6月23日は、沖縄戦で組織的戦闘が終結して73回目の「慰霊の日」(32軍の牛島満中将が自決したと考えられる日)だった。その前日の22日(土)午後、霞ヶ関の弁護士会館2階クレオで「2019沖縄シンポジウム 沖縄とともに 慰霊の日を迎えて」が開催された(主催 東京弁護士会 参加250人)。
毎年この時期に弁護士会館で沖縄問題をやっていたことは知っていたが、この2年たまたまその時期は東京におらず、昨年は、戦後何度も繰り返された米軍機墜落事故の写真展だけみた。
今年、はじめてシンポジウムを聞くことができた。弁護士会館は裁判の報告集会に行く機会は多いが、ホールに入るのは初めてだった。なおこの講演会も会場内の写真撮影はできなかった。
第1部 沖縄戦における陸軍中野学校と護郷隊の役割――本土のための捨て石としての沖縄
川満彰さん(名護市教育委員会文化課市史編さん係嘱託)
護郷隊とは、沖縄の32軍が壊滅したあと、本土決戦を少しでも先送りするため沖縄各地でゲリラ戦を展開しようと設置した部隊で、陸軍中野学校出身者42人が派遣され、沖縄本島北部・やんばる地域や与那国島、久米島などの離島で少年兵や住民が組織された。
この日は主として、本島の少年兵・護郷隊についての講演だった。沖縄のひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊は有名だが、これらは師範、中学校、女学校に進学した学徒たちの部隊である。それに対し、国民学校から青年学校に進んだ15-16歳の少年たちも戦争に協力させられた。
1944年10月以降、700人の少年たちが第一護郷隊として名護国民学校に召集され、45年3月第二護郷隊が300人で編成された。選抜されたメンバーは、志願とはいうものの断れば「ハガキ」が届き死刑になるといわれたり軍刀で脅され、実態は「強制」だった。
講師の川満さんは10年以上名護市の市史編纂をしている方で、名護在住の元・護郷隊隊員50-60人のうち30人に面談したとのことだった。オーラル・ヒストリーを元に、「あの日、僕らは戦場で――少年兵の告白」というアニメ・ドキュメントが制作され2015年8月11日にNHKスペシャルで75分番組として放映された。その動画も部分的に上映しながらの講演だった。
少年たちは、厳しい訓練を受けた。ダイナマイトをかつぐ爆破訓練、直進訓練などだ。殴る・蹴るの訓練で、失敗すると連帯責任ということで、少年たち同士でなぐり合いを強いられた。「歌う声が小さい」というだけで匍匐前進で1キロを命じられた少年もいた。そのうち「もうどうなってもよい、死んでもよい」とマインドコントロールされていった。すべては「国体護持」のためにであった。
沖縄戦は最終決戦ではなかった。最終決戦は本土でと、日本軍・米軍双方ともに考えていた。沖縄は本土決戦を少しでも遅くするための捨て石であり、米軍にとっては本土決戦のための要塞基地だった。
32軍が南部で制圧されたあと、米軍は北部に攻め上ってきた。少年たちはやんばるのジャングルに陣地を構築し、持久戦を戦うため、米60キロを背負い山中に合計4000俵も備蓄した。第一護郷隊は名護、第二は恩納村で銃を撃った。隣の生徒が銃弾で死亡し、迫撃砲の直撃で即死するものもいた。「10人殺せば、死んでもよい」といわれ、何も感じなくなっていった。インタビューすると「30発撃った、60発撃った」とはいうが、「敵を何人殺した」と聞くと答えない。一種のPTSDだろう。
戦闘でなく、異常な死に方をした少年も何人もいる。ある少年は歩けなくなり、軍医が頭から毛布をかぶせ拳銃で射殺し、無念の死を遂げた。置き去りにされ自ら手りゅう弾で自決した少年もいる。また、移動するときに遅れて到着したところ、上官にスパイと決めつけられ、目隠しされて炭焼きの窯の上に立たされ、3-4人の仲間の少年が射殺を命じられ殺された少年もいた。射殺したのも射殺されたのも同じ字(あざ)出身という悲惨な話で、川満さんが遺族の姉にこの件でインタビューすると押し黙り「帰れ!」といわれたこともあった。
