アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

幽霊とはなにか

2023-02-08 21:30:56 | 超能力・霊能力neo

◎砕霊と幽霊考

(2012-10-16)

 

最近、生きながら幽霊みたいな雰囲気の人を見かけるが、ダライラマの「幽霊とはなにか」。

 

『Q:死が意識の究極のありようならば、幽霊とは何なのでしょう。法王は幽霊に遭遇したことはありますか。

 

A:子供の頃、幽霊がひどく怖かったものです。

仏教では苦楽の大小によって六種類の転生を、地獄、餓鬼、畜生、人、阿修羅、天の六つの境地への転生を説きます。またそこに生きる生きものの心身の微細さ、粗大さによって、欲界、色界、無色界(※)の三つの世界にも分けます。

幽霊はこの三つの世界のいずれにも存在し得ます。そのあるものは悪しき存在であり、あるものはよき存在です。

あるものは残酷で、あるものは親切です。

 

※欲界:欲望のある物質的世界.私たちの住む世界も含めて六道輪廻の世界すべてが欲界である。

色界:欲望は断じたが、いまだ肉体が存在している世界。

無色界:肉体はもたず、精神的要素のみからなる世界。』

(ダライラマ日々の瞑想/ダライラマ/講談社P182から引用)

 

砕霊となった霊は、幽霊になるのだろうか。砕霊となった人の自意識はどうなるのだろうか。人の死後のありようということを考えると、疑問はどうしても自意識と霊あるいは、自意識とアストラル体の部分に行きつくのだが、本山博氏もそこは語っていないし、出口王仁三郎も語っていない。

 

輪廻転生の主体と思われるアストラル体が粉々になったら、輪廻転生の原因たるカルマのエネルギーはどう消化されるのだろうか。輪廻転生のサイクルから抜ける解脱ということが砕霊で実現したということではあるまい。

 

死後あるいは、死に至るプロセスをエリザベス・キュブラーロスらが研究したが、現代人はその自意識と輪廻転生(リンカネーション)が一対一で対応しないで、死後が展開するだろうってところまで、研究が深まらないと、生から死、死から生への連続あるいは不連続について知的に納得することはないのではないかと思った。

 

ただその仕組みの解明が、この地獄的な人間社会の改善に役に立つかといえばそうとはいえないとも思う。

 

この幽霊の定義を見ると、宇宙人の定義と似ているように思う。

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先祖供養の実相

2023-02-08 21:21:57 | 道教neo

◎救霊の至難事

(2012-10-09)

 

釈迦前生譚には、釈迦自身が前世で鹿であったり、猿であったり、およそ昨今の四民平等な人間感覚からは遠いことが延々と述べられている。人間は死ぬと人間に生まれ変わる保証はないのだと。自分の都合だけ考えて地獄的に生きれば地獄で苦しむし、若い身そらで日がなエロばかり考えれば、エロに対応した動物となって転生するだろう。

 

チベット密教のチベット死者の書では、人は死ぬと中有に入り、後に転生のための子宮を自ら選びとるシーンが克明に描かれているが、それが人間の子宮に限るなんてギャランティーは出していない。秋の夜寒に鳴くこおろぎかもしれず、波間の岩に密集するフナムシとして転生することすらあるのだ。

 

霊能力などない人が先祖供養とか、天国とか地獄を考える際に、この70億人の人間は、死んだら人間に転生するのだろうかということである。

 

よく前世記憶の話が出るが不思議に人間の転生ばかり語るものであって、地獄だったり、天人だったり、虫だったり、犬だったり、猪だった転生のことは語られないものである。そうした前世記憶って信用できるものなのだろうか。要するに人間の転生を何回も繰り返す前世記憶って、世界人口が70億に膨らんだ現在の魂の過去と行く末を考えてみても極めてレアケースであって一般的なものではないのではないかと思うのである。

 

この辺に詳しい道者笹目秀和が「救霊の至難事」という一節で語っているのだが、水に溺れ火に焼かれて死する者は、死後完全に精霊をもって霊界に移り住むことはできないと説明している。なんと砕霊といって、アストラル体かなんかなんだろうがそれがばらばらにされて一片は蚊となり一片は蠅・虻・蜂、一片は砂虫か蟹のようなものになるという。

