紀伊國屋サザンシアターでこまつ座120回記念公演「きらめく星座」をみた。こまつ座は1984年4月「頭痛肩こり樋口一葉」で旗揚げし、3作目が85年9月のこの芝居だった。演出は井上自身、プロデューサーは井上よし子さんだったと思う。
あらすじを、公式HPに出ていたものを使って紹介する。
昭和15年の秋。まもなく整理の対象になっている浅草にある小さなレコード店・オデオン堂。
そこに暮らすのは店主の小笠原信吉と後妻のふじ、長女のみさを、そして広告文案家の竹田と夜学に通う学生の森本も同居している。太平洋戦争前夜の軍国主義一色の時代に、無類の音楽好きが集まったオデオン堂。
ある日、長男の正一が脱走兵として「非国民の家」となるも、みさをが「軍国乙女」となってから一転「美談の家」となる。戦地で右腕を失ってもなお、骨の髄まで軍国主義の塊である婿・源次郎。そして逃げ回る正一を追いかける憲兵伍長の権藤を巻き込んでの大騒ぎとなるが...。
それぞれに信じてきたものが壊れていく時代の中で、「せまいながらも楽しい我が家♪」の歌詞を地でいくオデオン堂と、時代に巻き込まれながらも幻のようにピカピカひかる人間の儚さと力強さを見事に描き出す。
昭和15年11月3日から翌年12月8日までの1年を2幕6場に分けて描いた作品だ。
この芝居を舞台でみるのは3度目だが、じつはNHK教育テレビで初演の録画をみたのがはじめだった。
夏木マリのふじ、犬塚弘の信吉、斉藤とも子のみさを、名古屋章の源次郎、すまけいの竹田、藤木孝の権藤が忘れられない。とくに「真白き富士のけだかさを こころの強い盾として 御国につくす女等(をみなら)は 輝く御代の山ざくら」の「愛国の花」(作詞:福田正夫、作曲:古関裕而、歌:渡辺はま子 1938年)に合わせて夏木と斉藤の母子が踊るバケツ体操が秀逸だった。
当時は名古屋に住んでいて、東京に戻ったらぜひこまつ座を見に行きたいと思ったきっかけとなった作品だった。
東京ではじめてみたのは91年7月池袋・サンシャイン劇場での「頭痛肩こり樋口一葉」、「きらめく星座」は92年2月の新宿・紀伊國屋ホールでみた。沖恂一郎と河内桃子が夫婦、娘を山本郁子が演じた。源次郎を辻萬長、正一は木場勝己、竹田はすまけい、演出は木村光一だった。次に96年3月の池袋・東京芸術劇場での沖恂一郎と岡まゆみが夫婦、娘を長谷川真弓が演じた舞台をみた。このときは藤木孝が権藤憲兵伍長、朴勝哲が森本君だった。演出はやはり木村光一だった。
120回記念公演パンフレット
それから21年たってみたのがこの日の舞台だった。キャストは久保酎吉と秋山菜津子の夫婦、娘が深谷美歩、源次郎は山西惇、正一・田代万里生、竹田・木場勝己、森本・後藤浩明、権藤・木村靖司、演出は井上作品の初演を16本手がけた栗山民也だった。
こうして何度もみているわけだが、同じシナリオの芝居のはずなのに、ちょっと印象が変わった。もちろん戦争反対、天皇制反対がテーマなのだが、以前は、書物で知ってはいてもパラレルワールドの世界の話のようだった。ところが2年前の2015年9月戦争法(平和安全法制)が成立したいま、アベが明日にも日本と北朝鮮との戦争が始まりそうなことを始終煽り立てているので妙に「リアル」で身近な空気を感じた。
「生れてくるべきぢやないんです。生れてきても、あの人のやうに痛みで一生苦しむか、正一兄さんみたいに逃げ回るか、さもなければ靖国神社へ骨になつて帰つてくるしかありません。(略)男の子が仕合せぢやないのに、どうして女の子だけが仕合せになれるの。夫や兄や子どもの身の上を案じながら暮すのがどうして仕合せなの」(164p 以下ページ数は「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社 1985年9月)、旧字ではないものの旧かなづかいで表記されている)、こうしたセリフが、わたくしの孫くらいの年代の「国民」が駆り出される「現実」の話に聞こえた。
