さいたま市大宮区にある鉄道博物館に行った。この博物館は2007年10月にオープンし、翌08年7月に一度行ったことがあるが、昨年7月に南館をつくりリニューアルオープンしたので、どう変わったのか見にいくことが目的だった。約10年ぶりの再訪だ。
大宮駅から新幹線沿いに北に歩いたが、博物館そのものが南北に600mもある長い施設で入口が北のほうにあるので1.5キロほど歩くことになり、かなり遠い気がした。ただ以前と異なり車道をはさんだ向こう側にマンションや戸建て住宅がかなり立ち並んだのと、大宮総合車両センターの塀にSLや新幹線など新旧の車両写真と解説パネルがたくさん展示されていて飽きることはなかった。
さてリニューアルだが、南館の建設のほか本館2階のてっぱくシアターなどの新設のようだ。まず36両もの車両が展示されている150mの長大な本館を通り抜け、2階の渡り廊下を渡り、南館にいってみた。南館は4階建てで、1階が「仕事」、2階が「未来」と「仕事」、3階が「歴史」というステーションで構成され、4階にレストランがある。
わたしはやはり「歴史」のステーションに関心があり、その部分を中心に紹介する。
1 手探りの鉄道黎明期 (1870~1890)
もちろん1872年10月の新橋・横浜間の鉄道開通から始まるのだが、明治維新の4年後、廃藩置県の翌年の話だから、文明開化のスピードはすさまじかった。区間29キロを53分、駅が4駅というから速さはバイク並みだろうか。1日9往復のダイヤだった。ただし機関士からほとんどすべて高額の「お雇い外国人」の手によるものだったらしい。しかし国産化へのスピードも猛烈で、1878年には「知るも知らぬも逢坂の関」(百人一首 蝉丸)の逢坂山トンネル工事を着工、日本人単独で80年に完工した(全長660m)、79年4月には初の日本人機関士3人が誕生している。
2 国産技術の確立期 (1890~1930)
日本が日清・日露・第一次大戦を勝ち抜いた時期であり、日本でも始まった産業革命を鉄道は交通インフラとして支えた。また鉄道だけとると、1906年の鉄道国有法成立が大きい。鉄道庁(1907年鉄道局、09年鉄道院、20年鉄道省へ)が設置され鉄道を全国一元的に管理した。
3 鉄道輸送の黄金期 (1930~1950)
横浜駅切符売場の実物大レプリカがあり、三等省線の料金表があった。一番近い桜木町まで5銭、川崎20銭、品川35銭、東京40銭、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場は45銭、池袋、大塚、十条は50銭だった。だいたいいまの路線に近かったことがわかった。
しかし時代は戦争へ、敗戦へ、戦後復興へと不幸な時代をたどった。ただ鉄道にとっては、需要が増え、朝鮮、満州などいわゆる外地への(連絡船を使った)直通列車の運行を行なうなど量も質も高まった「黄金期」だったのかもしれない。ただし敗戦近い時期は列車が機銃掃射を受けたり、戦後は復員や買い出しで、通勤ラッシュを上回る超混雑列車になったり、利用者や職員にとっては苦難の時期だった。戦後1949年に組織が公共企業体「日本国有鉄道(国鉄)」に変わった。
蒸気機関車(SL)の全盛期だったが、電気機関車による電車運転区間も拡大していった。建設技術の面でも、重機の利用、掘削や架橋技術が向上し、難工事で知られる丹那トンネルや清水トンネル、世界初の海底トンネル・関門トンネル(1942年下り開通)が開通し、阿賀野川や隅田川に橋が架かった。青函連絡船(1925)、稚内―樺太・大泊間の稚泊連絡船(1923)を使い鉄道網が拡充した。また国内の狭軌と異なり南満州鉄道では標準軌(1435ミリの広軌)が敷設され、特急「あじあ」号が走った。
一方、戦前の1930年代は生活の西洋化が進み、文化住宅が建てられ、食堂車が連結され、1935-36年の観光ブームで鉄道省に国際観光局が設置された。なおJTBはさらに早い1912年に発足していた。特急富士の食堂車のメニュー(1930年代後半)が展示されていたが、ハムエッグス35銭、オムレット20銭、ビーフステーキ50銭、ビーフカツレツ40銭など、なかなかモダンだ。アルコールもビール、ワイン、ウィスキーのほか、ブランデー、ベルモット、ジンなどもあり「動くホテル」のレストランのようだ。
4 世界一への飛躍期 (1950~1970)
