20度近い気温で暖かく穏やかな11月12日(金)夜、紀伊国屋サザンシアターでこまつ座91回公演・朗読劇「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」を観た。「水の手紙」は「国民文化祭やまがた2003」で初演され、「少年口伝隊一九四五」は2008年の日本ペンクラブ国際フォーラム用に書き下ろしたものを08年2月新国立劇場演劇研修所の研修生が初演した作品である。
公演は、4月に亡くなった井上ひさしを偲び「追悼」という言葉が冠され、ロビーには遺影が掲示されていた。そして辻萬長、大竹しのぶ、神野三鈴などゆかりの役者16人が日替わりでゲストトークを行った。わたくしは、近頃姿を見なくなったすまけいのファンなので、12日を選んだ。
すまけいは、1935年9月北海道国後島生まれ、63年芸術劇場に入団、66年「すまけいとその仲間」を結成、72年に演劇界から離れたが85年1月のこまつ座第2回公演「日本人のへそ」で復帰した。「イーハトーボの劇列車」の賢治の父・政次郎、「きらめく星座」の広告文案家・竹田慶介、「人間合格」の津島家の執事・中北芳吉、そして「父と暮らせば」のお父ったん・福吉竹造の役の大きな声は忘れられない。こまつ座最後の舞台は2003年3月の「人間合格」である。
「水の手紙」が終わった後、すまさんは足をひきずりながら舞台に登場した。左半身付随で人工膀胱を付けているそうだ。しかし第一声の「井上さん、お久しぶりです」という声はしっかりしていた。
井上との出会いは、大門伍郎と新宿で飲んでいたとき気が大きくなり、「手鎖心中」で直木賞を受賞した井上に、一面識もないのにお祝いの電話をかけたことだった。それがきっかけで、後に井上の芝居にゲスト出演することになった。
すまさんは「井上ひさしを花にたとえるとなんですか」というアンケートに「都忘れか、コスモス」と答えた。「弱者に対し優しく、静かに柔らかい視線を送る人」だからだ。そして北海道生まれで39歳で夭折した詩人・小熊秀雄の「無題」と「馬の糞茸」の2編の詩を朗読した。
「お前の友だちの土筆(つくし)はどうした
ひよろひよろした奴であつたが
気だては風にも裂けるほどの
優しい奴であつたが」
という「馬の糞茸」の一節を読み上げたとき、すまさんはニコニコしたあの笑顔だった。
すまさんは、85年10月井上自身が演出した「きらめく星座」の初演で、広告文案家・竹田慶介を演じた。「ピュアで美しいセリフを口にする機会を与えていただいたことを、いまでも誇りに思い感謝している」と述べ、「井上さん、本当にありがとうございました」と締めくくった。
このあと「少年口伝隊一九四五」が上演された。舞台には学校の教室にある木の椅子が12脚横一列に並んでいる。高さは不揃いで、横の桟が1本でなく2本のものも4つ混じっている。主要な登場人物は5人。国民学校6年の英彦、正夫、勝利、英彦の母が女学校で裁縫を教えいまは中国新聞社社員の花江、3人に親切にしてくれる広島文理大学の哲学の元教員である。
芝居は原爆が投下されたまさに8月6日の朝から始まる。孤児になった3人は土管で生活するようになった。新聞を印刷できない中国新聞は、人の多そうな場所でニュースを大声で発声する「口伝隊」を組織し、花江のおかげで3人はその一員になる。原爆で即死した市長の代行を務める県知事の「けしてひるんではなりません」という声明、「通帳がなくても日銀広島支店で払い戻しができます。ただし証人が2人必要」、「広島県人は洞窟生活でがんばろう」など、ニュースというより上意下達のお知らせを元気な声で「報道」し、仕事に励む。やがて「今日12時に重大放送があります」と敗戦を迎える。
時代は戦後に変わり、進駐軍の進出や、それに対する県や国の対応方針を伝える。が、ときには県や国の指導者たちのあまりの態度の豹変ぶりに悔し涙を流し、怒りがこみ上げることもあった。
9月に入ると正夫が原爆症を発症し、哲学じいさんの家で寝付いてしまう。そして勝利は9月17日に襲来した枕崎台風で行方不明になる。台風は18時間荒れ狂い、山津波や高潮まで引き起こし、死者行方不明は2000人を超えた。広島は、まさに火責め、水責めである。その翌日正夫は息を引き取る。
