アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

昭和神聖会ということ-2

2023-02-19 14:58:38 | 時代のおわりneo

◎昭和神聖会で実施したこと

(2006-09-21)

 

昭和神聖会は発足後1年5カ月で第二次大本事件に遭遇した。出口王仁三郎は、昭和神聖会の目的は浮草の如き信者の団結促進を図ることだったと説明しているが、本音はそれだけではなく、「型を出す」という「時代の先行モデルを大衆の潜在意識に植えつける」という操作を意図していたようなところがある。

 

1.昭和神聖会でやったこと

昭和神聖会でやったことは、次のようなものである。

(1)軍人による軍隊式訓練を行い、分列式(閲兵式のことか)までやった。

(2)信者を青年(中年、老年まで含めて)の有事の動員計画を作成していた。

(3)武器は、刀を2~3百振用意してあったが、自分で使うつもりはなく、教団に来訪した軍人に渡すつもりで持っていた。

(4)大本信条は昔出来たままだったので、信条を改正すると共に、大本規約を改正した。

(5)王仁三郎全集を発行した。

(6)映画部を設けて映画宣伝をした。(当時はまだテレビはなかった。)

 

2.昭和神聖会の目指した体制

昭和七年の十月統管(出口王仁三郎)随筆により、目指す体制面でのあり方を表明した。それによると

 

(1)絶対服従は天下統治の大本なり。私意を加へ言論を為す者は、断然除名して神聖会の統制を保つ覚悟を要する

(2)神聖会は、統制上一人の独裁を要する。神聖会員は総て統管の命令に絶対服従すべきである

(3)議会主義は駄目だ、独裁政治に限るのだ。

(4)大事を為すものは光鋭強化せる一団体の威力だ。一千万人の理解ある賛同者を獲得する迄は決して褌を緩めてはならぬ。

として当時本州の人口が6千万しかなかった当時、一千万人の昭和神聖運動への参加を目標に据え、最盛期で百三十何万人もの賛同者を得ていた。

 

3.日本の先行モデル

以上の昭和神聖会の事蹟から今後の日本の行く末を想像すると、次のようなことになろうか。

 

(1) 戦争のために憲法を改正する。

(2) 戦争遂行のために、議会政治をやめ、一党独裁体制を整える。

(3)その独裁の一党に反対する言論の自由を認めない。

(4)その一党のリーダーの命令には絶対服従を旨とする。

(5)その一党と党首の宣伝を出版、テレビ報道などで盛んに行う。

(6)日本は若干の軍備を準備するが、周辺国に対しては、せいぜい自衛のためのものであると言い訳できる程度の少量の軍備しか持っていない。

(7)ところがある日、戦争遂行準備していることを理由に、米国を初めとする世界じゅうの国から、日本という国が元からなかったかのように、根こそぎに攻撃・破壊される

 

4.まとめ

日本の先行モデルで挙げた予想は、今の段階では、まったく夢物語ではあるが、実際に憲法が改正されて、たとえばテロと戦うための自衛戦遂行を名目として、事実上の一党独裁となるような可能性は全くないとは言えないのではないだろうか。一党独裁になれば、何でもできてしまう。

 

しかし『一党独裁→戦争準備』という夢想的な可能性を云々することよりは、その後の日本を襲う悲劇的シナリオを回避することにこのブログの本旨がある。その回避の方法は、反戦運動、平和運動や、政治活動ではなく、一人一人が、宗派の如何は問わず、まず一日数十分の冥想を始めることしかないだろうと考えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和神聖会ということ-1

2023-02-19 14:54:25 | 時代のおわりneo

◎これからの日本のモデル

(2006-09-20)

 

戦前の大超能力者出口王仁三郎は、「第一次大本事件として、大本教に型となって現れたことが、大東亜戦争(第二次世界大戦)となって、そのまま日本に現出した。しかし第二次大本事件が日本に現出するのはこれからである」として、昭和23年世を去った。

 

従ってどのように日本にそれが現出するかを予想するためには、第二次大本事件の特徴を知る必要がある。

 

第二次大本事件(昭和10年12月)は、出口王仁三郎など大本幹部信者の大量逮捕、本部建物の徹底した爆破による破壊、書類の焼却など徹底的にやられ、あたかも歴史の上から大本をなくしてしまおうとする意図の感じられるものであった。

 

そこまで徹底的にやられる主たる原因の一つが、昭和神聖会と呼ばれる信者による似非軍隊組織の構築であったように感じる。治安維持法の嫌疑の中には、出口王仁三郎が自ら天皇になることを狙ったという荒唐無稽のものもあったが、より現実味のある嫌疑としては、昭和神聖会によるクーデターだったのではないだろうか。昭和神聖会という何万人も加入している似非軍隊組織が、出口王仁三郎に対し絶対服従であり、軍隊型の行動訓練を受けているということは、官憲にとって2.26事件や5.15事件などのようなクーデーターの可能性を想像させる材料としては十分だったのではないか。

 

昭和6年に信者有志の輪読会である昭和青年会ができ、折しも満州事変の頃であり、これを出口王仁三郎の命により、組織を軍隊式として、15歳以上の信者全員を会員として、団体運動の訓練をして、王仁三郎の命令に絶対服従すべきものとして、統制がとれるようになることを狙って、公式な昭和青年会として再組織した。

 