沖縄で戦争に巻き込まれた住民たちは地域により違いがある。南部は米軍の艦砲射撃や戦闘の巻き添えで死んだ人が多く、中部は集団自決が多い。北部には、戦闘行為の邪魔になるからと、中部や南部から強制疎開された人々が多くいた。山にこもり飢餓に苦しみ、やがて米軍に鎮圧され、下の太平洋側の大浦や辺野古などの収容所に入るとマラリアで死ぬ人も多かった。
なお32軍が壊滅したまさに45年6月23日に義勇兵役法が国民に通達され、日本全土で15歳以上の男子が兵役に就くことになった。またそれ以前から沖縄以外の本土全土や離島にも中野学校出身者が本土決戦のゲリラ戦に備え、配置されていた。
川満さんのお話には、護郷隊出身者や遺族へのインタビューのエピソードがいくつも出てきた。臨場感のある話だったのに、再現できないのが残念だ。
また高校生から小学生たちを対象に、護郷隊の少年兵をテーマとする講演を続けているそうだ。いくつか印象に残ったものを紹介する。
・高校生たちにもこのアニメ映画をみせているそうだが、高校生は「自分なら逃げる」という。それで「逃げられなかったんだよ」というところから当時の状況説明を始める。
・「赤き血燃ゆる若者が」で始まる「護郷隊の歌」がある。曲は中野学校の歌、歌詞の3,4番は中野学校と同じだ。マインドコントロールに歌は強い力をもつ。子どもたちに「歌はいいものだが、『国を守るため』とか「国のため」という歌詞が入っていると、大変なことになるよ」と教えている。
・小学6年でも「君に捧げる」の「君」が天皇ということを知っている。しかし「笑って死ねるか」と尋ねると「絶対にイヤ」という。
・「語り部」は90代となり、人数が限られてくる。しかし川満さんから「当時小学生だった人はまだまだいる。子どものときの記憶をいまの子どもに受け継ぐことは意義があると語った。また授業時間の45分に体験をまとめるのは限界があるので、まず先生が話を聞いて一度咀嚼し、それを子どもに伝えるのがよい」とのアドバイスがあった。多くの体験のうえでの提言なので、なるほどと納得した。
第2部 辺野古埋立てをめぐる法律上の問題の現在――埋立承認撤回取消裁決と設計変更について
本多滝夫さん(龍谷大学法学部教授 行政法)
この講演の眼目は主として行政法にかかわる話だったが、こちらに基礎知識がないため、ごく
一部分だけ紹介する。
昨年12月6日一ツ橋ホールで行われた首都圏集会の白藤博行・専修大学教授の講演で、昨年8月31日の沖縄県の埋立承認撤回理由や、沖縄防衛局が「私人になりすまし」埋立承認撤回の執行停止申し立てと審査請求を行い国交省が執行停止決定をしたこと、11月29日県が国地方係争処理委員会(以下、係争委)に違法なので取消を求め、申し出たところまでは聞いていた。この日は、超軟弱地盤で羽田や関空の工事とはレベルが違うという問題、工事の順序が申請時と異なる問題、2015年10月の故・翁長雄志知事の埋立て承認取消と18年の撤回との違いなど、かなり詳しい解説を聞いた。
その後年が明け、2月19日に係争委は残念ながら「審査の申出却下」を決定したので、4月22日県知事は係争委に「採決について審査の申出」を行った。これも残念なことに「却下を決定」した。
それで重要なのは今後だが、県は7月に2つの訴訟を提訴する予定とのことだった。ひとつは「国の関与に関する不服の訴え」の関与訴訟で、地方自治法に基づく特別な裁判であり県知事が提訴する。もうひとつは公権力の行使に関する抗告訴訟で、行政事件訴訟法に基づく一般的な訴訟形式で、県が提訴する。
関与訴訟は「私人なりすまし」論への適否のみ判断し、それ以外の判断はしなくてすむので、抗告訴訟も同時に行い承認撤回処分そのものの適否を判断させるのに必要、という理由で2つの裁判が必要なのだそうだ。関与裁判の結論は、事の性質上「迅速な審理」が地方自治法で要請されているので、最高裁までいっても年内に判断が出るのではないかとのことだった。
本多さんは「私人なりすまし論」など争点を4つあげ、裁判上の課題としてたとえば分権改革前の古いものだが最高裁の判例をクリアすべきことなどが説明された。また2つの裁判それぞれ県が勝訴した場合、国が勝訴した場合のその後の対応についても話されたが、わたくしにはうまく説明しきれないので省略する。ただ県が敗訴した場合、新たな訴訟を起こすことはできるが、国は処分取消あるいは代執行の手続きを取る選択ができるようだ。しかし考えてみると、現在、国(防衛局)がやっていることは代執行の先取りのようなものである。安倍政権の姿勢がまさによく表れている。2月24日の県民投票で、県民は埋立反対が71.7%(投票しなかった人を含めても37.6%)の多数に上るにもかかわらずである。