「“所得倍増”をレールにのせて――5年後の国鉄は輸送力がグンとふえる」というポスターが掲示されていた。1964年東京オリンピック、1970年日本万博が開催され、都市化が進み、「痛勤」ラッシュ、帰省ラッシュが本格化し、大量・高速輸送が課題となった。
1964年10月の東海道新幹線開業が時代を画した。また複線化、複々線化、高架化も全国で進展した。社会的には公害の問題、過疎の問題など「高度成長」の負の側面も注目された。
5 未来への蓄積期 (1970~1990)
システム化、ネットワーク化が時代の潮流だった。国鉄でも、新幹線開業にともないオンラインでの指定席予約や運行管理システムの導入が始まった。磁気カードを使った自動改札が当たり前になった。また交流モータ、電力回収ブレーキ、軽量ステンレス車両の導入が始まった。一方、六甲トンネル(1972)、瀬戸大橋(1988)、青函トンネル(1988)が次々に開通した。
しかしマイカー所有やトラックによる貨物輸送が優位となるなどモータリゼーション時代が本格化し、一方航空機による移動や出張が普通の時代となり、鉄道経営は厳しくなった。運賃値上げと客離れ、雪ダルマ式に増える赤字と業務見直しに対するストライキ続発と、経営立て直しが国鉄の大きな課題となった。さらに、国鉄には路線の新設・廃止、運賃の決定権がなく自主的経営をとれないという問題も指摘された。
6 多様化する鉄道成熟期 (1990~)
1987年4月、国鉄は東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州、日本貨物などへの分割民営化を実行した。東北新幹線の延伸(盛岡―八戸2002、八戸―新青森2010)、北陸(長野1997、金沢2015)、九州(2004、2011)各新幹線が新設され、在来線を利用した新在直通方式の秋田(1997)、山形(1992、99)という方式も開発された。また通勤用のオール2階建てE1系電車を運行させた。
考えるとこの博物館そのものがJR東日本創立20周年記念でできた東日本の博物館、JR東海は2011年、金城ふ頭にリニア・鉄道館、JR西日本は2016年梅小路に京都鉄道博物館をオープンさせた。
各ブロックは国産技術の確立期を除き20年ずつになっているが、1990年以降のブロックは、そろそろ30年近い時期になる。歴史の概要を把握するのがなかなか難しいようだ。近年のことなので、分析が難しいことはよくわかるのだが・・・。
分割民営化されて30年。国労、全動労、鉄建公団などの組合員不採用問題は「和解」までに24年かかった。分割民営化がやむをえなかった状況もわかるが、やり方やプロセスは違うかたちもあっただろう。
新橋―横浜間開通から147年、国鉄を中心とする鉄道の歴史は、社会の動き、政治の動きと深く関連していることがよくわかる。
6つの時期の前に前史がある。江戸時代までは日の出、日の入りを基準に昼夜がありそれを6等分して「時」としていた。まだ「分」という概念まではなかった。しかし列車を運行するとなるとそうはいかない。そこで鉄道寮の役人が、増上寺の梵鐘(ぼんしょう)を新橋に近い愛宕山に上げて定時に鳴らして「時刻」を知らせようとした。しかし寺の反対で実現しなかったため、代わりに時計が駅に設置された。鉄道は日本の人間社会の「時間」の概念を変えたというエピソードだ。
「鉄道マンの仕事アルバム」フォトアーカイブ展入口
本館2階のてっぱくシアターも新設だというので見に行った。定員50人の予約制だが、平日だったのですぐ入場できた。上野から新青森のE5系はやぶさの旅の映像だった。3Dのメガネをかけてみる映像で、たしかに迫力はあったが、もっとも特色を発揮していたのは青森のねぶた祭りの動画で、まあその程度のものだ。子どもにはとても楽しめるアトラクションだ。。
わたくしがもう少し時間をかけてみたいと思ったのは2017年オープンの鉄道文化ギャラリーだった。撮影禁止なので画像はないが、鉄道を扱った映画、音楽、小説などを展示していた。思った以上にたくさんの作品があり、もう少しゆっくり眺めたかった。
11年前のブログ記事に「車両の展示や動力のメカの解説はある。しかしそれを動かした鉄道マンの影は希薄である」と書いた。今回、スペシャルギャラリーで「鉄道マンの仕事アルバム」という写真展を開催していた。勤務中の新幹線運転士、投炭訓練中の機関助手や駅員たち、ポイント切換や保線工事の写真など、鉄道員の作業風景が多数展示されていてこれはよかった。おそらくいまではない作業や廃線になった路線や駅も多く、写真でしかみられない光景も多いと思われる。もう少し詳しい説明が付いているとより価値が高くなる。このほか新館1・2階に「仕事」ステーションがあるが、それは運転席のシミュレータだったり、たしかに仕事の説明ではあるものの、あまり人間は出てこない。ただし、500円の有料だが、時速320キロのE5系やD51の運転シミュレータはファンにとってはたまらないだろうと思う。
