地いらない、軍事基地撤去、原発再稼働許さない、 憲法改悪を阻止していこう、などのメッセージが含まれた歌詞になっていた。
「今こそ立ち上がろう」「沖縄を返せ」はいつだったか、ステージで山城博治さんが叫ぶように歌い、会場の参加者全員で合唱した思い出がある。

みんな明るいメロディーだ。泡盛でも飲みながら、踊りながら歌うと合いそうだった。
わたしが、宮古島出身の太田さんの歌を板橋で聞いたのは15年以上前のことだ。国労闘争支援の集会だったように思う。太田さんは、見かけはやはり年をとられたようにみえたが、声は若いままだった。ニコニコした表情がなんとも若さを感じさせた。

この日のイベントは、ミニ・コンサートやデモまで含め、ユープランのこの動画サイトで視聴できる。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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