故・翁長知事は「『国会の圧倒的多数で決めたでしょう。日本は法治国家ですよ』と言われたら、政府が一地方に対して為すことについて、民意をくみ取る民主主義は成立しないことになります」「民主主義は多数決の独裁政治」と述べた(「戦う民意」KADOKAWA 2015.12 90-91p)。
本多さんも講演の最後を、「民主主義国家において地方自治が必要とされるのは(略)中央政府の権力の横暴から、国民全体から見れば少数である地方の住民の基本的人権を守るためだ。(略)自治体が国と対等な地位にあるとすれば、(略)裁判所はその地位の侵害が司法的救済によって回復され得るよう争訟制度を運用すべきだ」と締めくくった。
☆この日弁護士会館1階フロアで、名護市を中心とする沖縄戦直後の古い写真と、現代の埋立工事の写真展を開催していた。名護市辺野古や田井等の米軍収容所で生活する女性や子どもの1945年7月の写真があった(沖縄県公文書館所蔵)。日本軍や米軍に住居を追い出され、収容所で暮らしているのだろう。74年後の現在、再び辺野古は日本国家や米軍に追い出されようとしている。「他人の家を盗んでおいて、長年住んで家が古くなったから『おい、もう一回土地を出して家をつくれ』といっているようなもの」(翁長 前掲32ページ)を、写真で表したようなものだ。
☆講演に先立ち、昨年日弁連が募集した「憲法を詩おうコンテスト」の小学生以下の部・金賞・大賞の「わたしのねがい」(作詞 尾池ひかり(茨城県7歳)、作曲谷川賢作)の演奏画像が披露された。「わたしはせんそうをしらない(略)へいわをまもるけんぽう いのちをつなぐけんぽう(略)それがわたしのねがい」という詩ももちろんよいが、ピアノ、ベース、ボーカルのトリオがなかなかいい曲だった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。なかには、歌にリンクしているものもあります。
毎年この時期に弁護士会館で沖縄問題をやっていたことは知っていたが、この2年たまたまその時期は東京におらず、昨年は、戦後何度も繰り返された米軍機墜落事故の写真展だけみた。
今年、はじめてシンポジウムを聞くことができた。弁護士会館は裁判の報告集会に行く機会は多いが、ホールに入るのは初めてだった。なおこの講演会も会場内の写真撮影はできなかった。
第1部 沖縄戦における陸軍中野学校と護郷隊の役割――本土のための捨て石としての沖縄
川満彰さん(名護市教育委員会文化課市史編さん係嘱託)
護郷隊とは、沖縄の32軍が壊滅したあと、本土決戦を少しでも先送りするため沖縄各地でゲリラ戦を展開しようと設置した部隊で、陸軍中野学校出身者42人が派遣され、沖縄本島北部・やんばる地域や与那国島、久米島などの離島で少年兵や住民が組織された。
この日は主として、本島の少年兵・護郷隊についての講演だった。沖縄のひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊は有名だが、これらは師範、中学校、女学校に進学した学徒たちの部隊である。それに対し、国民学校から青年学校に進んだ15-16歳の少年たちも戦争に協力させられた。
1944年10月以降、700人の少年たちが第一護郷隊として名護国民学校に召集され、45年3月第二護郷隊が300人で編成された。選抜されたメンバーは、志願とはいうものの断れば「ハガキ」が届き死刑になるといわれたり軍刀で脅され、実態は「強制」だった。
講師の川満さんは10年以上名護市の市史編纂をしている方で、名護在住の元・護郷隊隊員50-60人のうち30人に面談したとのことだった。オーラル・ヒストリーを元に、「あの日、僕らは戦場で――少年兵の告白」というアニメ・ドキュメントが制作され2015年8月11日にNHKスペシャルで75分番組として放映された。その動画も部分的に上映しながらの講演だった。