後にこれから婦人部を独立させ、昭和坤生会とした。更に昭和9年7月6日昭和青年会を中心に大本を支持する大衆団体である昭和神聖会を発足させた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由な石屋さん、錬金術、キリスト教

2023-02-19 07:36:25 | 無限の見方・無限の可能性

◎イエス出現の成果はキリスト教に限定されない

 

自由な石屋さん、錬金術、キリスト教については、寡聞にして浅学非才ながら次のような印象を持っている。

 

紀元前からグノーシス、ユダヤ教、錬金術というのは、中近東から西に存在していた。これらは、いわゆるアトランティス密教から派生した宗教と見られ、風土や時々の聖者の出現によって、しばしば路線変更が見られた。

 

アトランティス密教についていえば、プラトンがソロンという神官からアトランティスのことを聞いたことで当時のアレクサンドリアの図書館にアトランティス密教の精華が残っていたらしいことが想像される。

 

紀元前5世紀頃、ソクラテスは只管打坐型の悟りを実現し、プラトンは、クンダリーニ・ヨーガ型の悟りを実現したことがプラトンの著作でわかる。学者さんが哲学だと言っているから哲学だと思っている人が多いが、彼らは古代ギリシアの冥想修行者である。つまり二人で、顕教系と密教系の悟りを継承していたのだ。

 

イエス・キリストは、ユダヤ教の中から出てきたが、悟りである以上宗派の垣根を越えて他宗派も注目し、誕生時には馬小屋に三人の博士(マギ)も集まったほど。

 

ダンテス・ダイジは、イエスはユダヤ教エッセネ派の中から出て来たと見ていたが、イエスは、超能力を使いまくり、クンダリーニ・ヨーガ系であるユダヤ教の継承者として存命中は活動したことがわかる。

だが当時、グノーシスも8天球という形で正当な悟り(ニルヴァーナ)を見ており、錬金術もユダヤ教と一体となった形でユダヤ教の中にあったのだろうと思われる。

 

最初の錬金術師としてゾシモスやマリア・プロフェティサが出たのが3世紀。マリア・プロフェティサは、ユダヤ人でありユダヤ教から出たと考えるのが自然だろう。心理学者ユングは、ゾシモスの文書を冥想法に関するものと見ており、マリア・プロフェティサの片言『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』も冥想に関するものなのだろうと思う。

 

なおマリア・プロフェティサは物理的な錬金術の器具を発明したとされるが、中国でも漢代において物理的な錬金術である外丹は既に行われていたので、錬金術が中近東オリジナルと見ることはできない。

 

おそらく、グノーシスとユダヤ教の密教的(クンダリーニ・ヨーガ的)な部分が混交して錬金術という形になったのではないか。

 

4世紀にキリスト教がローマ帝国で公認された一方で、ユダヤ教とグノーシスの密教的部分は次第に衰退し、イスラム教の中に取り込まれる形で、15世紀までの長い胚胎の時期を過ごした。15世紀以降にユダヤ人が欧州各地に散って行く中で、その密教的部分に触発された運動が17世紀の薔薇十字の運動。それは自由な石屋さんの流れになっていくのだが、なぜかユダヤ教と違うシンボリズムを用いている。

 

勿論欧州域内では、ホイジンガの中世の秋に見るように、信仰としては安定的だったキリスト教の背後で密教的な物も時々ガス抜きをしつつ醸成されてきたところも無視できない。

 

薔薇は真理の象徴であり、石もまた真理の象徴であり、自由な石屋さんが薔薇のシンボルを用いるのは、真理たるニルヴァーナを標榜するまともな宗教なのだろう。

 

自由な石屋さんというのは、キリスト教神秘主義だの、西洋錬金術だの、新プラトン主義の流れを汲むものだと言われる。だが、17世紀頃さるドイツかなんかの覚者が、21世紀の至福千年実現に向けて、それら密教的なものを再編成して自由な石屋さんというものとして始めたのではあるまいか。

 

一方で顕教的なキリスト教は、観想法あるいは只管打坐的な瞑想法を中心に今までどおりがんばっているわけだ。

 

出口王仁三郎は、基本は猶太批判を行わず、昭和神聖会の時代と第二次大本教事件前夜のみにおいて批判。ダンテス・ダイジも、自由な石屋さん側にもちゃんと悟った人間がいると見ている。

 

ところで昨今のマスコミ、スマホによるマインド・コントロールは猛烈であって、特に最近はほとんどの人に関係のない無用の情報を洪水のように流し込んだり、画面をぽちぽちさせることで、まともな思考をさせまいというタイプに変化している。こうした中で正気を保つのは大変だ。

 

一方で歴史学者トインビーの唱えるように文明の根幹は、宗教であって、宗教が衰退すればその文明は滅亡する。近代西欧文明とは、キリスト教をバックボーンとする宗教であって、キリスト教が衰退滅亡すれば、近代西欧文明は終わる。

 

また自由な石屋さんのたくらみは、特に最近においてどんどん露見していっているのだろう。そのたくらみ群は陰謀論とひとくくりにされて論じられることも多い。

 

そして古来からのキリスト教滅亡予言やら、さる勢力の世界統一予言などもある。

だが、そうしたものについては、出口王仁三郎の『○○は大悪に見せて大善をやる』という喝破を忘れるべきではないと思う。

 

全体として見れば、イエス出現なくしては、自由な石屋さんもなかったのだろうと思う。

フリーメイソン螺鈿箱

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする