今年は「漫画の神様」手塚治虫(1928年11月3日-89年2月9日)没後20年の年である。週刊読書人(4月24日号)特集「手塚治虫の科学・変身・探究心」で元手塚番編集者の野上暁氏の「編集者からみた手塚治虫先生」を読んだ。野上氏は67年10月から71年まで4年近く小学1年生編集部で手塚番として「ガムガムパンチ」「冒険ルビ」「ママァちゃん」(後の「ふしぎなメルモ」)などを担当した。
その当時、手塚は少年サンデー、チャンピオンなど週刊誌4誌、サンケイ新聞、赤旗日曜版、月刊誌連載に加えアニメの「どろろ」「千夜一夜物語」、万博「フジパンロボット館」のプロデュースをかけもちし超多忙だった。自宅玄関の突き当りが編集者の待機部屋、左側がスタッフの仕事場で、螺旋階段を上がった中2階で手塚は仕事をしていた。クリップに挟んだ執筆原稿が紐につるされスルスル降りてくるとスタッフがバックを描き込み、最後に手塚が仕上げとチェックをする。手塚は口に何色もの筆をくわえ、目にもとまらぬ神業で補色して完成した。
忙しさのなかでもよく映画を見、読書家でもあった。原稿待ちの編集者に記者会見だと偽って、試写会や演劇を野上氏とともに見にいったこともあったそうだ。
こういう人間的な側面を知りたいと思い、江戸東京博物館で開催された生誕80周年記念「手塚治虫展」に行った。

子ども時代に宝塚の自宅で撮った6分間の映画が上映されていた。2階建のかなり立派な屋敷での食事風景、丸坊主で学生帽をかぶった9人の小学生が一列縦隊で歩いている光景、ブランコに乗っている場面、ラジオ体操、4人の晴れ着の女の子の姿などが次々にスクリーンに現れた。小津安二郎の「生れてはみたけれど」(1932年)で、社長の自宅でホームムービーの上映会をやっていたシーンに少し似ている。手塚は1928年11月3日生まれなので1930年代は、庶民より少し上のクラスにとっていい時代だったようだ。(11月3日は明治節の日だったので「治」と名付けられた)。
池田師範付属時代の「六年間をかへりみて・・・」は、1年雪合戦、2年日食、5年キャンプ生活、6年伊勢参拝というもので、たしかに絵が上手だった。北野中学時代の昆虫手帳が展示されていた。もちろん図は細密なものだが、驚くのはレイアウトや文字だった。字そのものはうまくはないが活字のように粒がそろっていて、まるで印刷物のようだった。医学生時代のノート(第4節消化器)もまったく同じスタイルだった。いかに神業のようなスピードだったとしても、ノート作りに異常な情熱と時間を注いでいたようだ。中学3年の成績表が展示されていた。ほとんど良で、優と可はいくつか、秀がひとつという平凡な成績だった。ただし、名門北野中学であることを割り引いて考える必要はある。遠くからなので科目名はみえなかったが、理数系だけ優れているようにはみえなかった。
77年正月の8ミリが上映されていた。手塚が48歳のとき、場所は74年に引っ越した下井草の家である。73年に虫プロが倒産したので、富士見台の家より慎ましいが、しかし普通のサラリーマンの家よりは立派だ。庭で夫妻でバドミントンをしたり、父母と3世代で記念写真を撮ったりしている。一番下の子(千以子)が4歳のときだ。「マコとルミとチイ」という次女が生まれたころのマンガの原画が展示されていた。長女が嫉妬して赤ちゃん帰りするというストーリーで、少しフィクションも交えているかもしれないが、興味深かった。
その後80年に東久留米に転居している。黒目川や平林寺の林に近い自宅2階の仕事場が再現されていた。机はグレーのスチール製事務机だったので意外だった。しかしイスはひじかけ付きクッション付きの立派なものだった。使っていた鉛筆は三菱のユニ、消しゴムはトンボのごく普通のMONOだった。