少年たちは、厳しい訓練を受けた。ダイナマイトをかつぐ爆破訓練、直進訓練などだ。殴る・蹴るの訓練で、失敗すると連帯責任ということで、少年たち同士でなぐり合いを強いられた。「歌う声が小さい」というだけで匍匐前進で1キロを命じられた少年もいた。そのうち「もうどうなってもよい、死んでもよい」とマインドコントロールされていった。すべては「国体護持」のためにであった。
沖縄戦は最終決戦ではなかった。最終決戦は本土でと、日本軍・米軍双方ともに考えていた。沖縄は本土決戦を少しでも遅くするための捨て石であり、米軍にとっては本土決戦のための要塞基地だった。
32軍が南部で制圧されたあと、米軍は北部に攻め上ってきた。少年たちはやんばるのジャングルに陣地を構築し、持久戦を戦うため、米60キロを背負い山中に合計4000俵も備蓄した。第一護郷隊は名護、第二は恩納村で銃を撃った。隣の生徒が銃弾で死亡し、迫撃砲の直撃で即死するものもいた。「10人殺せば、死んでもよい」といわれ、何も感じなくなっていった。インタビューすると「30発撃った、60発撃った」とはいうが、「敵を何人殺した」と聞くと答えない。一種のPTSDだろう。
戦闘でなく、異常な死に方をした少年も何人もいる。ある少年は歩けなくなり、軍医が頭から毛布をかぶせ拳銃で射殺し、無念の死を遂げた。置き去りにされ自ら手りゅう弾で自決した少年もいる。また、移動するときに遅れて到着したところ、上官にスパイと決めつけられ、目隠しされて炭焼きの窯の上に立たされ、3-4人の仲間の少年が射殺を命じられ殺された少年もいた。射殺したのも射殺されたのも同じ字(あざ)出身という悲惨な話で、川満さんが遺族の姉にこの件でインタビューすると押し黙り「帰れ!」といわれたこともあった。
沖縄で戦争に巻き込まれた住民たちは地域により違いがある。南部は米軍の艦砲射撃や戦闘の巻き添えで死んだ人が多く、中部は集団自決が多い。北部には、戦闘行為の邪魔になるからと、中部や南部から強制疎開された人々が多くいた。山にこもり飢餓に苦しみ、やがて米軍に鎮圧され、下の太平洋側の大浦や辺野古などの収容所に入るとマラリアで死ぬ人も多かった。
なお32軍が壊滅したまさに45年6月23日に義勇兵役法が国民に通達され、日本全土で15歳以上の男子が兵役に就くことになった。またそれ以前から沖縄以外の本土全土や離島にも中野学校出身者が本土決戦のゲリラ戦に備え、配置されていた。
川満さんのお話には、護郷隊出身者や遺族へのインタビューのエピソードがいくつも出てきた。臨場感のある話だったのに、再現できないのが残念だ。
また高校生から小学生たちを対象に、護郷隊の少年兵をテーマとする講演を続けているそうだ。いくつか印象に残ったものを紹介する。
・高校生たちにもこのアニメ映画をみせているそうだが、高校生は「自分なら逃げる」という。それで「逃げられなかったんだよ」というところから当時の状況説明を始める。
・「赤き血燃ゆる若者が」で始まる「護郷隊の歌」がある。曲は中野学校の歌、歌詞の3,4番は中野学校と同じだ。マインドコントロールに歌は強い力をもつ。子どもたちに「歌はいいものだが、『国を守るため』とか「国のため」という歌詞が入っていると、大変なことになるよ」と教えている。
・小学6年でも「君に捧げる」の「君」が天皇ということを知っている。しかし「笑って死ねるか」と尋ねると「絶対にイヤ」という。
・「語り部」は90代となり、人数が限られてくる。しかし川満さんから「当時小学生だった人はまだまだいる。子どものときの記憶をいまの子どもに受け継ぐことは意義があると語った。また授業時間の45分に体験をまとめるのは限界があるので、まず先生が話を聞いて一度咀嚼し、それを子どもに伝えるのがよい」とのアドバイスがあった。多くの体験のうえでの提言なので、なるほどと納得した。
第2部 辺野古埋立てをめぐる法律上の問題の現在――埋立承認撤回取消裁決と設計変更について
本多滝夫さん(龍谷大学法学部教授 行政法)
この講演の眼目は主として行政法にかかわる話だったが、こちらに基礎知識がないため、ごく
一部分だけ紹介する。