英彦は「もうええが、もうたくさんじゃ」と泣き叫ぶ。哲学じいさんは英彦に「狂ってはいけん」「命のあるあいだは、正気でいないけん。おまえたちにゃーことあるごとに狂った号令を出すやつらと正面から向き合ういう務めがまだ残っとるんじゃけぇ」
「広島の子どものなりたかったものになりんさいや。こいから先は、のうなった子どものかわりに生きるんじゃ。いまとなりゃーそれしか方途がなあが。……そんじゃけぇ、狂ってはいけん」と諭す。ここがこの芝居のクライマックスである。
エピローグとして、英彦も30を前に原爆症で亡くなったことが画面に示される。
朗読劇なので、広島弁のセリフとト書きしかないが、そうとは思えないほどリアルな舞台だった。思えば「父と暮らせば」も、娘と幽霊の父との対話でそれほど演技があるわけではないのに、生々しい被爆体験が目に浮かぶようだった。
1時間の短い作品だが、井上の作劇は見事としかいうほかない。時空をヒロシマの1か月半に絞り、8月6日、15日、9月17日と3つのエポックを置き、ヒロシマの変化、日本の変化、3少年の運命をつづりこむ。
12月にこの2作を収録した「井上ひさし全芝居」(新潮社)の7巻が刊行されるそうだ。ぜひ読んでみたい。
舞台後方一段高いステージに宮下祥子にが陣取り、切々としたギターの音色が情感を盛り上げた。すばらしい効果だった。武満徹が羽仁進の「不良少年」に付けたギターの音楽を思い出した。また服部基の照明は、いつもながらすばらしかった。
幻の新作「木の上の軍隊」は7月に上演される予定になっていた
☆井上ひさしがヒロシマを舞台にした芝居は、「父と暮らせば」(94年)と新国立劇場こけら落としの「紙屋町さくらホテル」(97年)の2つがある。幸いわたしは両方みることができた。印象に強いのは1994年9月紀伊国屋ホールで観た、すまけいと梅沢昌代の「父と暮らせば」初演である。幕が下り電気がついたとき、感動のあまり泣いている人が多数いた。「きらめく星座」や「イーハトーボの劇列車」は何度か観たが、「父と暮らせば」は悲惨な話なのでもう一度観に行こうという勇気がなかなかわいてこない。
すまけいは井上の芝居のなかで「父性的なもの」の象徴だった。すまけいと井上ひさし、このコンビのがつくり上げた芝居は永遠だ。
公演は、4月に亡くなった井上ひさしを偲び「追悼」という言葉が冠され、ロビーには遺影が掲示されていた。そして辻萬長、大竹しのぶ、神野三鈴などゆかりの役者16人が日替わりでゲストトークを行った。わたくしは、近頃姿を見なくなったすまけいのファンなので、12日を選んだ。
すまけいは、1935年9月北海道国後島生まれ、63年芸術劇場に入団、66年「すまけいとその仲間」を結成、72年に演劇界から離れたが85年1月のこまつ座第2回公演「日本人のへそ」で復帰した。「イーハトーボの劇列車」の賢治の父・政次郎、「きらめく星座」の広告文案家・竹田慶介、「人間合格」の津島家の執事・中北芳吉、そして「父と暮らせば」のお父ったん・福吉竹造の役の大きな声は忘れられない。こまつ座最後の舞台は2003年3月の「人間合格」である。
「水の手紙」が終わった後、すまさんは足をひきずりながら舞台に登場した。左半身付随で人工膀胱を付けているそうだ。しかし第一声の「井上さん、お久しぶりです」という声はしっかりしていた。
井上との出会いは、大門伍郎と新宿で飲んでいたとき気が大きくなり、「手鎖心中」で直木賞を受賞した井上に、一面識もないのにお祝いの電話をかけたことだった。それがきっかけで、後に井上の芝居にゲスト出演することになった。
すまさんは「井上ひさしを花にたとえるとなんですか」というアンケートに「都忘れか、コスモス」と答えた。「弱者に対し優しく、静かに柔らかい視線を送る人」だからだ。そして北海道生まれで39歳で夭折した詩人・小熊秀雄の「無題」と「馬の糞茸」の2編の詩を朗読した。
「お前の友だちの土筆(つくし)はどうした
ひよろひよろした奴であつたが
気だては風にも裂けるほどの
優しい奴であつたが」
という「馬の糞茸」の一節を読み上げたとき、すまさんはニコニコしたあの笑顔だった。