わたくしは手塚のマンガそのものにはあまり興味がなかったが、バンパイヤや鉄腕アトムの直筆原稿、ジャングル大帝やふしぎなメルモのセル画、リボンの騎士の絵コンテが多数展示されており、ファンにとっては見ごたえがありそうだ。
わたくしは、「少年」の鉄腕アトムは何回かみたはずだし、「どろろ」「三つ目がとおる」も読んでいたはずだ。しかし赤塚不二夫やちばてつやのファンだったので、雑誌の記憶はあまりない。むしろテレビの「鉄腕アトム」(実写1959年3月~60年5月、アニメ1963年1月~66年12月)、アニメの「ビッグX」(1964年8月~65年9月)、「W3」(ワンダスリー1965年6月~66年1月)、「ふしぎなメルモ」(1971年10月~1972年3月)のほうが、テーマソングとともに印象が強い。
マーブルチョコレートのおまけのアトムシールが展示されていた。いま見るとチャチだった。発売期間も63-66年の4年間と意外に短い。アニメのアトムのテーマソングは名曲である。しかも演奏するのは意外にやさしい。中学生でも容易に「本物らしく」演奏できるのでうれしかった。
「ふしぎな少年」(1961―62年 太田博之主演、原作手塚治虫、脚本石山透)のシナリオが展示されていたが、「時間よ止まれ」の本文を読みたかった。
手塚はベレー帽、黒縁メガネでよくときどきテレビに出ていたように思う。マンガに出てくるのと同じ感じだった。1980年の映画「ヒポクラテスたち」には、放射線科の北山治、消化器器内科の軒上泊らとともに小児科教授としてエキストラ出演していたが、にこにこして昔と同じイメージだった。

☆手塚は1960年から74年まで富士見台に住んでいたが、練馬区には漫画家が大勢住んでいた。桜台には石ノ森章太郎、富士見台にちばてつや、南大泉には山上たつひこ、北大泉には松本零士・牧美也子夫妻、時代が少し違うが南大泉の小関には萩尾望都や竹宮恵子の大泉サロンが存在し、石神井公園に弘兼憲史・柴門ふみ夫妻がいた。
その当時、手塚は少年サンデー、チャンピオンなど週刊誌4誌、サンケイ新聞、赤旗日曜版、月刊誌連載に加えアニメの「どろろ」「千夜一夜物語」、万博「フジパンロボット館」のプロデュースをかけもちし超多忙だった。自宅玄関の突き当りが編集者の待機部屋、左側がスタッフの仕事場で、螺旋階段を上がった中2階で手塚は仕事をしていた。クリップに挟んだ執筆原稿が紐につるされスルスル降りてくるとスタッフがバックを描き込み、最後に手塚が仕上げとチェックをする。手塚は口に何色もの筆をくわえ、目にもとまらぬ神業で補色して完成した。
忙しさのなかでもよく映画を見、読書家でもあった。原稿待ちの編集者に記者会見だと偽って、試写会や演劇を野上氏とともに見にいったこともあったそうだ。
こういう人間的な側面を知りたいと思い、江戸東京博物館で開催された生誕80周年記念「手塚治虫展」に行った。

