アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-3

2023-02-11 20:04:46 | 究極というものの可能性neo

◎第二夜について
(2006-08-25)

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。
知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

1.理性の暗夜
十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

2.記憶の暗夜
神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』
(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

3.意志の暗夜
  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。
「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。

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暗夜から光へ-2

2023-02-11 19:58:19 | 究極というものの可能性neo

◎第一夜について

(2006-08-24)

 

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

 

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

 

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガにはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

 

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。

まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。

その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

 

第一夜に該当する詩句

 

『暗き夜に

炎と燃える、愛の心のたえがたく

おお幸いなその時よ

気づかるることもなく出づ、

すでに、我が家は静まりたれば』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-8

2023-02-11 06:46:39 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の神学的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の神学的表現】

 

宇宙意識は限りない愛であり、自由それ自体である。愛と自由とかいう言葉を抽象的観念的なものと誤解しないでほしい。愛は絶対の実在それ自身であり、自由は、実在のあらゆる具象化している姿に他ならない。

 

そして、本当に冥想された絶対愛は、その中に、あらゆるものについての一切智を内包している。また、絶対自由は、それが具体化する時、ただちに無限のエネルギー、力を実感せしめる。それらは、あくまで全身全霊なる実感そのものなのである。

 

 愛・自由

愛・智恵・力・自由

 

つぎに宇宙的愛の内容をさらに情的に確認すれば、絶対なる愛の中には、安心があり 歓喜がある。言語を絶する静かな安心と限りない歓びなのだ。

愛・安心・歓喜・智恵・力・自由

 

君が愛や自由に合一した時、君は、生まれて始めて、とめどもなく清らかな涙、ぶち抜けた解放的な笑い、言いようのない悲しさと喜び、深い深い静寂、本当に生きているんだという実感を疑いようもなく体験することだろう。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識とは、ニルヴァーナのこと。西洋の翻訳もので、宇宙意識をニルヴァーナという意味で使っているケースはあるが、一般には顕在意識、潜在意識、集合的無意識などあって、その先の宇宙意識のことかと想像されがちなところはあるのではないだろうか。

 

ここで、ダンテス・ダイジは、7チャクラの関係性を説く。

 

愛・自由

愛・智恵・力・自由

愛(アナハタ)・安心・歓喜・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

 

さて、安心・歓喜はチャクラに配当されていない。

この冥想道手帳の後の部分にメンタル体の各チャクラの配当を論じているところがある。それが、曰く、メンタル体チャクラにおいては、その一つ一つが神界の現れ。また愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)は、完全なる神の四つの現れ云々。

 

さらにダンテス・ダイジは、六神通力のチャクラをも次のように論じている。

漏尽通:サハスラーラ

宿命通:アジナー

天眼通:ヴィシュダ

他心通:アナハタ

天耳通:マニピュラ

神作通:スワジスターナ

六神通力は、超能力だが、人間のパワーの作用し得るカテゴリー区分としては傾聴に値する。そしてこれを見ると、力(ムラダーラ)が含まれていない。六神通力を見るといつも思うのだが、漏尽通は煩悩が尽きて生まれ変わることがないステータスなのだから、どう見ても超能力ではない。その辺が力(ムラダーラ)が含まれていない理由であって、気がつく人は気がつくのだろう。

またそれは、クンダリーニのエネルギーコードの謎にも連動してくる。

 

また、ここで愛(アナハタ)・智恵(アジナー)・力(ムラダーラ)・自由(スワジスターナ)

は、悟り直結の上方3チャクラでもない。これは彼がこれを書いた当時、必ずしも冥想修行者は悟り(ニルヴァーナ)を目指すべきであるという方針ではなかったためかもしれない。

 

というのは、ダンテス・ダイジは説法の初期には、ライフスタイルの悟り、すなわちその人が最も自分らしい生き方を生きることを『ライフスタイルの悟り』と称して認めていたが、ある時期から人類滅亡の危機をより深刻に感じたせいか、これを認めず、ニルヴァーナのみを標榜すべきだというより厳しい方針に転換したという経緯がある。

 

また、最初に愛・自由を置いているが、行法としては、念仏などのマントラ禅(マントラ・ヨーガ)が愛狙いで、臨済禅(公案、定力など)が自由狙いであったということもある。

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