アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-8

2023-02-15 18:28:59 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-5

(2006-09-04)

 

その後、バーナデット・ロバーツは、四人の子供の母親としての日常生活を継続することができなくなって、シエラ山の森林で雪が降るまでの5か月間キャンプをすることになった。家の中での雑事や雑音にはとても耐えられないし、絶えず起こる混乱に対処するための力が失われていたので、四人の子供の母としての役割を果たすことはできなくなっていた。

 

あらゆることを管理する自己がないので、肉体の条件反射だけで対処せざるを得ないが、それでは参ってしまうと感じ、長い間静寂を乱されずに自然に接することが必要だと考えたのである。

 

山の中での生活では、

『一言でいえば、今までただの一日もほんとうに生きたことはなかったと思ったほどでした。確かに私は「大いなる流れ」の中にいて、それと一つになっていました。そういう時によく言われるような、エクスタシーとか愛とか歓喜というような言葉が無意味になるほど、単純明瞭に一つになっていたのです。

 

森の生活には投げやりや怠慢の入る余地はなく、そこではすべてが鋭敏に感知され、はつらつとしています。しかし自由な生活というようなものではなく、「大いなる流れ」に引き込まれてすべてが流れて行き、少しでも流れの外に出て休んだりするひまはありません。つまり余計なものはただの一つもないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P29から引用)

 

大徳寺の大燈国師が悟りを開いた後に、京都の鴨川の川原で何年も乞食をしていたが、これは、聖胎長養とよばれ、漠然と悟りという神秘体験を日常化・定着化するものだと理解していたが、この心境の流れを見ると、ものの見方が100%逆転してしまっているので、聖胎長養というものをしないと、とてもではないが、日常生活に適応していくことはできないので、そのための訓練という側面があるように感じる。勿論これは人間社会の側からの見方ではある。

 

また山に入って自然そのものの生活リズムに入り込むことが、逆転したものの見方をノーマルな形で調節していく機能があることがわかる。ここに修験道という、山での修行を本旨とした修行の存在意義、必要性というものが現れてくるように思う。バーナデット・ロバーツに限らず、神の側に取り込まれ始めた人が、山や野での生活に本能的に入って行くのは、このような背景を抱えてのことではないかと推察することができる。

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暗夜から光へ-7

2023-02-15 18:20:04 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-4

(2006-09-03)

 

『この10日ばかり後にビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後遅く、海を見下ろす丘に立っていた時、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んできました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。

 

しかし区別がないというだけではない何か、本当に美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院の後ろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体をとおって、「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。

 

そこで私は、ああ神はどこにもいるというのは、このことなのだと思ったのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P26から引用)

 

カモメと私の区別のない体験は、荘周胡蝶の夢と同じである。荘周胡蝶の夢とは、荘周が夢の中で胡蝶と化して楽しく飛び回り、自分は胡蝶なのか荘周自身なのか、区別できなくなったという故事。自己というものがなくなりつつある過程の中で、神が自己の側に到来・浸透しつつある段階において、この状態が、起きていることに注目したい。荘周は、老荘の荘子のこと。

 

また自他の区別がない見方において、はじめて「神がどこにでもいる」ということを実証、納得するものだということがわかる。「神がどこにでもいる」は、ちょっと爽快で高揚した、しみじみとした気分の時には感ずることがあるものだが、ホンチャンの「神がどこにでもいる」実感は、このレベルで初めて出てくるものなのだろう。

 

そして、すべてのものが、本当に美しく未知で、初めて見る見知らぬものであるという印象。これぞ、自他と区別のない「見方」で特有の印象なのだと思う。この辺がバーナデット・ロバーツの体験が正統的なものであるという証左だと感じる。

 

蛇足だが、龍も天使も出て来ていないことにお気づきと思います。

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暗夜から光へ-6

2023-02-15 17:45:45 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-3

(2006-09-02)

 

彼女には四人の十代の子供がいた。

 

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求め、枝をつかんだり、土を手ですくったりして、自分の中には何もなくとも、あたりに生命があふれているので、これで良いのだと思った。

 

