アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

完璧な分断と絆幻想

2023-02-06 21:11:47 | マインド・コントロールneo

◎平時でも分断孤立した生活と意識

(2017-09-17)

 

大規模災害の後は絆がスローガンになる。それは、大規模災害でライフラインが破壊されると、生活は分断、孤立しがちになるもので、生存を維持するためには、食料、水、情報などの絆が要るということ。

 

ところが、個々人の生活の分断は、ライフラインが整った日常にあっても既に常態化している。個人主義的生活とは、個々人が分離した生活スペースで暮らし、日常意識も他人と分離し、独立していることであり、常に孤独感、孤立の影が差す。

 

平均主義、平等主義、不公平なしを社会秩序の根底に据えている日本社会は、残念ながらねたみそねみが心情の根幹にある。

 

「他人よりちょっと得をする」というのは、大いにやる気スイッチを刺激するが、これは、ねたみそねみを身上とする日本民族にとっては、諍(いさか)いの種である。

 

だから、人は「ちょっと足りない、ちょっと不足気味」で満足しなければ、際限のない他人との分捕り合戦の罠に落ちる。

 

核家族化と個人主義的ライフ・スタイルで、各個人は孤立し、こうした「ちょっと得」の罠にかかれば、その人たちは、最終的に親子など家族同士でも争うことになることは、古代の歴史や経験、予言などでいくらでも予見されている。

 

古代ギリシアのオウィディウスの変身物語には、金の時代、銀の時代、銅の時代と進み最後は鉄の時代になる。

 

鉄の時代には、こっそりあるいは合法的に他人の物を奪うのが基本となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛も稀であり、夫は妻の、妻は夫の死を画策し、息子も父の死期を探るなどと、現代の油断も隙もない時代が幻視されている。

 

こうした反作用のせいか「すべてはつながっている」「ノンデュアリティ」などと言い立てる人もいるが、「すべてはつながっている」観想や「ノンデュアリティ」観想をすれば、いつかわかることもあるのかもしれないが、孤独で不安でみじめで情けない自分から本当に解放されるのは、それとは全く別の事態かもしれないのだ。

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人の子に枕する所なし

2023-02-06 21:04:49 | 現代冥想の到達点neo

◎絶対的孤独、そして神秘

(2017-08-19)

 

マタイによる福音書8章20節

『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』

 

人の子とはイエスのこと。枕するところ、つまり家を求めるというのは、帰る家がないことを感づいている人に起こる。

 

帰る家がないことは、道元も芭蕉も同じ。

 

道元の遺偈

『五十四年

第一天を照らす

箇の浡跳を打して(浡はさんずいでなく、足偏が正しい文字となっています)

大千を触破す

咦(いい)

渾身に覓(もと)むる無し

活きながらに黄泉に陥つ』

 

これの現代語訳

『五十四年の人生において、

天の最高位を知ることができた。

 

〔いまは、そこからもなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。

 

ああ

 

体全体、置き所に拘ることもない。

生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。』

(道元禅師全集第17巻/春秋社P271から引用)

 

身の置き所とは、枕する家である。

 

さらに芭蕉。

 

此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮

 

此の道にもどこにも行人などいない。絶対的な孤独・・・・・。

 

ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、

『帰る家がないからといって

家を求めてさ迷うには及ばない』と描く。

 

ノンデュアリティに生きるとは、その絶対的な孤独と寄る辺なさを生きることである。イエスであっても、ダンテスであっても、道元であっても、ことさらに、それを語りださねばならぬほど透徹したものなのだろう。

 

ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば

踏み迷ふべき 道もなきかな

一休

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成功ほど失敗するものはない

2023-02-06 20:59:00 | 究極というものの可能性neo

◎非二元、ノンデュアリティだけでは

(2016-03-09)

 

最近覚醒剤で逮捕された野球の○○選手は、かつては金も名声も地位も得た世間的には十全の成功を成し遂げた稀有な人物だった。

 

世間一般では、世俗の栄耀栄華を極めれば万事問題なしだと言われている。しかし真相はそうではない。どんなに成功しても、権力を得ても、家庭のこと、健康のこと、自分の老化は防げないこと、何より自分の孤独であることなどは、解消などするものではない。