また今年6月共謀罪(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律)が成立し、「行列しながらなにか喋つてゐると、すぐおまはりさんがすつとんでくるのよ。」「わたしたちがたがひにデマかなにかを喋り合つてゐるんぢやないかと疑つてかかつてゐるんでせうね」(p112)という光景も明日にでも見られるかもしれない(いまはスマートフォンやパソコンの時代なので、ラインなどの監視や電話の盗聴だが)。
源次郎の、戦場で失はれたはずの右手の猛烈な幻肢痛についても、いろいろ考えさせられた。源次郎は帝国で失われた「道義」に心を痛め「かつてかたく信じてゐたやうに大日本帝国に道義といふものがあればなあ」(p162)と嘆く。かつては幻肢痛という病気による痛みと「現実」を直視することにより治療するという、病気と治療法、あるいはファナティックな元軍人の「道徳」への偏愛くらいのことしか考えなかった。しかし、アベにより立憲主義や議会制民主主義が失われ、「戦争」を平和安全と言い替え、あるものをない(たとえば日報)と平然というアベコベ語やポスト・トゥルースが横行する社会に変わり、別の視角が開けてきた。「もしなくなつてゐるならば、いつまでもなくなつたものに恋々としてゐてはいかん、その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を・・・。それはできない・・・。お教へください。帝国の道義、ありやなしや。」(p162)
たしかになくなったからといって「その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を」することは、源次郎とおなじくわたしたちもやはり「それはできない」。
ラストはさらに厳しい。12月7日の「最後の晩餐」のあと、信吉夫妻は妻の実家のある長崎へ、源次郎は市川国府台の陸軍病院神経科の病棟、みさをは下矢切へ、竹田は満州の開拓農場の小学校へ、森本は戸山の陸軍音楽学校へ、散り散りになる。4年後、長崎は原爆被災、満州はソ連の参戦で地獄、軍楽隊も船が沈んだり、東京にいても戦災にあったかもしれない。陸軍病院でももし「現実を直視する」治療が続いていれば、さらに症状が悪化したかもしれない。なお国府台の陸軍病院は、いまは国立国際医療研究センターとなり、下矢切は井上一家が20年住んでいた家があった場所だ。
「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社)
芝居全体としての印象は、以前と変わらず、音楽と歌の多い音楽劇だった。1930年代は戦争への足音が聞こえると同時に、都市文化やいわゆるポピュラー芸術が華やかだった時期である。浅草のレコード店を舞台にしているので、流行歌がたくさん使われていた。「月光値千金」(榎本健一 1936)、「燦めく星座」(灰田勝彦 1940)、「一杯のコーヒーから」(霧島昇、ミス・コロムビア 1939)、「小さい喫茶店」(田中福男、唄川幸子 1935)、「青空」(市川春代 1935)、「チャイナ・タンゴ」(中野忠晴 1939)など役者たちが合唱する歌は、幸せな歌が多い(下線はユーチューブにリンクしている。ただし「小さい喫茶店」「青空」など、訳詩がシナリオと異なるものもある)。
「ひょっこりひょうたん島」のころから井上のシナリオには音楽がたくさん使われたが、その陰に宇野誠一郎の音楽と宮本貞子の歌唱指導があった。2人ともすでに故人だ。
役者では、音楽劇という点で、東京芸大声楽科出身の田代万里生は声がよく出ていてさすがにうまかった。また秋山菜津子はラストの「青空」などで練習の成果がよく出ていた。深谷美歩もいい声だった。なお、深谷美歩、阿岐之将一、岩男海之と、新国立劇場研修所出身者が3人もいるのはうれしい。
わたくしとしては、初演のときのインパクトがあまりにも強く、夏木・犬塚・斉藤・すま・藤木のキャストのほうが好きだ。役者、演出ともあのときの舞台をもう一度みたいと思った。
