アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人間の善悪

2023-02-20 12:24:40 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎自由から善へ

(2014-05-05)

人間の本性は善だと信じ込んでいたが、そうでもないということを知るに至った。

 

人間は、善悪のバランスの中で成長していくことで、本当の自由な意志を得て、悪を去り善を植えることができるようになるというのだ。この立ち位置のことを天の浮橋と呼ぶのだろう。

 

教派神道の教祖である出口王仁三郎によると、

 

1.人の精霊(アストラル体やメンタル体のことか)は、善悪両方の要素を含んでいる。出生後子供の時分までは、人は概ね悪の要素の方が旺盛であり、長ずるに従って善の要素が強くなるものである。

 

2.人の精霊には、別途2種の精霊(アストラル体以上の存在のことを言っているようだ)が同伴しており、一体は、天国と交流している善玉精霊(正守護神)であり、もう一体は、地獄と交流している悪玉精霊(副守護神)である。

 

3.ところがこの正守護神、副守護神も、自分のついている人間が自分とは別のものであるという認識がなぜかなく、人間が自分のものであると信じ込んでいるがために、一生懸命その人間を守護するという。

 

4.特に出生してからは、人間は直ちに悪の裡(うち)に落ちるため、その後の幼少期は、この両守護神がいなければ、肉体を維持していくことができない。(体主霊従でないと肉体も成長しないということか)

 

5.また長じては、善玉守護神がいなければ、悪を脱して善に覆(かえ)ることができない。

 

6.人間はこの両者の徳によって、天国と地獄の圧力を受けながらそのバランスを保持できることで、真の意志の自由を得ることができる。

 

(参考:出口王仁三郎全集二巻/あいぜん出版)

 

正守護神と副守護神は、どちらも人間のサポーターであり、アストラル以上の微細身の次元に分類されると思われる。より肉体物質に近いほうが地獄的であるから副守護神とし、想念主体とは天国的だから正守護神とする説明のように思われる。だからといって単純に副守護神がアストラル体次元のサポーターであり、正守護神がメンタル体次元のサポーターであるという説明ではないように思う。

 

人間にとってこの両者は更に密接な隣人というべきものであるような感じだが、なぜだかそのからくりをきちんと明かした説明は見かけない。

いずれにしてもこの天国と地獄のバランスにおける自由、天の浮橋をもって初めて善に進むことができるのだ。

 

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ソクラテスの死生観-2

2023-02-20 12:20:49 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎12片の皮を縫い合わせたボール

(2012-11-23)

 

パイドンの続き。

 

まず、魂は不死にして不滅でハデス=死の世界においても存在を続ける。基本線はこうだが、ハデスでは地獄に落ちて輪廻転生サイクルに戻ってこない者がいるのも認めているので、事実上砕霊のようなものがあるのも認めているようにも読める。

 

パイドンは、ソクラテスの死の直前の説教なのだが、人間の魂は死の世界にあっても永劫不滅なのだから、積善陰徳が肝心ということで、その場の聴衆に合わせた話を開陳しているように思う。いわゆる高弟向けの秘儀ではない。

 

ソクラテスは、その話の延長として、我々の世界の上方にある世界としての真の大地=地球ロゴスを描写する。霊界上層の大地ということなのだと思うが、真の大地を上方から見れば12片の皮を縫い合わせたボールのようだという。サッカーボールは切頂20面体だが、正12面体なら正五角形12枚である。ここで五行、五大が発想され、物質の原理として登場するのだろう。

 

この大地に特徴的なのは、その美しさである。あらゆるものがこの世のものならぬ美しさで、大地全体が鮮明で純粋な色彩を持ち、目を見張るばかりな紺碧、黄金色、雪よりも白い白亜など、様々な色であり、その上にある花々、果実も華やかな色彩を持つ。そして石ころは皆宝石である。紅玉、緑玉、碧玉などの宝石でない石はなく、金銀なども地をおおっている。

 

そして大地の上には穴もあり、穴のひとつには地獄タルタロスもある。

 

法華経の見宝塔品にも、釈迦が、清浄な世界を見せてくれたら、そこは地面が瑠璃で、木が宝石で、黄金の縄で道を区切っていたなどと、ゴージャス霊界の描写があるが、それと同様である。

 

なぜこんな贅沢セレブの国訪問みたいな話を聞かされなければならないのか、それは単なる夢物語ではないのか、と大悟する前の日蓮みたいな感想を持たれる人もいるのではないか。

 

この話の基本は上層部霊界の話であって、ソクラテスは、霊魂は不滅だから因縁を浄化するために善行を行い悪事を行わないようにすべきだという、カルマ・ヨーガ推進のネタの一つとして使っている。