 

要するに世俗の面での成功は、本当の幸福とは何の関係もない。人格ですら本当の幸福とは何の関係もない。何より世の中での成功は、意識と何も関係がない。

 

世間で成功した人々は、一般にいわばとんでもなくわがままで負けん気の強い奴らなのだ。そうした人物で人当たりの良いのは、学習効果であり、そうした牙を表に出さないのがうまいだけとも言える。

 

そこで悟ったと言われる人を見れば、人間のあらゆる実感を通過した人間である。覚者も一旦は、世俗での大成功の何たるかを知ったことがあるのだ。そんなわがままで鼻つまみな時期を経過してきたのだ。

 

先入観なくみれば、釈迦が王族に生まれ、道元・親鸞・一休が貴族の係累に生まれたというのも、そうした流れとは無縁ではあるまい。

 

そうした個人の成功への思いの先に、初めて非二元、ノンデュアリティが問題となる。そうした思いが吹っ切れた人だけが、非二元、ノンデュアリティを課題とした冥想に取り組める。またその人の体質、気質、カルマを踏まえた冥想というのがあるので、その意味で正師は、それを呈示し得る師だけが正師となる。

 

非二元とは、ニルヴァーナのことを言っているつもりだろうが、両性具有を経過した先でもある。

 

※両性具有の意味は、男女という極く限定的な意味ではなく、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗というようなあらゆる反対物の一致という意味。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-3

2023-02-06 03:12:37 | ダンテス・ダイジの風光

◎知的理解の冥想

 

冥想道手帳の続き

『〔知的理解の冥想〕

 

どういうわけか、君は、生きる苦しみ、病気の苦しみ・老衰する苦しみ、死ぬ苦しみを持つ人間であると自分のことを思い込んでいる。

 

夢にも見たことのない素適な宇宙に君は、 今いるのに。

今ここで、君の知性を全身全霊の情熱を こめてフル回転させてみればいい。君は、

人間知性の絶対的限界を知る。そして、その絶対的限界の恐怖の中で、君は、君が、もともとなかったことに気づくだろう。その時、君は、夢にも見たことのない素適な宇宙である自分自身になっている。

 

君自身は、愛そのものだ。始めも終りもありはしない。

 

君は死なねばならない。妄想である君が死んだところに素適極まりない宇宙が悟りを開く。もっとも、その時には開かれるような悟りなぞ、どこにもありはしない。

 

君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。

 

冥想修行は、君を次の三つの宇宙を旅せしめる。宇宙が三つもあるものかといって大笑いする不死身の君には、この先を読む必要はあるまい。火星で酒でも飲んでいたらいい。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

人には、必ず生老病死があるものだと信じ、そのとおりに生きていることが多い。だが、全然そんなことはなく、目くるめく素適な宇宙に君は今いる、とショックを与える。

 

人間知性の絶対的限界の典型は、哲学の極みや禅の公案

代表的な公案に次の無字の公案がある。

『弟子が趙州禅師に「犬に仏性がありますか?」と質問をぶつけた。

趙州「無」。』

なぜそういう回答になるのかを何時間も何日も、知性を全身全霊の情熱をこめてフル回転させてみれば、人間知性の絶対的限界を知る。

その絶対的限界の恐怖の中で、自分が、もともとなかったことに気づく。本来の自己という、夢にも見たことのない素適な宇宙にいたことに気づくのだ。

 

それは、第六身体アートマンかもしれないし、人によってはその先の第七身体ニルヴァーナに届くかもしれない。

 

ここで唐突に『君自身は、愛そのものだ。』~『君こそが、愛そのもの、人間そのものとしてあるのだから。』と愛について語っている。

ここまでは、悟っていない人が知性によりどのように悟って行くかを実地に具体的に述べてくれているところであり、とても貴重な語りの部分。

ところが、悟りを開くのは宇宙であって自分ではない。自分が悟りを開くわけではない。(自分が宇宙となるという、体験とは言えない体験。)

 

最近非二元、ノンデュアリティを語る人が多いが、自分が死なない非二元、ノンデュアリティはあり得ない。自分の死を語らない非二元、ノンデュアリティは偽物。※自分の死とは自殺のことではない(念のため)。

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