ただ、今回服部基の照明に感心した。裏文字の「オデオン堂」の店名ネオン(裏文字になっているのは、店内からみているから逆さになるのだろうか)、6つの防毒面の揺れる灯り、星座の光、8月15日のまぶしい陽光、ピアノの上の灯り、窓辺のスタンド、茶の間の電球・・・。とくに星座の光が印象的で美しかった。だから竹田の「ペガサスがちやうど真南にかかつてゐますな」(p11)、「晴れてゐればあのへんに十六夜の月が出てゐるはずなんだが。それに向ふにはオリオン星座」(p37)というセリフが生きる。また「あかいめだまのさそり ひろげた鷲のつばさ あをいめだまの小いぬ ひかりのへびのとぐろ・・」と、ふじが歌う「星めぐりの歌」(p141)にもピッタリ合っている。
92年の三演のときはすでに服部が担当していたので、わたしが知らないだけで、初演から担当していたのかもしれない。
ところで、わたくしがこまつ座を何度もみにいったのは、井上のシナリオの力が大きい。この芝居は1940年の11月3日(明治節)、46年2月11日(紀元節)、4月29日(天長節)、8月15日、11月23日(新嘗祭)、12月8日とカッチリ日時を限った2幕6場編成になっている。戦前の旗日(天皇制と深く結びついている)と開戦前夜、お盆かつ敗戦の日で、壁に日めくりが掲げられている(ト書きに「大型の日めくり」(p8)との明確な指定あり)。
120回公演ということと、井上ひさしは2010年4月に75歳で亡くなったが生きていれば83歳の誕生日ということで、終演後に特別トークショーが開かれた。参加したメンバーは唯一の所属俳優・辻萬長とこの日出演した木場勝己、久保酎吉、後藤浩明の4人、司会は井上麻矢(こまつ座代表)だった。
井上の思い出という質問に、辻氏は「稽古場でのニコニコした表情」を挙げた。再演、三演のときはありがたいが、初演は(いつも台本が遅れるので)笑顔をみると「あんたは書き上げたのだからいいよ。おれたちこれから死ぬ思いをするのに、ちょっとしゃくにさわった」と言っていた。井上は遅筆堂という別名もあるくらいで、役者だけでなく、観客も前売り券を買うときに、はじめの一週間くらいはまだ稽古が不十分だし、最悪は初日が遅れる危険性もあるので避けて買っていたことを思い出した。なかなかリスキーな観劇体験だった。
音楽劇ならではということで、音楽監督を何作も手掛けた後藤氏は「少年口伝隊」のギターの生演奏で、演出の栗山はタイト(短め)にといい、作者の井上は長めにというので、間に入り板挟みになりちょっと困ったと語った。それはたしかに困るだろう。なお後藤は「日本人のへそ」の再演(92年11月)のときにピアノ演奏のために来たのが井上との最初の出会いだったそうだ。演奏だけだと思って2人で交代でというと、井上に「役者としても出ないといけないので、それはちょっと」と言われ、もう一人の人(朴勝哲)に出てもらったそうだ。おお、そうか「黙阿弥オペラ」(95年1月)や「太鼓たたいて笛ふいて」(02年7月)など多くの作品で演奏した朴氏はこういうきっかけで出演することになったのかと、納得した。わたくしが朴をはじめて舞台で見たのは96年の「きらめく星座」だった。
後藤も、たしかにピアノがうまい。朴勝哲と同じく桐朋学園出身だ。ただしピアノ科ではなく作曲理論学科卒だそうだ。
こまつ座をよく観たのは、井上存命中の「シャンハイ・ムーン」(2010年2月)までで、その後は追悼公演の朗読劇「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」(2010年11月)、「キネマの天地」(2011年 秋山のこまつ座初登場)、「木の上の軍隊」(2013年)しかみていない。大きな原因は観劇料が高くなったことだ。それ以外に西舘好子「表裏井上ひさし協奏曲」(牧野出版 2011/08 389p)を読み、都さんと麻矢さんとではずいぶん違うことを知ったことにもよる。
