村山籌子(かずこ)は村山知義の妻である。1924年、知義と20歳で結婚し敗戦直後の46年42歳で病死した。知義については、このブログでも「村山知義のベルリン 1922年」「朝鮮に渡った村山知義」「村山知義のプロレタリア演劇論」など何度か紹介した。
夫・知義は1930年、32年、40年の3度検挙・収監され45年3-12月の間朝鮮に「亡命」した。また25年に一人息子の亜土が生まれ、45年5月の空襲で上落合の自宅(通称・三角の家)が焼失し転居せざるをえなくなり、苦労が多かったことと思われる。
知義は3回のうち2回中野の豊多摩監獄(中野刑務所)に収監された。中野駅北東1㎞のところに、現在正門のみ文化財として保存されている(2021年7月撮影)
籌子は1903年11月高松市の薬種問屋岡内勧弘堂千金丹本舗の長女として生まれ、1920年高松高女を卒業、翌21年東京の自由学園高等科第1期生として入学し、在学中の22年に「婦人之友」に記事を書き始め卒業した23年婦人之友社に就職し雑誌編集者となった。24年から「子供之友」に童話を発表し始め、ベルリンから帰った知義が画を担当しコンビを組む作品が増え、この年結婚に至る。
このときミセス羽仁に「あの人と結婚すると苦しいよ」と言われ、母が「苦しみに行くのです」と答えたという(村山亜土「母と歩く時――童話作家・村山籌子の肖像」2001 JULA出版局)。
籌子がどんな人だったのか。エピソードを2つ紹介する。
知義が収監されていたとき籌子が出した手紙が残っており、死後「ありし日の妻の手紙」(1947 櫻井書店)としてまとめ、発刊した。
たとえば1930年5月に逮捕されてから2カ月ほどたった7月29日の手紙には、新橋演舞場で「大衆座」の公演(農民一揆を浪人が指導する芝居)を観劇し、劇場で、小野宮吉、河原崎長十郎、佐野碩に出会い、話はできなかったが秋田雨雀にも会った、とある。また、トーキーニュースでムッソリーニの演説を聞き、内容は別にして実にたくみなので感心した、イタリア語の勉強をしている、とある(p16-20)。
まだ洋装の人が少ない時代に断髪、洋装だったり、かなり先端的な女性だったようだ。
10月28日の手紙には、2,3日前に少年、少女日記に詩を頼まれて書いた。幼年クラブから童話と劇を頼まれ、すぐ書くつもり。小学館からも頼まれている。プロレタリア教育についての翻訳も出版社が決まりこのところ忙しい。「今のうちに、タイプライターか速記でも習ったらどうかと思っていますが、どうでしょうね」とある(p80-81)。
1930年の年譜に、子供之友に「あひるさんとつるさん」など5編、幼年倶楽部に童話「イヌサンノビョウキ」など2編発表とあるので、自身の創作活動も盛んだったようだ。
一人息子の亜土が前掲の「母と歩く時――童話作家・村山籌子の肖像」で、1931年11月、父母が合作アニメーション「3びきのこぐまさん」をつくっていたときのエピソードを書いている(p32)。
母が顔をあげていう。「ドジョウをふくらませて、飛行船にして飛ばそうかしら? それに乗って、三匹が家に帰るのよ」
父がペンを動かしながらきく。
「その飛行船、どうやって飛ぶんだ?」
「もう一匹のドジョウをプロペラにしたらいいじゃないの?」
「そんなことしたら、そのドジョウは目をまわしてしまうぞ」
「大丈夫よ。ドジョウは目を回さないことになってるんだから」
「どうして?」
「どうしてって、あんたって、へんなことを心配するのね」(略)
といったあんばいなのだ。
亜土は、母の童話創作方法について「もともと詩人だったので、『行きあたり、ばったり』が最も資質に合っていたのだと思う」と書いている。
岡内勧弘堂の店があった跡地はダイソーに(左)、その西側に屋敷や工場があったはずだが、この路地周辺か・・・。
高松で籌子の足跡をたどった。
岡内勧弘堂は千金丹を製造し、1000人もいた売り子が毎年3月出発、10月帰省で全国で売り歩き、一時は富山の薬売りを上回るほどだった。屋敷は南亀井町にあり、南新町通りに面した洋館づくりの店舗、住居、住居に隣接した工場、倉庫とを合わせ「3000坪ほどあったのではなかろうか」(遺族の話)とのことだった。籌子は、この家で兄1人、弟3人、妹3人兄弟の長女として育てられた(知義「演劇的自叙伝2」p264-265(東邦出版社1971)、橋本外記子「村山籌子の人間像と童話」p44(南の風社2017))。
岡内勧弘堂が、現在南新町のアーケード商店街のダイソーの場所にあったことはわかっているので、その裏(西側)を歩いてみたがまったくわからなかった。細い路地の周辺あたりに、戦前には大きな屋敷があったのだろうと思うしかなかった。なお亜土の前掲書p91に屋敷の間取り図が掲載されている。大門、築山や太鼓橋のある庭、中庭、はなれもある立派な屋敷だった。
