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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

加害の記憶をどう受け継ぐか

2009年07月31日 | 集会報告
7月25日(土)午後、杉並区産業商工会館で「7.7盧溝橋事件記念集会 戦場の記憶をどう語り継ぐか」が開催された。7月7日は、いまから72年前の1937年に盧溝橋事件が起こり、日本軍が中国への全面侵略を開始した日である。この集会は、撫順の奇蹟を受け継ぐ会、日中友好元軍人の会、不戦兵士・市民の会、関東日中平和友好会の元軍人4団体が持ち回りで幹事団体となり、毎年開催している。今年は撫順の奇蹟を受け継ぐ会が幹事団体の年だった。
わたくしには30歳前後の4人の方が自分の活動を語った第2部「加害の記憶をどう受け継ぐか」が興味深かったので、第2部を中心に紹介する。どういうきっかけで活動を始めたか、自分の活動を同世代に広げるためどんなことをやっているかを四人四様の報告があった。体験に基づいた話だったので学ぶべきことが多かった。

第1部 戦場の記憶をどう語り継ぐか
高橋哲郎さん(撫順の奇蹟を受け継ぐ会・元中国帰還者連絡会)
竹田悦三さん(日中友好元軍人の会
猪熊得郎さん(不戦兵士・市民の会
司会 姫田光義さん(中央大学名誉教授)

元兵士のお三方は1921年生まれから28年生まれ、みなさん80代の方たちだ。戦場での体験や記憶と若い世代への期待が語られた。
猪熊●1944年に少年兵に志願し、16歳で日立の飛行場で猛烈な空襲を受け11人の戦友のバラバラの死体を集めた。その後新京(現在の長春)の航空部対空無線隊に配属された。敗戦後シベリアに抑留された。零下20度の厳しい気候のなか、10人の仲間が「ぼた餅が食べたい、お母さん」と言って病死していった。47年に帰国し、出身中学への復学を希望したがかなわなかった。
戦場体験は、体験者の数だけある。若い人には、兵士がどのように自分の人間性をなくし、兵士にさせられていったか、兵士は戦場でどんな悲しみ、苦しみ、怒り、憎しみを持ったのか学んでほしい。9条を守ろうとするなら、ぜひ戦場体験を学んでほしい
竹田●スマトラに将校として派遣され、鉄道工場の空襲で爆死した現地の赤ん坊の死体をみて、戦争はひどいと思った。
若い人に伝えたいのは、戦争はバカげていること、権力にだまされないことだ。権力は、検察や裁判により脅しをかけ、叙勲をアメにする。また天皇制は消滅をも視野に入れて国民的議論を深めてほしい。民草という言葉があったが、天皇は人間を人間と思わず、草と思っていたということだ。
高橋●44年に山東省で現地召集され、宣伝報道班で宣撫工作のため京劇団を組織して1か月間準治安地区を回った。自分がいなかった1か月の間に、部隊の兵隊が民間人の殺戮や強姦を行った。敗戦後5年間シベリアに抑留され、50年に撫順の戦犯管理所に収容されて戦犯教育を受け、56年に帰国した。
その後、中帰連で加害の体験を語り続けたが、残念ながら支配的な日本の主張にはならなかった。2001年に若い人たちが、わたしたちの姿勢を受け継ぎたいと申し出てくれた。だんだん体験者が減っていくので、一刻も早く悔悟の気持ちの聞き取りをし記録に残してほしい。いま若い連中が語り継ぐ資料を整理している。わたしたちがいなくなったら、彼らはその資料をベースにして、若い世代の日本国民の新しい認識づくりを始めるしかなくなる。いつまでも四団体を頼ってもらっても困る。わたくしは、若い人なりにやっていくだろうと強い希望をもっている。

第2部 加害の記憶をどう受け継ぐか
神 直子さん(ブリッジ・フォー・ピース
木室志穂さん(ハイナン-NET
吉田 遼さん(SAY-Peace PROJECT
荒川美智代さん(撫順の奇跡を受け継ぐ会事務局)
司会 熊谷伸一郎さん(ジャーナリスト)

第1部を受けて、27歳から39歳の若い世代が語り合った。戦場体験を受け継ぐかなりハードな活動なのに、結構軽やかにやっているようにみえた。かつてに比べれば、敷居が低くなった国際交流、撮影機器や編集方法の発達で扱いやすくなった映像編集、そしてネットの利用などインフラや環境の変化にも大いに支えられている。しかしそれをしっかり活用し、人と人とのネットをつくり上げ、しなやかな活動を繰り広げているようだ。
■活動を始めたきっかけ、活動内容
神●最初に戦争を意識したのは、小学校低学年のころ長崎の祖母の家でみたマンガ「はだしのゲン」だった。またイギリスに短期留学した高校生のとき、ドイツ人の友人が「ナチスがやったことを考えると、わたしはドイツ人だと思われたくない」といったのを聞き、びっくりした。自分の国の歴史を自分のこととして考えていることを知ったからだ。
2000年大学4年のときスタディツアーではじめてフィリピンを訪問した。戦争の傷跡を知るため、ゲリラとして戦った人や日本軍に親を殺された人など60人くらいの人に集まってもらい話を聞いた。一人の老婦人が立ち上がり「日本人なんか見たくなかった。なんで来たんだ」とタガログ語で語ったとき、怒りの表情があらわだった。その方は1942年に結婚したが43年にご主人が連行され、それきりいまに至るまで消息不明だったのだ。
一方、2003年にたまたま、自分が戦時中行ったことを悔やみながら、日本の老人ホームで死んでいった元兵士がいたという話を聞いた。そこで2004年に元兵士の思いをフィリピンの人に知ってもらおうとビデオ・メッセージ・プロジェクトを始めた。陸軍の元兵士を中心に72人の取材を終え、自分の次の世代に伝えるため、現在各大学でビデオ上映会を開催している。
吉田●大学に入学した4月、人に誘われて在日朝鮮人慰安婦裁判の報告集会に行った。そこで「戦争なんてくだらない、それなのに今日本がまたやろうとしており、怒りを感じる」とまくしたてるように話す宋神道さんの言葉にショックを受けた。この人と同じ時代に自分は生きている。この時代とは何か、と素朴に考えた。それを原点に、自分に何ができるか考え始め、2003年にSAY-Peace
PROJECTを始めた。具体的な活動としては、同世代と平和に関するディスカッションする場をつくったり、軍縮平和に関する調査研究を行っている
いまの若い世代には戦争がリアルなものに感じられない。しかし客観的には、9.11(2001年)、アフガン戦争(2001年)、イラク戦争(2003年)と、戦争の時代に生きている。僕たちの世代が、どれだけこの認識をもてるかが大事だと思う。その現実から出発してわたしたちに何ができるか考えていきたい。
木室●大学に入り、何でも勉強とさまざまな集会に参加した。とりあえず中国、韓国に行ってみようと韓国に行き、元朝鮮人慰安婦のおばあさんと親しくなった。当たり前のことだが、おばあさんは普通にごはんを食べ、怒ったりわがままをいう。自分と同じ普通の人だと実感したとき、あんな体験をすればつらくて当然だと、自分のなかではっきり感じることができた。その後友人から、海南島の元慰安婦の裁判を支援するハイナン-NETに誘われ、自分も何かできるならやってみようと参加した。裁判は今年3月高裁で敗訴し、いま最高裁に上告している。
荒川●わたしもはじめのきっかけは、映画「はだしのゲン」(1976)をみて戦争はいやだと思ったことだ。大きなきっかけになったのは本多勝一「中国の旅」を読み、普通に生きてきた人が残虐な殺され方をしたことを知ったことだ。
わたしは長い間、CAP(子どもへの暴力防止プログラム)にかかわった。暴力を受けた子どもに「どう思ったか」聞くこともあったが、暴力を振るった子どもから「やめたいのにやめられない」という悩みを聞く機会もあった。そのとき暴力を振るった側もなかなか人に話せないものであることを理解できた。
そのころ女性戦犯法廷で、強姦したことを証言した元兵士のことをHPで知った。とても悪いことをしたと思っていることが文章から伝わってきた。撫順ですごいことがあったことがわかってきたので、中帰連の活動を手伝うようになった。
熊谷●被害者であれ加害者であれ、戦争体験の当事者との出会いが大きなインパクトになったことがわかる。自分は、ネットでの右派との論争がきっかけで中帰連の人と出会った。会えば普通の人であり、自分の延長戦上にいる、つまりいつ自分がそうなるかもしれないということがわかる。そうすると、その人のために何かしてあげたいと、体が自然に動き始める
若い人が参加できる機会をどうつくるか、工夫していることがあれば紹介してほしい。
■参加の機会づくり、工夫していること
神●20-40代は働き盛りや子育て中で時間がない人が多いので、あえて30分のビデオに編集している。兵士の話をまとめ、フィリピン人被害者の声も入れ、「これがすべてではない」と口をすっぱくして説明したうえで、30分のビデオ上映会を行っている。