次にこまつ座をみるとすると、やはり好きだった「イーハトーボの劇列車」か「頭痛肩こり樋口一葉」で気にいった役者が出ているとき、あるいは「イヌの仇討」などまだみていない芝居のときだろうか。
あらすじを、公式HPに出ていたものを使って紹介する。
昭和15年の秋。まもなく整理の対象になっている浅草にある小さなレコード店・オデオン堂。
そこに暮らすのは店主の小笠原信吉と後妻のふじ、長女のみさを、そして広告文案家の竹田と夜学に通う学生の森本も同居している。太平洋戦争前夜の軍国主義一色の時代に、無類の音楽好きが集まったオデオン堂。
ある日、長男の正一が脱走兵として「非国民の家」となるも、みさをが「軍国乙女」となってから一転「美談の家」となる。戦地で右腕を失ってもなお、骨の髄まで軍国主義の塊である婿・源次郎。そして逃げ回る正一を追いかける憲兵伍長の権藤を巻き込んでの大騒ぎとなるが...。
それぞれに信じてきたものが壊れていく時代の中で、「せまいながらも楽しい我が家♪」の歌詞を地でいくオデオン堂と、時代に巻き込まれながらも幻のようにピカピカひかる人間の儚さと力強さを見事に描き出す。
昭和15年11月3日から翌年12月8日までの1年を2幕6場に分けて描いた作品だ。
この芝居を舞台でみるのは3度目だが、じつはNHK教育テレビで初演の録画をみたのがはじめだった。
夏木マリのふじ、犬塚弘の信吉、斉藤とも子のみさを、名古屋章の源次郎、すまけいの竹田、藤木孝の権藤が忘れられない。とくに「真白き富士のけだかさを こころの強い盾として 御国につくす女等(をみなら)は 輝く御代の山ざくら」の「愛国の花」(作詞:福田正夫、作曲:古関裕而、歌:渡辺はま子 1938年)に合わせて夏木と斉藤の母子が踊るバケツ体操が秀逸だった。
当時は名古屋に住んでいて、東京に戻ったらぜひこまつ座を見に行きたいと思ったきっかけとなった作品だった。
東京ではじめてみたのは91年7月池袋・サンシャイン劇場での「頭痛肩こり樋口一葉」、「きらめく星座」は92年2月の新宿・紀伊國屋ホールでみた。沖恂一郎と河内桃子が夫婦、娘を山本郁子が演じた。源次郎を辻萬長、正一は木場勝己、竹田はすまけい、演出は木村光一だった。次に96年3月の池袋・東京芸術劇場での沖恂一郎と岡まゆみが夫婦、娘を長谷川真弓が演じた舞台をみた。このときは藤木孝が権藤憲兵伍長、朴勝哲が森本君だった。演出はやはり木村光一だった。
120回記念公演パンフレット
それから21年たってみたのがこの日の舞台だった。キャストは久保酎吉と秋山菜津子の夫婦、娘が深谷美歩、源次郎は山西惇、正一・田代万里生、竹田・木場勝己、森本・後藤浩明、権藤・木村靖司、演出は井上作品の初演を16本手がけた栗山民也だった。
こうして何度もみているわけだが、同じシナリオの芝居のはずなのに、ちょっと印象が変わった。もちろん戦争反対、天皇制反対がテーマなのだが、以前は、書物で知ってはいてもパラレルワールドの世界の話のようだった。ところが2年前の2015年9月戦争法(平和安全法制)が成立したいま、アベが明日にも日本と北朝鮮との戦争が始まりそうなことを始終煽り立てているので妙に「リアル」で身近な空気を感じた。
「生れてくるべきぢやないんです。生れてきても、あの人のやうに痛みで一生苦しむか、正一兄さんみたいに逃げ回るか、さもなければ靖国神社へ骨になつて帰つてくるしかありません。(略)男の子が仕合せぢやないのに、どうして女の子だけが仕合せになれるの。夫や兄や子どもの身の上を案じながら暮すのがどうして仕合せなの」(164p 以下ページ数は「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社 1985年9月)、旧字ではないものの旧かなづかいで表記されている)、こうしたセリフが、わたくしの孫くらいの年代の「国民」が駆り出される「現実」の話に聞こえた。
