アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-5

2023-02-12 16:54:52 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-2

(2006-08-30)

 

バーナデット・ロバーツは、自己の中心が消え、そこに残った空虚と沈黙と歓喜こそ神自身に違いないと踏んで、その内部を見つめていた。

 

『ある時このように喜びを求めて内部を見つめたところ、突如この空虚が急速に拡がり始め、今にも爆発しそうになりました。

 

そのとき私はエレベーターで100階も落ち続けるような気分を胸元に感じ、生きている感覚がなくなってしまいました。落下し尽くして底に着いたときに、はっきりと分かったのは、人格的な自己がない時は、人格的な神もなく、この二つは互いに相伴うものだということでした。その二つがどこに行ってしまったのかは、ついにわかりませんでした。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P20から引用)

 

これ以後、彼女からは、「生きている」という感覚が失われ、内部がないということを知ったので、内的生活は終りになった。夕食の支度をしても動作がひどく機械的でロボットになったようであり、自分で自分が何かをしているという感じがなく、すべて条件反射で動いていた。

 

「生きている」という感覚が失われる状態は、神との合一の前段階として、しばしば現れるものであるが、生の感覚を確認するために自傷・リストカットする人もいて、それが単に精神病の一症状に過ぎないケースもあることはいうまでもない。

 

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求めることになった。

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天国と地獄

2023-02-12 16:41:55 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎ダンテス・ダイジの初期の説法から

(2014-09-11)

 

ダンテス・ダイジの説くところは、彼の説法の初期においては悟りと無関係な、「その人らしく生きる、その人の天命を生きる」(ライフ・スタイルの悟り)といったものでも良しとしていた。これが、末期になると、悟りと無関係な、いわば能天気な生き方で良しとする方向性はなりを潜め、悟りはどんな人間にでも必須のプリンシプルであるということが通底していた。

 

それでも初期の説法の中にも時間を越えた見解が随処に散りばめられている。

 

慈悲、安心、感謝、そういうものは、天国的なものである。それ自体崇高、純粋な境地の属性であり、求めるべきあり方である。ところが天国がある以上は地獄がある。完璧に天国的なものに到達しようとする直前になぜだか、釈迦のケースでもイエス・キリストのケースでも悪魔が登場する。

 

これは天国だけの悟り。

 

別の場所で、悪魔・サタンを越えた悟りは、高みを極めた悟りだが、深さにおいて欠けるところがある。深さとは、天国と地獄を包含した悟り。それを「自由の悟り」という。人には天国の悟りが通用しないシチュエイションの人がいて、例えば最愛の人、子供や愛人配偶者と死別したような人。そうした完全な闇にある人がその状態をクリアした場合に天国と地獄を越えた悟りとなる。禅の悟りがそれ。

 

ちまたでは、この天国の悟りと「天国と地獄を越えた悟り」の区別を知的理解している人も多くはないが、基本である。

 

『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

 

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。

 

で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』

(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

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転落 ホームレス100人の証言

2023-02-12 16:34:34 | 時代のおわりneo

◎旦那衆の道楽

(2010-06-13)

 

「転落 ホームレス100人の証言/神戸幸夫/アストラ社」の登場人物は、大方が気がやさしい、人と争わない、おとなしい、人づきあいが下手というのは、ほぼ共通しているのではないか。逆にいい加減、または不器用・バカ正直というのは、正反対の傾向であり,これは特徴としては挙げられない。一人だけ一千万円持って世界放浪の20年の人がいたがこれは自分捜しの結果ホームレスになったのだろう。

以上はいわばキャラクターとそれに根ざすライフスタイルによってホームレスとなった人たちだと思う。

 

もう一つのホームレスになる人の類型は、ギャンブル、サラ金から多重債務、アル中、病気、身体障害、土建のリストラで食べていけなくなった人。こうしたホームレスについては、性格の心やさしさは、あまり関係ない。所得が下がって住居も、場合によっては家族も失ったのである。

 

働けない人の他は日雇いでやっている人が多いが、「50歳を超えた時から仕事が減ってきて、55歳からパタリとなくなった」のでホームレスになったという話がちらほらと出ている。1960年代に中学を卒業した中卒の人が目立つ。これはいま55歳以上の人たちのことだが、更に不況が深まればそれはだんだん高卒、大卒に移行していくのだろう。本書の登場人物中49人が学歴が高校中退以下である。

 

その徴候はこれ。『もうひとつの統計を紹介しよう、09年に厚生労働省が、いわゆるネットカフェ(東京及び大阪)で暮らす非正規社員から聞き取りした学歴調査である。中学卒17.1%、高校中退21.9%、高校卒48.6%だったという。高校全入時代といわれる時代にあって中学卒の異常な高率ぶりと、三者だけで87.7%を占めてしまう結果だ。これは高校卒以下の学歴では安定した収入を得ることが困難になっており、非正規労働者の大半がこの層で構成されていることを意味しているといえよう。』

(転落 ホームレス100人の証言/神戸幸夫/アストラ社P83-84から引用)

 

将来性のある職業の代表格が公務員である今の日本は、国として下り坂だし、国として手仕舞に入っていると言える。

 

