◎それは見たにとどまった
自己喪失のプロセスを徐々に進んだバーナデット・ロバーツは、「一なること」をただ見ることしかできない状況に4か月間陥った。
それに至るまでの経緯は以下。
1.万物の個別性の消失と「一なること」を見た。見ることが、立体鏡をのぞいたように頭の少し前の方にあるように感じた。(最初の一年間)
2.外にあるすべてのものの脱落。これにより、「一なること」も個々のものを見る立体鏡もなくなった。「見ること」は盲目になり、内にも外にも何もない虚無という状況で生きることになった。
これは、心を何かに向けることができず何もわからない状況となったが、ここに容赦のない「見なければならない」という圧力があった。が、見れるのは虚無だけ。
この状況を彼女は「窮極への通路」と呼んだ。
3.「窮極への通路」は、本能的な危険を感じつつ、生と死と、あるいは正気と狂気とを分かつ狭い断崖をたどっていて、無自己の確固不動の静寂だけが頼りだった由。なお彼女は、その静寂は神ではないとしている。
「窮極への通路」は4か月間続き、彼女はその間虚無を「見ること」しかできなかったが、正常に戻ることで、元に戻った。
彼女は、当たり前の状態に戻ったが、禅の十牛図でいえば、見る自分を持ったままならば、それは、一円相の第八図には届いていない。虚無だけになったと言う状態は、第七図忘牛存人か。
原始仏教では、冥想段階を10段階でとらえるが、なにもかもなしは、7番目の不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に当たるか。
何より「見る自分」「見ている自分」を放棄して飛び込めなかったのではないかという疑いが残る。
「見なければならない」という圧力は、自分に直面せよということだろうが、彼女にとってすでに自分(自己)はないという認識だったから、ここは見るべきものはなにもなかったという隘路にはまったのだろうか。
しかしながら、全体としてみれば、少々しみじみとしてはいるが、ぶち抜けた感動と感謝が薄いような印象を受けるのだ。
最終的に微笑の三態、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものを見たが、それは見たにとどまったのではないか。
つまり見神にとどまって、神人合一に至る準備は彼女にはまだなかったのではないかと思う。