EF551が汽笛を鳴らしながら、巨大な転車台ごと360度回転する
わたくしはとくに鉄道ファン(いわゆる○○鉄」ではないのであまり関心をもたなかったが、鉄道ファンにとっては、幅23m、奥行10mの日本最大級の鉄道ジオラマや鉄道機器・乗車券などの博物館のようなコレクションギャラリーも、きっと楽しめると思う。
また一日2回の電気機関車EF551(1936製造)の転車や屋外の実際のレールをC57が試験走行するのもたまたま目にした。EF551は、3両しか製造されず、ほかの2両は解体ずみの稀少品だ。初めは特急車両だったが、1959年に高崎線に移動し64年に一度引退したが86年に上越線、信越線で復活し2009年に再び引退し、15年に鉄道博物館にやってきた。敗戦近いころには静岡で機銃掃射を受け天井にまだその傷跡があるそうだ。多彩な運命をもつ列車だ。国鉄OBの機関士と機関助手が乗り込み、汽笛を鳴らしてくれる。この音は本物だけに迫力があった。
この日は3時間ほどかかって観覧した。歴史の部分だけで2時間ほど時間をかけたせいもあるが、まったく時間が足りなかった。本館は10年間にみたせいもありほぼパスだったし、南館の「仕事」「科学」「未来」もほとんど見ていないに等しい。「歴史」ですら各時代の技術関連の展示はパスしたようなものだった。なにしろ施設が大きく、みるべきポイントが多すぎるせいもある。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
鉄道博物館
住所:埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番
電話:048-651-0088
開館日:水曜日~月曜日(年末年始除く)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
入館料:大人1300円、小中高校生600円、幼児300円
大宮駅から新幹線沿いに北に歩いたが、博物館そのものが南北に600mもある長い施設で入口が北のほうにあるので1.5キロほど歩くことになり、かなり遠い気がした。ただ以前と異なり車道をはさんだ向こう側にマンションや戸建て住宅がかなり立ち並んだのと、大宮総合車両センターの塀にSLや新幹線など新旧の車両写真と解説パネルがたくさん展示されていて飽きることはなかった。
さてリニューアルだが、南館の建設のほか本館2階のてっぱくシアターなどの新設のようだ。まず36両もの車両が展示されている150mの長大な本館を通り抜け、2階の渡り廊下を渡り、南館にいってみた。南館は4階建てで、1階が「仕事」、2階が「未来」と「仕事」、3階が「歴史」というステーションで構成され、4階にレストランがある。
わたしはやはり「歴史」のステーションに関心があり、その部分を中心に紹介する。
1 手探りの鉄道黎明期 (1870~1890)
もちろん1872年10月の新橋・横浜間の鉄道開通から始まるのだが、明治維新の4年後、廃藩置県の翌年の話だから、文明開化のスピードはすさまじかった。区間29キロを53分、駅が4駅というから速さはバイク並みだろうか。1日9往復のダイヤだった。ただし機関士からほとんどすべて高額の「お雇い外国人」の手によるものだったらしい。しかし国産化へのスピードも猛烈で、1878年には「知るも知らぬも逢坂の関」(百人一首 蝉丸)の逢坂山トンネル工事を着工、日本人単独で80年に完工した(全長660m)、79年4月には初の日本人機関士3人が誕生している。
2 国産技術の確立期 (1890~1930)
日本が日清・日露・第一次大戦を勝ち抜いた時期であり、日本でも始まった産業革命を鉄道は交通インフラとして支えた。また鉄道だけとると、1906年の鉄道国有法成立が大きい。鉄道庁(1907年鉄道局、09年鉄道院、20年鉄道省へ)が設置され鉄道を全国一元的に管理した。
3 鉄道輸送の黄金期 (1930~1950)