また今年6月共謀罪(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律)が成立し、「行列しながらなにか喋つてゐると、すぐおまはりさんがすつとんでくるのよ。」「わたしたちがたがひにデマかなにかを喋り合つてゐるんぢやないかと疑つてかかつてゐるんでせうね」(p112)という光景も明日にでも見られるかもしれない(いまはスマートフォンやパソコンの時代なので、ラインなどの監視や電話の盗聴だが)。
源次郎の、戦場で失はれたはずの右手の猛烈な幻肢痛についても、いろいろ考えさせられた。源次郎は帝国で失われた「道義」に心を痛め「かつてかたく信じてゐたやうに大日本帝国に道義といふものがあればなあ」(p162)と嘆く。かつては幻肢痛という病気による痛みと「現実」を直視することにより治療するという、病気と治療法、あるいはファナティックな元軍人の「道徳」への偏愛くらいのことしか考えなかった。しかし、アベにより立憲主義や議会制民主主義が失われ、「戦争」を平和安全と言い替え、あるものをない(たとえば日報)と平然というアベコベ語やポスト・トゥルースが横行する社会に変わり、別の視角が開けてきた。「もしなくなつてゐるならば、いつまでもなくなつたものに恋々としてゐてはいかん、その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を・・・。それはできない・・・。お教へください。帝国の道義、ありやなしや。」(p162)
たしかになくなったからといって「その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を」することは、源次郎とおなじくわたしたちもやはり「それはできない」。
ラストはさらに厳しい。12月7日の「最後の晩餐」のあと、信吉夫妻は妻の実家のある長崎へ、源次郎は市川国府台の陸軍病院神経科の病棟、みさをは下矢切へ、竹田は満州の開拓農場の小学校へ、森本は戸山の陸軍音楽学校へ、散り散りになる。4年後、長崎は原爆被災、満州はソ連の参戦で地獄、軍楽隊も船が沈んだり、東京にいても戦災にあったかもしれない。陸軍病院でももし「現実を直視する」治療が続いていれば、さらに症状が悪化したかもしれない。なお国府台の陸軍病院は、いまは国立国際医療研究センターとなり、下矢切は井上一家が20年住んでいた家があった場所だ。
「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社)
芝居全体としての印象は、以前と変わらず、音楽と歌の多い音楽劇だった。1930年代は戦争への足音が聞こえると同時に、都市文化やいわゆるポピュラー芸術が華やかだった時期である。浅草のレコード店を舞台にしているので、流行歌がたくさん使われていた。「月光値千金」(榎本健一 1936)、「燦めく星座」(灰田勝彦 1940)、「一杯のコーヒーから」(霧島昇、ミス・コロムビア 1939)、「小さい喫茶店」(田中福男、唄川幸子 1935)、「青空」(市川春代 1935)、「チャイナ・タンゴ」(中野忠晴 1939)など役者たちが合唱する歌は、幸せな歌が多い(下線はユーチューブにリンクしている。ただし「小さい喫茶店」「青空」など、訳詩がシナリオと異なるものもある)。
「ひょっこりひょうたん島」のころから井上のシナリオには音楽がたくさん使われたが、その陰に宇野誠一郎の音楽と宮本貞子の歌唱指導があった。2人ともすでに故人だ。
役者では、音楽劇という点で、東京芸大声楽科出身の田代万里生は声がよく出ていてさすがにうまかった。また秋山菜津子はラストの「青空」などで練習の成果がよく出ていた。深谷美歩もいい声だった。なお、深谷美歩、阿岐之将一、岩男海之と、新国立劇場研修所出身者が3人もいるのはうれしい。
わたくしとしては、初演のときのインパクトがあまりにも強く、夏木・犬塚・斉藤・すま・藤木のキャストのほうが好きだ。役者、演出ともあのときの舞台をもう一度みたいと思った。