次に、籌子が通った中央幼稚園や尋常高等小学校は残っていないそうなので、高松高等女学校の跡地に行った。現在の県立高松高校にあったそうだ。籌子の自宅から直線で400m程度の近い場所だ。戦後1949年男女共学になり、旧制一中と一女が統合された例は多くあるが、多くは旧制中学の校地が使用された例が多く、女学校が使われた例は珍しいのではないか。実際に現地に行き、少しその謎がわかった。旧制高松中学の校地は現在の高松工芸高校で、高松高校と100mも離れていない近辺にある。それでなんらかの理由で女学校の校地を使うことになったようだ。なお高松中学には、一人息子の亜土も府立十中(現在の都立西高)4年終了時から転校し、籌子の実家に下宿して1年通学していた。
行ってみると、校舎から吹奏楽部の練習音が聞こえてきた。ずいぶん大所帯の様子だった。グランドではテニス部やハンドボール部が練習していた。高松高校の卒業生には、小川淳也、玉木雄一郎、高畑淳子、ソプラノの林康子、作家の高城修三、人報連の浅野健一ら、戦前の高松中学も含めると、三木武吉、成田知巳、芦原義重(関西電力)、菊池寛、三原脩らがいる。
籌子の墓がある姥ヶ池墓地。海は見えないがながめがいい
空襲による上落合の自宅焼失以降、籌子は体調を崩し、寝たり起きたりの生活に陥り、鶴川そして鎌倉に引っ越し、46年11月死去する。鶴川は高松高女の2年先輩の藤川栄子(彫刻家・勇造の妻)の家があり、鎌倉は宇野重吉が住んでおり志保夫人が籌子の看病をした。亡くなる6時間前に知義に長い遺言を口述でのこし、そのなかで墓碑銘を言づけた。碑文は「われは ここに生まれ ここに遊び ここに泳ぎ ここに眠るなり しづかなる 瀬戸内海の ほとりに」というもので、陶芸家の富本憲吉に揮毫を願った。8月9日の葬儀の際、この詩に関忠亮が曲を付け関鑑子(あきこ)が唱った。
墓は、栗林公園西方の宮脇町姥ヶ池墓地にあることはわかったが、詳しい位置はわからなかった。段々畑のように墓が多数並んでいた。海がみえるのではないかと上ってながめたが、いまはビルがたくさんあるせいもあり、海はみえないもののながめのよい墓地だった。
海岸近く浜ノ町公園に建つ「われは ここに生まれ・・・」の記念碑
さて記念碑は、海岸近くの浜ノ町公園にあるというので、高松駅から600mほど西に自転車で探しにいった。たしかに1996年没後50年記念に建立された碑にこの文言が書かれていた。ただし「高松市指定無形文化財 水任流女性の先駆者」という解説と裏面に1917(大正6)年7月3付香川県教育会遊泳部長名の卒業証書が刻まれ、児童文学より女性アスリートとして有名なようだった。
その他、市中央図書館の建物にある菊池寛記念館に、郷土ゆかりの作家コーナーがあり、大藪春彦、西村望、壷井栄、村山籌子、向田邦子、中河与一、岸田秀らの資料が展示されていた。
村山に関しては年譜の掲示と、「復刻 子供之友」「かさをさしてあげたあひるさん」(福音館書店 2010)、「3びきのこぐまさん」(婦人之友社 1986)などの復刻絵本と研究書が数冊並んでいた。
知義の妻ということで、「演劇的自叙伝」や亜土の「母と歩く時」で先端的な人だったことはわかっていたが、今回高松に行ったり関連資料をみて、富本一枝(尾竹紅吉)、中野鈴子(重治の妹)、関鑑子、寺尾志保(重吉夫人)、壷井栄など多彩な交流を知った。男性は、知義の演劇関連、左翼文化人の知人が主だと思うが、曾我廼家五郎、郡司次郎正、河原崎長十郎、佐野碩などの名が籌子の「手紙」にあった。亜土の前掲書には、式日で級長の亜土が学校を休むわけにいかないというと、母は「今日はもっと大切なところへ行くから、休みなさい」というのでついていくと行先は新宿・武蔵野館でチャップリンの「モダン・タイムス」の封切り日だったとのエピソード(p22)も書かれていた。
女性童話作家というとわたしはあまんきみこや安房直子の作品が好きだったが、籌子の作品も読んでみたいと思った。
琴電琴平駅停車中の連結された1000形120号(右)と3000形300号車両
☆高松琴平電気鉄道(愛称・ことでん)・築港や瓦町の駅に、カメラを手にした人がたくさんいた。撮り鉄のようだ。聞くと、1926(大正15)年製造の3000形300号と1000形120号が、この日特別運行し95年の歴史を閉じる日なので、「さよならイベント」に全国から撮り鉄が押し寄せたとのことだった。現役の営業車両として日本最古の列車だそうだ。
ことでんというと「コトコトことでん」の発車メロディも有名だ。瓦町と琴平で乗り降りしたが、どうも築港線で鳴らしている曲らしく、残念ながらわたしは聞けなかった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
☆6月に始めた「S多面体」、8月31日に一度掲載タイトルをお知らせしましたが、その後下記5本の記事をアップしました。関心がある記事があれば下線をクリックしてどうぞご覧ください。
9月15日 災害を招いた2020東京オリパラ
9月22日 風通しがよくなった官邸前「原発いらない金曜行動」
9月29日 葛谷舞子が撮った親子の笑顔「life」
10月27日 アンビバレントな映画「私はチョソンサラムです」
11月9日 ショウビジネスを目の当たりにできたワハハ本舗の「王と花魁」