 

彼も言うのだが、このように虻蜂のようになってしまった者に対して百万遍の読経を試みても何の功徳なしという。他宗派では、砕霊を再生する手法はないが、道教では、砕霊を集めて元の一個の精霊に再生する手法があるというが、なまなかにできる供養ではない。

 

しかし本気で先祖供養するとすれば、そこまでやるのが徹底した供養というものだろうと思う。昨今の新興宗教の先祖供養でそんなことまでやっているのはないのではないか。

 

砕霊というのは、生きる者の日常感覚からすればとても残酷なものだが、笹目秀和氏は、冷たいようだが、これは天の法則を語ったに過ぎないとする。

 

まずは日々の積善と冥想を。

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輪廻転生についてのOSHOの説明-2

2023-02-08 19:03:39 | 現代冥想の到達点neo

◎マーヤなる記憶の解体と再構成

(2013-07-06)

 

更にOSHOバグワンの説明は続く。

 

『たいていの人は思いださない。ひとりの人間の記憶システムを、まるごと引き継ぐ人は少ないからだ。あちこちのものを、断片的に引き継ぐ人は多い。そうした断片の集まりが、あなたの「みじめさのシステム』を形成している。この地球上で死んだあらゆる人たちは、みじめさのなかで死んだ。

 

ほんのわずかな人たちだけが、よろこびのなかで死んだ。ほんのわずかの人たちだけが、無心(ノーマインド)を領解して死んだ。

 

そういう人たちは足跡を残さない。記憶という重荷を他人に背負わせることはない。そういう人たちはただ、宇宙のなかに散っていく。そういう人たちには、マインドがない。記憶システムがない。すでに、瞑想のなかでそれを溶かしつくしている。光明を得た人がけっして再誕しないのはそのためだ。

 

ところが、光明を得ていない人たちは、死ぬたびに、みじめさのあらゆるパターンを放出する。富が富を呼ぶように、みじめさはみじめさを呼ぶ。あなたがみじめにしているなら、何マイルも向こうのみじめさがあなたに引き寄せられてくる。あなたはうってつけの媒体だというわけだ。

 

これはラジオの電波のように、目でとらえるのはとてもむずかしい現象だ。ラジオの電波はあなたの周囲をとりまいているのだが、あなたにはそれが聞こえない。受信のための適切な装置があれば、すぐにもそれが聞こえるのだが。ラジオがなくとも、電波はあなたのまわりを飛び回っている。

 

輪廻というものはない。それでもみじめさは輪廻する。無数の人々の痛みがあなたの周囲を飛び回っていて、みじめになりたがっている人を捜している。至福にあふれる人は、足跡を残さない。目覚めた人は、空に飛び立つ鳥のように死んでゆく。なんの痕跡も道筋も残さない。空は空っぽのままだ。

 

至福はなんの痕跡も残さずに動いてゆく。あなたがたが覚者たちの遺産を相続することがないのはそのためだ。彼らはただ消えてゆく。ところが、ありとあらゆる馬鹿で愚鈍な人たちは、記憶の輪廻をくりかえし、それは日々に濃厚になってゆく」

 

「あなた自身の欲望と願望に対して、とても意識的になりなさい。それらはあなたの知らないうちに、すでに、あなたのとるであろう新しい形態の種を作りつつあるのだから」

 

『The Zen manifesto』』(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP424-425から引用)

 

マンツーマンあるいはワン・パーソン トゥ ワン・パーソンの輪廻転生を否定して、なおかつ輪廻転生の真実のメカニズムに、これほどまで踏み込んで来た説明は、有史以来なかったのではないか。

 

この説明で語られる記憶とは、思い出とか思いという淡い泡沫のような心理上の一欠片のことではなく、日々積み重ねてきた善行悪行の集積であるところのカルマのことである。

 

一人の人間の記憶システムを別の一人の人間が丸ごと引き継ぐことが稀であるとは、マンツーマンでの輪廻転生は僅少ということである。

 