横浜駅切符売場の実物大レプリカがあり、三等省線の料金表があった。一番近い桜木町まで5銭、川崎20銭、品川35銭、東京40銭、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場は45銭、池袋、大塚、十条は50銭だった。だいたいいまの路線に近かったことがわかった。
しかし時代は戦争へ、敗戦へ、戦後復興へと不幸な時代をたどった。ただ鉄道にとっては、需要が増え、朝鮮、満州などいわゆる外地への(連絡船を使った)直通列車の運行を行なうなど量も質も高まった「黄金期」だったのかもしれない。ただし敗戦近い時期は列車が機銃掃射を受けたり、戦後は復員や買い出しで、通勤ラッシュを上回る超混雑列車になったり、利用者や職員にとっては苦難の時期だった。戦後1949年に組織が公共企業体「日本国有鉄道(国鉄)」に変わった。
蒸気機関車(SL)の全盛期だったが、電気機関車による電車運転区間も拡大していった。建設技術の面でも、重機の利用、掘削や架橋技術が向上し、難工事で知られる丹那トンネルや清水トンネル、世界初の海底トンネル・関門トンネル(1942年下り開通)が開通し、阿賀野川や隅田川に橋が架かった。青函連絡船(1925)、稚内―樺太・大泊間の稚泊連絡船(1923)を使い鉄道網が拡充した。また国内の狭軌と異なり南満州鉄道では標準軌(1435ミリの広軌)が敷設され、特急「あじあ」号が走った。
一方、戦前の1930年代は生活の西洋化が進み、文化住宅が建てられ、食堂車が連結され、1935-36年の観光ブームで鉄道省に国際観光局が設置された。なおJTBはさらに早い1912年に発足していた。特急富士の食堂車のメニュー(1930年代後半)が展示されていたが、ハムエッグス35銭、オムレット20銭、ビーフステーキ50銭、ビーフカツレツ40銭など、なかなかモダンだ。アルコールもビール、ワイン、ウィスキーのほか、ブランデー、ベルモット、ジンなどもあり「動くホテル」のレストランのようだ。
4 世界一への飛躍期 (1950~1970)
「“所得倍増”をレールにのせて――5年後の国鉄は輸送力がグンとふえる」というポスターが掲示されていた。1964年東京オリンピック、1970年日本万博が開催され、都市化が進み、「痛勤」ラッシュ、帰省ラッシュが本格化し、大量・高速輸送が課題となった。
1964年10月の東海道新幹線開業が時代を画した。また複線化、複々線化、高架化も全国で進展した。社会的には公害の問題、過疎の問題など「高度成長」の負の側面も注目された。
5 未来への蓄積期 (1970~1990)
システム化、ネットワーク化が時代の潮流だった。国鉄でも、新幹線開業にともないオンラインでの指定席予約や運行管理システムの導入が始まった。磁気カードを使った自動改札が当たり前になった。また交流モータ、電力回収ブレーキ、軽量ステンレス車両の導入が始まった。一方、六甲トンネル(1972)、瀬戸大橋(1988)、青函トンネル(1988)が次々に開通した。
しかしマイカー所有やトラックによる貨物輸送が優位となるなどモータリゼーション時代が本格化し、一方航空機による移動や出張が普通の時代となり、鉄道経営は厳しくなった。運賃値上げと客離れ、雪ダルマ式に増える赤字と業務見直しに対するストライキ続発と、経営立て直しが国鉄の大きな課題となった。さらに、国鉄には路線の新設・廃止、運賃の決定権がなく自主的経営をとれないという問題も指摘された。
6 多様化する鉄道成熟期 (1990~)
1987年4月、国鉄は東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州、日本貨物などへの分割民営化を実行した。東北新幹線の延伸(盛岡―八戸2002、八戸―新青森2010)、北陸(長野1997、金沢2015)、九州(2004、2011)各新幹線が新設され、在来線を利用した新在直通方式の秋田(1997)、山形(1992、99)という方式も開発された。また通勤用のオール2階建てE1系電車を運行させた。
考えるとこの博物館そのものがJR東日本創立20周年記念でできた東日本の博物館、JR東海は2011年、金城ふ頭にリニア・鉄道館、JR西日本は2016年梅小路に京都鉄道博物館をオープンさせた。
各ブロックは国産技術の確立期を除き20年ずつになっているが、1990年以降のブロックは、そろそろ30年近い時期になる。歴史の概要を把握するのがなかなか難しいようだ。近年のことなので、分析が難しいことはよくわかるのだが・・・。
分割民営化されて30年。国労、全動労、鉄建公団などの組合員不採用問題は「和解」までに24年かかった。分割民営化がやむをえなかった状況もわかるが、やり方やプロセスは違うかたちもあっただろう。
新橋―横浜間開通から147年、国鉄を中心とする鉄道の歴史は、社会の動き、政治の動きと深く関連していることがよくわかる。
6つの時期の前に前史がある。江戸時代までは日の出、日の入りを基準に昼夜がありそれを6等分して「時」としていた。まだ「分」という概念まではなかった。しかし列車を運行するとなるとそうはいかない。そこで鉄道寮の役人が、増上寺の梵鐘(ぼんしょう)を新橋に近い愛宕山に上げて定時に鳴らして「時刻」を知らせようとした。しかし寺の反対で実現しなかったため、代わりに時計が駅に設置された。鉄道は日本の人間社会の「時間」の概念を変えたというエピソードだ。
「鉄道マンの仕事アルバム」フォトアーカイブ展入口
本館2階のてっぱくシアターも新設だというので見に行った。定員50人の予約制だが、平日だったのですぐ入場できた。上野から新青森のE5系はやぶさの旅の映像だった。3Dのメガネをかけてみる映像で、たしかに迫力はあったが、もっとも特色を発揮していたのは青森のねぶた祭りの動画で、まあその程度のものだ。子どもにはとても楽しめるアトラクションだ。。
わたくしがもう少し時間をかけてみたいと思ったのは2017年オープンの鉄道文化ギャラリーだった。撮影禁止なので画像はないが、鉄道を扱った映画、音楽、小説などを展示していた。思った以上にたくさんの作品があり、もう少しゆっくり眺めたかった。
11年前のブログ記事に「車両の展示や動力のメカの解説はある。しかしそれを動かした鉄道マンの影は希薄である」と書いた。今回、スペシャルギャラリーで「鉄道マンの仕事アルバム」という写真展を開催していた。勤務中の新幹線運転士、投炭訓練中の機関助手や駅員たち、ポイント切換や保線工事の写真など、鉄道員の作業風景が多数展示されていてこれはよかった。おそらくいまではない作業や廃線になった路線や駅も多く、写真でしかみられない光景も多いと思われる。もう少し詳しい説明が付いているとより価値が高くなる。このほか新館1・2階に「仕事」ステーションがあるが、それは運転席のシミュレータだったり、たしかに仕事の説明ではあるものの、あまり人間は出てこない。ただし、500円の有料だが、時速320キロのE5系やD51の運転シミュレータはファンにとってはたまらないだろうと思う。
EF551が汽笛を鳴らしながら、巨大な転車台ごと360度回転する
わたくしはとくに鉄道ファン(いわゆる○○鉄」ではないのであまり関心をもたなかったが、鉄道ファンにとっては、幅23m、奥行10mの日本最大級の鉄道ジオラマや鉄道機器・乗車券などの博物館のようなコレクションギャラリーも、きっと楽しめると思う。
また一日2回の電気機関車EF551(1936製造)の転車や屋外の実際のレールをC57が試験走行するのもたまたま目にした。EF551は、3両しか製造されず、ほかの2両は解体ずみの稀少品だ。初めは特急車両だったが、1959年に高崎線に移動し64年に一度引退したが86年に上越線、信越線で復活し2009年に再び引退し、15年に鉄道博物館にやってきた。敗戦近いころには静岡で機銃掃射を受け天井にまだその傷跡があるそうだ。多彩な運命をもつ列車だ。国鉄OBの機関士と機関助手が乗り込み、汽笛を鳴らしてくれる。この音は本物だけに迫力があった。
この日は3時間ほどかかって観覧した。歴史の部分だけで2時間ほど時間をかけたせいもあるが、まったく時間が足りなかった。本館は10年間にみたせいもありほぼパスだったし、南館の「仕事」「科学」「未来」もほとんど見ていないに等しい。「歴史」ですら各時代の技術関連の展示はパスしたようなものだった。なにしろ施設が大きく、みるべきポイントが多すぎるせいもある。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
鉄道博物館
住所:埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47番
電話:048-651-0088
開館日:水曜日~月曜日(年末年始除く)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
入館料:大人1300円、小中高校生600円、幼児300円