すまさんは、85年10月井上自身が演出した「きらめく星座」の初演で、広告文案家・竹田慶介を演じた。「ピュアで美しいセリフを口にする機会を与えていただいたことを、いまでも誇りに思い感謝している」と述べ、「井上さん、本当にありがとうございました」と締めくくった。
このあと「少年口伝隊一九四五」が上演された。舞台には学校の教室にある木の椅子が12脚横一列に並んでいる。高さは不揃いで、横の桟が1本でなく2本のものも4つ混じっている。主要な登場人物は5人。国民学校6年の英彦、正夫、勝利、英彦の母が女学校で裁縫を教えいまは中国新聞社社員の花江、3人に親切にしてくれる広島文理大学の哲学の元教員である。
芝居は原爆が投下されたまさに8月6日の朝から始まる。孤児になった3人は土管で生活するようになった。新聞を印刷できない中国新聞は、人の多そうな場所でニュースを大声で発声する「口伝隊」を組織し、花江のおかげで3人はその一員になる。原爆で即死した市長の代行を務める県知事の「けしてひるんではなりません」という声明、「通帳がなくても日銀広島支店で払い戻しができます。ただし証人が2人必要」、「広島県人は洞窟生活でがんばろう」など、ニュースというより上意下達のお知らせを元気な声で「報道」し、仕事に励む。やがて「今日12時に重大放送があります」と敗戦を迎える。
時代は戦後に変わり、進駐軍の進出や、それに対する県や国の対応方針を伝える。が、ときには県や国の指導者たちのあまりの態度の豹変ぶりに悔し涙を流し、怒りがこみ上げることもあった。
9月に入ると正夫が原爆症を発症し、哲学じいさんの家で寝付いてしまう。そして勝利は9月17日に襲来した枕崎台風で行方不明になる。台風は18時間荒れ狂い、山津波や高潮まで引き起こし、死者行方不明は2000人を超えた。広島は、まさに火責め、水責めである。その翌日正夫は息を引き取る。
英彦は「もうええが、もうたくさんじゃ」と泣き叫ぶ。哲学じいさんは英彦に「狂ってはいけん」「命のあるあいだは、正気でいないけん。おまえたちにゃーことあるごとに狂った号令を出すやつらと正面から向き合ういう務めがまだ残っとるんじゃけぇ」
「広島の子どものなりたかったものになりんさいや。こいから先は、のうなった子どものかわりに生きるんじゃ。いまとなりゃーそれしか方途がなあが。……そんじゃけぇ、狂ってはいけん」と諭す。ここがこの芝居のクライマックスである。
エピローグとして、英彦も30を前に原爆症で亡くなったことが画面に示される。
朗読劇なので、広島弁のセリフとト書きしかないが、そうとは思えないほどリアルな舞台だった。思えば「父と暮らせば」も、娘と幽霊の父との対話でそれほど演技があるわけではないのに、生々しい被爆体験が目に浮かぶようだった。
1時間の短い作品だが、井上の作劇は見事としかいうほかない。時空をヒロシマの1か月半に絞り、8月6日、15日、9月17日と3つのエポックを置き、ヒロシマの変化、日本の変化、3少年の運命をつづりこむ。
12月にこの2作を収録した「井上ひさし全芝居」(新潮社)の7巻が刊行されるそうだ。ぜひ読んでみたい。
舞台後方一段高いステージに宮下祥子にが陣取り、切々としたギターの音色が情感を盛り上げた。すばらしい効果だった。武満徹が羽仁進の「不良少年」に付けたギターの音楽を思い出した。また服部基の照明は、いつもながらすばらしかった。
幻の新作「木の上の軍隊」は7月に上演される予定になっていた
☆井上ひさしがヒロシマを舞台にした芝居は、「父と暮らせば」(94年)と新国立劇場こけら落としの「紙屋町さくらホテル」(97年)の2つがある。幸いわたしは両方みることができた。印象に強いのは1994年9月紀伊国屋ホールで観た、すまけいと梅沢昌代の「父と暮らせば」初演である。幕が下り電気がついたとき、感動のあまり泣いている人が多数いた。「きらめく星座」や「イーハトーボの劇列車」は何度か観たが、「父と暮らせば」は悲惨な話なのでもう一度観に行こうという勇気がなかなかわいてこない。
すまけいは井上の芝居のなかで「父性的なもの」の象徴だった。すまけいと井上ひさし、このコンビのがつくり上げた芝居は永遠だ。