ただ、今回服部基の照明に感心した。裏文字の「オデオン堂」の店名ネオン(裏文字になっているのは、店内からみているから逆さになるのだろうか)、6つの防毒面の揺れる灯り、星座の光、8月15日のまぶしい陽光、ピアノの上の灯り、窓辺のスタンド、茶の間の電球・・・。とくに星座の光が印象的で美しかった。だから竹田の「ペガサスがちやうど真南にかかつてゐますな」(p11)、「晴れてゐればあのへんに十六夜の月が出てゐるはずなんだが。それに向ふにはオリオン星座」(p37)というセリフが生きる。また「あかいめだまのさそり ひろげた鷲のつばさ あをいめだまの小いぬ ひかりのへびのとぐろ・・」と、ふじが歌う「星めぐりの歌」(p141)にもピッタリ合っている。
92年の三演のときはすでに服部が担当していたので、わたしが知らないだけで、初演から担当していたのかもしれない。
ところで、わたくしがこまつ座を何度もみにいったのは、井上のシナリオの力が大きい。この芝居は1940年の11月3日(明治節)、46年2月11日(紀元節)、4月29日(天長節)、8月15日、11月23日(新嘗祭)、12月8日とカッチリ日時を限った2幕6場編成になっている。戦前の旗日(天皇制と深く結びついている)と開戦前夜、お盆かつ敗戦の日で、壁に日めくりが掲げられている(ト書きに「大型の日めくり」(p8)との明確な指定あり)。
120回公演ということと、井上ひさしは2010年4月に75歳で亡くなったが生きていれば83歳の誕生日ということで、終演後に特別トークショーが開かれた。参加したメンバーは唯一の所属俳優・辻萬長とこの日出演した木場勝己、久保酎吉、後藤浩明の4人、司会は井上麻矢(こまつ座代表)だった。
井上の思い出という質問に、辻氏は「稽古場でのニコニコした表情」を挙げた。再演、三演のときはありがたいが、初演は(いつも台本が遅れるので)笑顔をみると「あんたは書き上げたのだからいいよ。おれたちこれから死ぬ思いをするのに、ちょっとしゃくにさわった」と言っていた。井上は遅筆堂という別名もあるくらいで、役者だけでなく、観客も前売り券を買うときに、はじめの一週間くらいはまだ稽古が不十分だし、最悪は初日が遅れる危険性もあるので避けて買っていたことを思い出した。なかなかリスキーな観劇体験だった。
音楽劇ならではということで、音楽監督を何作も手掛けた後藤氏は「少年口伝隊」のギターの生演奏で、演出の栗山はタイト(短め)にといい、作者の井上は長めにというので、間に入り板挟みになりちょっと困ったと語った。それはたしかに困るだろう。なお後藤は「日本人のへそ」の再演(92年11月)のときにピアノ演奏のために来たのが井上との最初の出会いだったそうだ。演奏だけだと思って2人で交代でというと、井上に「役者としても出ないといけないので、それはちょっと」と言われ、もう一人の人(朴勝哲)に出てもらったそうだ。おお、そうか「黙阿弥オペラ」(95年1月)や「太鼓たたいて笛ふいて」(02年7月)など多くの作品で演奏した朴氏はこういうきっかけで出演することになったのかと、納得した。わたくしが朴をはじめて舞台で見たのは96年の「きらめく星座」だった。
後藤も、たしかにピアノがうまい。朴勝哲と同じく桐朋学園出身だ。ただしピアノ科ではなく作曲理論学科卒だそうだ。
こまつ座をよく観たのは、井上存命中の「シャンハイ・ムーン」(2010年2月)までで、その後は追悼公演の朗読劇「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」(2010年11月)、「キネマの天地」(2011年 秋山のこまつ座初登場)、「木の上の軍隊」(2013年)しかみていない。大きな原因は観劇料が高くなったことだ。それ以外に西舘好子「表裏井上ひさし協奏曲」(牧野出版 2011/08 389p)を読み、都さんと麻矢さんとではずいぶん違うことを知ったことにもよる。
次にこまつ座をみるとすると、やはり好きだった「イーハトーボの劇列車」か「頭痛肩こり樋口一葉」で気にいった役者が出ているとき、あるいは「イヌの仇討」などまだみていない芝居のときだろうか。