メディテーションというのは、食べていけなくては続けることはできない。居宅がなくて、山野や洞窟で坐るにしても食べ物は要る。どんな人にも、「ほんとうに生きる」ことで幸福を実感する道筋はあるはず。それがメディテーションなのだが、歴史的に旦那衆の道楽という位置づけだったことから、ホームレスになってから坐るのはなかなかむずかしいことだし、またそういう人がますます増えるようでは(増えつつあるが)、悟った人が続々と出現してくるなどというのは夢物語に過ぎない。

 

そんなわけで、日本社会の行く末についての切迫感をひしひしと感じさせる書でありました。

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暗夜から光へ-4

2023-02-12 06:49:48 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-1

(2006-08-29)

 

カトリックの冥想の進行は、例の冥想十字マップでいえば、垂直方向ではなく、水平方向に進む。十字架の聖ヨハネの第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的な段階のことであるが、ヨハネは詳述してはくれなかった。

 

ここに第三夜の一つの例と思われる世界を見つけた。それは、バーナデット・ロバーツというカリフォルニアの中年女性が入った世界である。

 

『私が住んでいたところの近くの海のそばに修道院があり、わたじは午後暇があれば、よくそこの静かな聖堂で過ごしました。事の起こった日の午後もそこにいて、いつものように深い静寂に引き込まれ、それを破る恐怖の来るのを待ちましたが、それがなかなか来ないのです。

 

恐怖の期待か潜在的な恐怖によるのかわかりませんが、私はしばらくのあいだ不安定な状況に置かれ、自己と「不可知のもの」の間にある断崖に渡された一本の綱の上に立っているようでした。今度は向こう側に行ってしまうのか、それとも恐怖が起こっていつものように戻れるのか、それは自分で決定することができません。

 

身動きできないまま、内ではすべてが静まり停止しています。そのうちいつのまにか緊張が消え、それでも何か変化が起こるのを待っていましたが、それも起こらないまま深い沈黙の中に留まっていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P15-16から引用)

 

その後の三日間は、深い沈黙の中に呑み込まれまいとする意識的努力を繰り返しながら家事をするが、疲れ切って座り込んでしまい、その途端に意識を失い、夢も見ず、周りを意識しないのが数時間も続いた。

 

9日くらいたって、段々普通の生活ができるようになって来たが、何かが欠けているという感じがあってそれを特定することはできなかった。

 

この感じは最初は記憶が失われたと感じ、後に「不可知」なるもの、つまり神に引き込まれたと解釈していたが、それでも納得できず、図書館へ行き、この体験を説明してくれていると予想した十字架の聖ヨハネの本を読みあさったが、この神秘体験について書いてはいなかった。

 

つまりこの神秘体験は、十字架の聖ヨハネの暗夜の第三夜以降のものと考えられるのである。第三夜特有の受動性もある。

 

バーナデット・ロバーツは、図書館の帰途、自分の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽであることを知った。

その瞬間、静かな喜びがあふれてきて、なくなったものは自分の自己であることが分かった。

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ノンデュアリティ、自分がない

2023-02-12 06:33:16 | 人と神の「実際のところ」

◎自分はなくなったものの神も見つからないという状況

 

最近のスピリチュアル系サイトでは、ノンデュアリティを語るものが多いが、その目標あるいは目指すべき境地として自分がないとか、自分がなくなるなど、ストレートに概念を持ち出すことが多いようだ。その結果、読者や修行者は冥想修行の方向性に迷うことが多いのではないだろうか。

 

自分がないということは単純に自分がなくなるということではない。自分が死んで、想像もできなかった有り様で、神なる自分あるいは仏なる自分として復活していくわけだが、そうした例として、このサイトでは、OSHOバグワンの覚醒事例や七日で悟る長沙和尚瓊禅師などの例を挙げている。OSHOバグワンも久しく自分が死んでいる状態にあった。長沙和尚は、長期間かけはしなかったが、どうしても悟れなかったので、海に身を投げて命を断とうと思い詰め自分が死んで再生した。瓊禅師は、一坐一坐、日々に微妙な境地を体得することができたと、坐れば坐るほど境地が徐々に進むことをも示す。

 

どう自分がなくなって覚醒するかについては、

禅語録はその事例の宝庫であって、頓悟要門や禅関策進はその代表的な例である。ただ修行途中でどう思ったかなどはあまり細かく書いてはいないことが多い。

 

カトリックでもアビラのテレサや十字架のヨハネの書物は闇から光への進捗を測る上で貴重なものである。

かつてキリスト教系だがバーナデット・ロバ-ツという女性が、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に陥って、四人の子がいたが日常生活ができなくなって、一人で山に籠って長期間生活して、神らしきものに結局出会うことができたという記録もある。

 

これは、彼女のその時々の暗夜や自分もないが神もないという中途半端で危険な状態などの心理状況について詳しく述べられており、貴重なものだと思う。

 

ただし、悟りは悟りかもしれないが、いわゆる大歓喜のようなものが見られないようなところはどうなのかと思うところがある。彼女もエクスタシーとは書いてはいる。それは起きることは起きたが、それをどの程度受け入れられるキャパが彼女にあったかという問題なのかもしれない。

 

自分が準備ができているかどうかという点とそれが起きるあるいはそれと出会うタイミングは、必ずしも合致しないということだろう。

 

参考:自己喪失の体験/バーナデット・ロバ-ツ/紀伊国屋書店

神はいずこに/バーナデット・ロバ-ツ/日本教文社

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