昨年12月6日一ツ橋ホールで行われた首都圏集会の白藤博行・専修大学教授の講演で、昨年8月31日の沖縄県の埋立承認撤回理由や、沖縄防衛局が「私人になりすまし」埋立承認撤回の執行停止申し立てと審査請求を行い国交省が執行停止決定をしたこと、11月29日県が国地方係争処理委員会(以下、係争委)に違法なので取消を求め、申し出たところまでは聞いていた。この日は、超軟弱地盤で羽田や関空の工事とはレベルが違うという問題、工事の順序が申請時と異なる問題、2015年10月の故・翁長雄志知事の埋立て承認取消と18年の撤回との違いなど、かなり詳しい解説を聞いた。
その後年が明け、2月19日に係争委は残念ながら「審査の申出却下」を決定したので、4月22日県知事は係争委に「採決について審査の申出」を行った。これも残念なことに「却下を決定」した。
それで重要なのは今後だが、県は7月に2つの訴訟を提訴する予定とのことだった。ひとつは「国の関与に関する不服の訴え」の関与訴訟で、地方自治法に基づく特別な裁判であり県知事が提訴する。もうひとつは公権力の行使に関する抗告訴訟で、行政事件訴訟法に基づく一般的な訴訟形式で、県が提訴する。
関与訴訟は「私人なりすまし」論への適否のみ判断し、それ以外の判断はしなくてすむので、抗告訴訟も同時に行い承認撤回処分そのものの適否を判断させるのに必要、という理由で2つの裁判が必要なのだそうだ。関与裁判の結論は、事の性質上「迅速な審理」が地方自治法で要請されているので、最高裁までいっても年内に判断が出るのではないかとのことだった。
本多さんは「私人なりすまし論」など争点を4つあげ、裁判上の課題としてたとえば分権改革前の古いものだが最高裁の判例をクリアすべきことなどが説明された。また2つの裁判それぞれ県が勝訴した場合、国が勝訴した場合のその後の対応についても話されたが、わたくしにはうまく説明しきれないので省略する。ただ県が敗訴した場合、新たな訴訟を起こすことはできるが、国は処分取消あるいは代執行の手続きを取る選択ができるようだ。しかし考えてみると、現在、国(防衛局)がやっていることは代執行の先取りのようなものである。安倍政権の姿勢がまさによく表れている。2月24日の県民投票で、県民は埋立反対が71.7%(投票しなかった人を含めても37.6%)の多数に上るにもかかわらずである。
故・翁長知事は「『国会の圧倒的多数で決めたでしょう。日本は法治国家ですよ』と言われたら、政府が一地方に対して為すことについて、民意をくみ取る民主主義は成立しないことになります」「民主主義は多数決の独裁政治」と述べた(「戦う民意」KADOKAWA 2015.12 90-91p)。
本多さんも講演の最後を、「民主主義国家において地方自治が必要とされるのは(略)中央政府の権力の横暴から、国民全体から見れば少数である地方の住民の基本的人権を守るためだ。(略)自治体が国と対等な地位にあるとすれば、(略)裁判所はその地位の侵害が司法的救済によって回復され得るよう争訟制度を運用すべきだ」と締めくくった。
☆この日弁護士会館1階フロアで、名護市を中心とする沖縄戦直後の古い写真と、現代の埋立工事の写真展を開催していた。名護市辺野古や田井等の米軍収容所で生活する女性や子どもの1945年7月の写真があった(沖縄県公文書館所蔵)。日本軍や米軍に住居を追い出され、収容所で暮らしているのだろう。74年後の現在、再び辺野古は日本国家や米軍に追い出されようとしている。「他人の家を盗んでおいて、長年住んで家が古くなったから『おい、もう一回土地を出して家をつくれ』といっているようなもの」(翁長 前掲32ページ)を、写真で表したようなものだ。
☆講演に先立ち、昨年日弁連が募集した「憲法を詩おうコンテスト」の小学生以下の部・金賞・大賞の「わたしのねがい」(作詞 尾池ひかり(茨城県7歳)、作曲谷川賢作)の演奏画像が披露された。「わたしはせんそうをしらない(略)へいわをまもるけんぽう いのちをつなぐけんぽう(略)それがわたしのねがい」という詩ももちろんよいが、ピアノ、ベース、ボーカルのトリオがなかなかいい曲だった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。なかには、歌にリンクしているものもあります。