チベット死者の書を見ると、あたかもある一人のカルマが別の肉体に乗り移り転生していくような印象を受けるものだ。しかしOSHOバグワンは、それは誤解であって、そんな形式での転生はレアものだとする。

 

われわれのみじめさのシステムのことを無明=マーヤと呼ぶ。マーヤが、一人の死者から多くのマーヤなる生きる人々に伝播し、マーヤを部分的に受け継いだ人は、亡くなるに際してそのマーヤをバラバラに放出し、マーヤが乗り移りやすいメディアとしての複数の人物にひきとってもらう。

 

これが輪廻転生の実相なのだ。OSHOバグワンは記憶の輪廻と呼んでいるが、そこで言う記憶とは、心理現象としての記憶のことではなく、現象を生成していくカルマとしての動因、モチベーションのことである。

 

西洋では、古くから記憶術という言葉で表された、観想でもって現実を構成していく技術が知られていた。

 

地球の人口は70億に達したが、かつては全世界で2億人くらいの時代もあったらしい。さすれば、差し引き68億の人間の魂はどこから来たのだろうか。あの世での転生インターバルを数千年間隔の超長期にすれば辻褄はあうが、長すぎやしないか。

 

つまりマンツーマン輪廻転生を認める立場からすれば、大半の現代人の直前の転生が、数千年前の新石器時代であるというシナリオは、過去世記憶を論じる立場からすると、その魂の文明社会での生活経験がないためにその転生体験は面白味を欠くだろうってこと。

 

それでは先祖供養って何、家族って何、生誕する子宮を選んで転生してくるところの自分って何、などと無数の疑問が出て来るのも仕方のないことだ。

 

しかしOSHOバグワンの話の力点は、あくまで覚醒の方にある。

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輪廻転生についてのOSHOの説明-1

2023-02-08 18:57:25 | 現代冥想の到達点neo

◎あなたは誰かの記憶・カルマを引き継いだ

(2013-07-05)

 

日本人は、お盆の送り火などで、人は一人で輪廻転生するものだと思い込んでおり、それが社会通念にまでなっている。ところが、実際には、それとは、やや事情が異なる。砕霊なんかを視野に入れると、人間とカルマと記憶についてまったく異なる説明が必要であることに気がつかされるものだからだ。

 

以下のOSHOバグワンの説明が、輪廻転生についての決定版の説明であるように思う。

 

つまり、あなたは大方複数の誰かの記憶・カルマを引き継いで、この世に生まれてきたということ。

 

奇しくも彼がこの説明を行ったのは、彼自身の死の前夜であって、そういうポジションに語り手が居て初めて出てきた説明なのだと思う。これは側近のシュンニョの質問にOSHOバグワンが答える形の話で出された。

 

『私の質問は輪廻についてではなかったのですが、和尚は次のように答えました。

 

「東洋の全宗教に見られる輪廻という考えは、『自己』は、ひとつの肉体からつぎの肉体へ、ひとつの生からつぎの生へと存続するというものだ。

 

こうした考えは、ユダヤ教を源泉とするどの宗教にも見られない。たとえば、キリスト教やイスラム教には見られない。

 

現在では、精神科医でさえ、人が過去生を思いだすというのはほんとうにありうることだと認めるようになっている。輪廻という考えは、その信憑性を高めつつある。

 

だが、私はあなたがたに言っておきたい。輪廻という考えはまるごと誤解にもとづいている。人が死ぬとき、その人の存在は『全体』の一部になるというのはほんとうだ。その人が罪人だったか聖者だったかは問題ではない。

 

しかし人にはマインドと呼ばれるものもある。つまり記憶だ。過去においては、記憶を思考の束ないしは思考の波として解釈するに足るだけの情報がそろっていなかった。だが、それはいまではもっと簡単だ。

 

そしてこの問題に関して、私には、ゴータマ・ブッダが多くの点で、彼の時代にはるかに先んじていたことがわかる。彼は私の解釈に同意するだろう唯一の人間だ。

 

彼は暗示的なことは言ったが、いかなる証拠も提示できなかった。口で言えることはなにもなかったのだ。

 

彼は言った―――人が死ぬと、その人の記憶が新しい子宮へと向かう。その人の自己ではない。現在の私たちにはそれが理解できる。

 

死ぬときに、あなたはまわりじゅうに記憶を放出するということだ。あなたがみじめな生を送ってきたのだったら、あなたのすべてのみじめさは、それにふさわしい場所、だれかの記憶システムに入るだろう。

それらがすべて単一の子宮に入るかもしれない。

 

人が過去生を思いだすというのは、そうしたことがあるからだ。それはあなたの過去ではない。あなたが引き継いだ、だれかのマインドだ。』

(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP423-424から引用)

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-5

2023-02-08 03:33:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎現象界即神界の遊戯三昧

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[霊界]

 

ここには、どのような制約もなく、それぞれの仮現したルールにしたがって霊的イメージという現象宇宙の原型を作り出している。

ここには、天使も悪魔も、天国も地獄もある。

 

現象界のすべては、霊界の中にあるイデアが表現されたものであり、ここには、すべての現象宇宙の出来事が貯蔵されている。

心理的に言えば、集合的無意識に相当する。一切の超自然的現象や超能力が発現する場所である。

 

カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。

 

分断された自我意識を形成する原動力になっている霊的境域を地獄と言い、宇宙的愛そのものなる神界からのヴァイヴレーションによって成り立っている霊的境域が天国と呼ばれる。

 

冥想は、冥想者を、最終的には神界の住人にせしめる。神のみが実在だからだ。

 

そして自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現することとなる。

般若心経の色即是空、空即是色ということである。「空」とは神界のことであって、 断じて空々寂の空ではない。

 

「空」あるいは「絶対無」とは、これを情的に表現すれば、「愛」そのもの、「自由」そのものにほかならない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

ここは、結構思い切ったことが書いてある。霊界とは現実を構成していく元となる原型イデアだとか、空とは空々寂の空ではなく、ニルヴァーナの属性の一つである愛あるいは自由である、など。

 

霊界には、天使も悪魔も地獄も天国もあって、やがて現実に実現していく元のイデアの世界が霊界。プラトンのイデアとは、永遠不壊というイメージだが、その点には言及していない。永遠不壊は、七つの身体で言えば、第六身体アートマンだが、宇宙、世界、過去現在未来のすべてを含むアートマンにイデア界ありと見れば矛盾はないか?

ただし個別霊の世界は、コーザル体、メンタル体、アストラル体、エーテル体であり、ダンテス・ダイジの言うところの霊界とは、第六身体アートマン以下を総称しているようにも思う。

 

『カルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界であり、人間の本質的個別性が死んでから帰る世界でもある。』ここは、人間Aが輪廻転生すれば、人間Aとして再誕するのでなく、人間A`として再誕するという彼の見方において、人間の本質的個別性を仮に人間Aと見ているのだろうと思う。また人間の本質的個別性が帰って行く世界はチベット死者の書などによれば、神(原初の光)である。

 

さらにカルマ・輪廻転生・先祖霊・守護霊が作用する世界とは、コーザル体以下なのだろうが、そうであれば、それらに永遠不壊の属性はなく、この点でダンテス・ダイジはどういうつもりで霊界を定義したのかわからないところがある。

 

分断された自我意識はどこから来るかと言えば、えり好み、多様な価値観から来るものであるし、見ている自分が最後まで残るところから来るとも言える。事程左様に、地獄的でなく天国を志向するというのは、現代人の生活と意識からすると簡単なことではない。

 

一方宇宙的愛を実現しようとすれば、天国と地獄の結婚を経て大悟せねばならない。天国を生きるハードルは結構高い。

そして天国と地獄の結婚を経れば、最終的には人は神界の住人として生きる(諸悪莫作衆善奉行)。

 

『自己の神性を自覚した人間は、霊界の中に神的な霊的原型を形成し、それが、現象界即神界の遊戯三昧を実現する』とは、類似のことを言っている人が他になく、確かめるすべがない。ただ、人は悟りを開いて、悟りに生きるということを言っているようだぐらいのことしかわからない。

 

そして、現象界即神界の遊戯三昧とは、色即是空、空即是色と言ってのけているが、これは自分が悟って追体験せねばその感じはわからないのだろう。

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