この運動をいっしょにやっている仲間には、カナダやアメリカに留学したとき、韓国人の同級生から「日本人はきらい」といわれた経験のある人がいる。そういわれると人間は「どうして」と原因を考えたり、調べ始める。
吉田●戦争の時代に生きているのに、日本が戦争に関わっていることの実感がないことが問題だ。
沖縄へのスタディツアーのチラシをまくと説明会に40-50人の人がすぐ集まる。沖縄で何をやってみたいか聞くと、ダイビングや文化・風土に触れたいという答えが返ってくる。しかしそれをきっかけに、戦跡を巡り、証言を聞き、米軍基地を目の当たりにすれば何かを感じてもらえる。「ちょっと遊びに行く」という感覚から現地に行き何かを感じ、気づく人がきっと出てくる。
そうして問題意識をもった人のために、戦争を不問にしないディスカッションイベントをやっている。大学に留学生がいるのはごく普通だが、そういう話はしたことがない。留学生と戦争の話をすると考え方が全然違うことを感じさせられる。
木室●裁判支援の運動なので傍聴の呼びかけをしたり、大学の授業の一コマをもらい慰安婦問題を勉強してもらっている。
自分の居場所から広げようと、身近な人に話しかけるようにしている。たとえば新宿のゴールデン街のバーで、隣の客に海南島の慰安婦問題を語りかけたりしている(ときにケンカのようになることもあるが)。また海南島でのおばあちゃんとのかけがえのない時間をビデオに撮り編集して、麻布十番のちょっとおしゃれなカフェバーで上映することもやっている。
荒川●職場ではこの話はできない。友達にも、嫌われるのではないかとなかなか話はできない。ただ昨年若い世代9人でを出し、その関係で南京事件について大学で60分間話しをした
■今後の展望、やりたいこと
熊谷●戦後いろんな平和活動があったが、今日話してくれている4人は戦争の記憶をいかに伝えるかという活動に集中している。それはなぜなのか。この10年、南京事件はなかったとか、慰安婦は単なる商行為と言われ続け、書店にもそんな本ばかり並んでいる。そうした風潮への危機感がわたしたち若い世代にあったから、戦争の真実を伝えようとしているのではないか。
右派の人は、じつに些細なことを問題にする。たとえば南京の写真を示して、襟章がこの時代のものと違うというようなことだ。そんなとき一番頼りになるのは当事者の証言だ。「あのころは襟章なんていい加減だったから、ちょっと遅れてああいうのもあったんだよ」と一言いうと、右派は「シーン」となってしまう。しかし体験者はだんだん少なくなる。そしてわたしたちは今後、田母神のような人物と対峙しないといけなくなる。今後、どうすればよいのか、何をしたいか、展望を語っていただきたい。
荒川●本を読むよりは、まだ映画のほうが見に行ってもらえると思うので、映画をつくりたい。自分が制作するわけでなく、制作する人に協力したい。
木室●映像の編集をしたい。考えているのは、言葉による証言がない映像をつくれないか、ということだ。海南島のおばあさんは少数民族の人なので、二重通訳が必要になり、どうしても通訳の方の気持ちが入り込んでしまう。そして「観光では行かない海南島」といった本をつくりたい。
また香港などで中国の若い世代と話すと、「慰安婦問題」という言葉は知っていても、それ以上何も知らないことに気づく。中国の同世代の人にもこの問題を知ってもらうようにしたい。
吉田●第1部で高橋さんがおっしゃった「いつまでもわたしたちを頼ってもらっても困る。若い世代なりに言葉をつくっていく」ということに尽きる。戦争を自分の言葉で表現できるよう、言葉をもつことが重要だ。わたしたちは「体験」で語れないぶん、勉強するしかない。たとえば北朝鮮の「脅威」論に対し、歴史的経緯を調べたり、具体的にどのような脅威があるか調べ、それをわかりやすい言葉で説明することだ。結構、説得力のある議論ができると思う。
また日韓交流や日中交流はあるが、ぜひ日中韓交流を実現したい。そういう時代が近く訪れると思う。
神●たくさんあるが3つに絞る。まず、第1部の3人の方の話を聞き、記憶をきちんと受け継いでいきたいと、本当に思った。2番目に、わたしも日中韓交流をやりたい。いま中国を批判する声がマスコミにあふれているので中国嫌いの日本人が増えそうだ。しかし中国人韓国人でいい関係の友人は多いし、わたしたちの活動に共感してくれる人がたくさんいる。 
最後に、戦争を止めるためにわたしたちに何ができるのか考えている。わたしたちは戦争体験者の孫の世代だ。息子・娘世代は「なぜ戦争に反対しなかった」と詰め寄る人もいたと思うが、孫世代は一歩引いて考えられる。なぜ戦争が起こるのか、もうかるのは軍需産業や財閥なのにどうしてそれに気づかないのか、個人で反対できなくなる社会のムードはどうすれば止められるのか、そういうことを今後も考えていきたい。
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