 

ソクラテスもこのゴージャス世界の住人の寿命は長いが永遠ではないとしているので、明らかにこれは霊界のことであって、第六身体の不壊の世界のことではない。

 

つまり、ソクラテスの美麗霊界の描写は、覚醒や大悟そのものが万人の問題となっている現代に比べれば、のんびりした時代だった聴衆向けの説法だったように思えるのである。

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ソクラテスの死生観-1

2023-02-20 12:15:42 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎パイドン

(2012-11-22)

 

ソクラテスが毒杯をあおって身体が次第に冷えていく状況を自ら実況中継したシーンのあるのが、パイドン。

 

パイドンにある彼の臨終観は、このようなものだ。

まず、悪人が死ねば、悪人が積んできた悪徳もご破算になると思っているが、魂は不死にして不滅であるがゆえに積んできた悪徳の報いから死後も逃れることはできない、と戒める。

 

人が死ぬとダイモーン(神霊)がその人を待っている。そのダイモーンは彼が存命中に彼を見守ってきたダイモーンだ。

このダイモーンが彼を案内して中有に連れて行く。

中有で裁きの庭に立つ。

 

裁かれた後、ダイモーンと一緒にハデス=死者の国に旅立つ。

死者の国でしかるべき期間過ごした後、ふたたび別のダイモーンに連れられてこの世に転生してくる。

こうした輪廻転生を何度も繰り返す。

 

このような死生観は、チベット密教をはじめとする仏教のそれと同じで、おなじみのものである。

 

パイドンでは、死後の世界では、至る所で分かれ道が多数あるので道に迷いやすいから、ダイモーンが道案内をしなければならないと、うがった説明をしているので、ソクラテスは自分でそれを見たことがあるのだろうと思う。

 

只管打坐で行く人は死後の世界がどうこうという話はあまり問題にしないものであるから、ソクラテスはクンダリーニ・ヨーギであったことがうかがえる。

ソクラテスは、こういう死生サイクルを見たのだろう。

 

更にソクラテスは、法華経ばりの「まことの大地」を見た感動の経験をも語っているのだ。(続く)

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ダイモンあるいはデーモン

2023-02-20 07:10:09 | 人と神の「実際のところ」

◎最初は守護霊として後には魔術の根本動因として

 

ダイモン(daimon)は、ソクラテスの死生観を読むと出てくる守護霊のようなもの。ダイモンはローマ時代には、ゲニウス(genius、守護霊)と呼ばれていた。

 

一方デーモン(demon)とは、悟りの直前に登場する悪魔であって、イエスの時も釈迦の時も成道直前に登場している。

ダイモンとデーモンは、そもそも別物だが、自由な石屋さんなどで現実を操作する魔的なパワーの根源をダイモンと呼ぶようになったようだ。それは以下の文でわかる。

 

『ギリシア語のダイモンは、本来は神あるいは神的存在を意味する言葉であったが、やがて神(テオス)の意味領域が確立するとともに、一般には神より下位にあり、現象世界より上位にあって現象世界を動かす根源的な力、原動力を意味するようになる。

 

人間と神々の中間に位置づけられたダイモンは、ギリシア時代における密儀・魔術・医術・予言などの基本原理と理解されていた。ゲニウスは、このダイモンを継承するラテン語であり、近代ヨーロッパにおいて、万象に内在する神的な力を意味する言葉として復活するのである。

鷲の飛ぶ姿を見る時に、われわれは天才を見るのでも、守護精霊や詩魂を見るのでもない。われわれは、鷲の飛ぶ姿に顕現している神的な力を見るのである。』

(フリーメーソンと錬金術/吉村正和/人文書院P177から引用)

 

密教とは、現実を操作できる魔的、神秘的なパワーを人間のよかれと思う方向に用いるもの。カトリックでは、聖霊を非常に広い意味で用いているが、その影のような位置にあるものとして薔薇十字以降の人々はダイモンを見たのだろうと思う。

 

守護霊の位置づけについては、出口王仁三郎その役割について厳密な定義づけを行っている。『人の精霊には、別途2種の精霊が同伴しており、一体は、天国と交流している善玉精霊(正守護神)であり、もう一体は、地獄と交流している悪玉精霊(副守護神)である。』というのがそれ。

 

なお我々の天賦の霊のことを本守護神と呼び、

正守護神、副守護神と同じレベルで並べているのは意味のあることとして考えてみるべきだろう。

 

また正守護神の人間へのエスコートぶりは、ソクラテスのダイモンと同様であると思うが、チベット密教では、正守護神、ダイモンに言及がないのはなぜなのだろうか。

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