子ども時代に宝塚の自宅で撮った6分間の映画が上映されていた。2階建のかなり立派な屋敷での食事風景、丸坊主で学生帽をかぶった9人の小学生が一列縦隊で歩いている光景、ブランコに乗っている場面、ラジオ体操、4人の晴れ着の女の子の姿などが次々にスクリーンに現れた。小津安二郎の「生れてはみたけれど」(1932年)で、社長の自宅でホームムービーの上映会をやっていたシーンに少し似ている。手塚は1928年11月3日生まれなので1930年代は、庶民より少し上のクラスにとっていい時代だったようだ。(11月3日は明治節の日だったので「治」と名付けられた)。
池田師範付属時代の「六年間をかへりみて・・・」は、1年雪合戦、2年日食、5年キャンプ生活、6年伊勢参拝というもので、たしかに絵が上手だった。北野中学時代の昆虫手帳が展示されていた。もちろん図は細密なものだが、驚くのはレイアウトや文字だった。字そのものはうまくはないが活字のように粒がそろっていて、まるで印刷物のようだった。医学生時代のノート(第4節消化器)もまったく同じスタイルだった。いかに神業のようなスピードだったとしても、ノート作りに異常な情熱と時間を注いでいたようだ。中学3年の成績表が展示されていた。ほとんど良で、優と可はいくつか、秀がひとつという平凡な成績だった。ただし、名門北野中学であることを割り引いて考える必要はある。遠くからなので科目名はみえなかったが、理数系だけ優れているようにはみえなかった。
77年正月の8ミリが上映されていた。手塚が48歳のとき、場所は74年に引っ越した下井草の家である。73年に虫プロが倒産したので、富士見台の家より慎ましいが、しかし普通のサラリーマンの家よりは立派だ。庭で夫妻でバドミントンをしたり、父母と3世代で記念写真を撮ったりしている。一番下の子(千以子)が4歳のときだ。「マコとルミとチイ」という次女が生まれたころのマンガの原画が展示されていた。長女が嫉妬して赤ちゃん帰りするというストーリーで、少しフィクションも交えているかもしれないが、興味深かった。
その後80年に東久留米に転居している。黒目川や平林寺の林に近い自宅2階の仕事場が再現されていた。机はグレーのスチール製事務机だったので意外だった。しかしイスはひじかけ付きクッション付きの立派なものだった。使っていた鉛筆は三菱のユニ、消しゴムはトンボのごく普通のMONOだった。

わたくしは手塚のマンガそのものにはあまり興味がなかったが、バンパイヤや鉄腕アトムの直筆原稿、ジャングル大帝やふしぎなメルモのセル画、リボンの騎士の絵コンテが多数展示されており、ファンにとっては見ごたえがありそうだ。
わたくしは、「少年」の鉄腕アトムは何回かみたはずだし、「どろろ」「三つ目がとおる」も読んでいたはずだ。しかし赤塚不二夫やちばてつやのファンだったので、雑誌の記憶はあまりない。むしろテレビの「鉄腕アトム」(実写1959年3月~60年5月、アニメ1963年1月~66年12月)、アニメの「ビッグX」(1964年8月~65年9月)、「W3」(ワンダスリー1965年6月~66年1月)、「ふしぎなメルモ」(1971年10月~1972年3月)のほうが、テーマソングとともに印象が強い。
マーブルチョコレートのおまけのアトムシールが展示されていた。いま見るとチャチだった。発売期間も63-66年の4年間と意外に短い。アニメのアトムのテーマソングは名曲である。しかも演奏するのは意外にやさしい。中学生でも容易に「本物らしく」演奏できるのでうれしかった。
「ふしぎな少年」(1961―62年 太田博之主演、原作手塚治虫、脚本石山透)のシナリオが展示されていたが、「時間よ止まれ」の本文を読みたかった。
手塚はベレー帽、黒縁メガネでよくときどきテレビに出ていたように思う。マンガに出てくるのと同じ感じだった。1980年の映画「ヒポクラテスたち」には、放射線科の北山治、消化器器内科の軒上泊らとともに小児科教授としてエキストラ出演していたが、にこにこして昔と同じイメージだった。

☆手塚は1960年から74年まで富士見台に住んでいたが、練馬区には漫画家が大勢住んでいた。桜台には石ノ森章太郎、富士見台にちばてつや、南大泉には山上たつひこ、北大泉には松本零士・牧美也子夫妻、時代が少し違うが南大泉の小関には萩尾望都や竹宮恵子の大泉サロンが存在し、石神井公園に弘兼憲史・柴門ふみ夫妻がいた。