当時家の中にいると、あまりにも機械的で、索漠として耐えがたく、自分の力がないので、最小限の日常の仕事をするのがやっとの状態だった。そこで一週間丘や川岸や浜辺を歩き回り、戸外にあふれる生命を感じ、忘却と平安の中にいるようにした。

 

けれども、彼女の中に生命がないのと同様に、個々の松の木や野の花にも生命がないけれども、あたりは生命に満ちているという、つまり周囲の自然のどこかに生命があるだろうという予期の中にあった。

 

そして、絶壁の上にある糸杉の根の間で坐っていた時にバーナデット・ロバーツは、自然の秘密を見た。

 

『個々のものの中に神あるいは生命があるのではなく、逆にすべてが神の中にあるのです。それも海中の一滴というようにそこだけ取り出せるというものではなく、うまくいえませんがたとえばゴム風船の一点のように、そこだけを切り離せば破裂して全部なくなってしまうというようなものです。

 

何ものも神から切り離すことはできないので、別々であるという考え方を捨てさえすれば、神であり、生命でもある全体の中にすべてが戻っているのです。(中略)

 

以上の洞察で新しい扉が開け、私は物事を別の見方で見るようになり、生命を捜し回るのを止めました。生命は明らかにどこにもあり、実はそれしかないのです。(中略)

 

自己を捨てたのは、私でなく神でした。そして自己を超えてしまえば何もかも、私が残ると思っていた「それ」さえもなくなってしまうのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用P24-25)

 

バーナデット・ロバーツは、最初に内に生命を求め、次に外に生命を捜すというあてのない試行錯誤に苦しんだ。その結果、すべてが神の中にあると知った。

 

ここで特徴的なことをいくつかあげると、彼女には特定のグル・師匠がいなかったこと。キリスト者でありながら、そのシンボルである「神の栄光の中にあるイエス」なんかを見なかったこと。この点で、毎日観想に明け暮れていたイグナティウス・ロヨラがキリストの人間性を内的な眼で見たりしたのとは相当に異なっている。彼女は観想はあまりせず、生活者だったからだと思う。日常生活を普通に営みながら神を求めていく人の、神に行き着く形の一つの典型はこのようなものなのだと思う。

 

自己を捨てたのは、私でなく神と述べているので、これは第三夜の特徴。

 

そして彼女は、知性は普通の常識的な考え方から出てくるものなので、本当の洞察を汚すような動きをするから、本当の洞察を知性で操作、評価しないことが大切と指摘する。

 

彼女の境地は更にこの後深まりを見せる。

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錬金術師マリア・プロフェティサの公理

2023-02-15 07:03:11 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎第四のものとして全一なるものの生じ来る

 

マリア・プロフェティサは、3世紀アレクサンドリアの錬金術師。『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』という錬金術1700年の歴史を貫く公理を呈示した女性。

 

この公理について見事に説明し得た文が以下にある。

『さらに、ユングが述べるのは、三位一体が男性的な数、三の象徴に基づいているのに対して、錬金術は神が四一性の(quaternarian) 観点 (四は女性的な数)に傾いているという事実です。続けて、次のような結論を述べます。

 

それゆえ、三位一体は決定的に男性的な神性であり、キリストの両性具有(アンドロギュノス)、そして、神の母に授けられた特別の地位と尊崇はその男性的神性に十分対等のものではない。

 

〔キリストやマリアの位置づけは〕いわば、女性的な側面へのわずかな譲歩であって、真実、同等のものとはなっていないということです。

 

このような断言を読者は奇妙に思うかもしれないが、これによって、錬金術の中心をなす公理の 一つに到達するのである。つまり、マリア・プロフェティサの命題にである。「一が二となり、二が三となる、第三のものから第四のものとして一なるものが生じる。」

本書は、書名からわかるように錬金術の心理学的意義が問題となっている。・・・・・・ごく最近まで、錬金術に学問的関心がもたれたのは、化学の歴史で果たした役割に対してでしかなかった。・・・・・・歴史上の化学の発展に対する、錬金術の意義は明白である。それにひきかえ、精神史上の意義は依然としてあまりにも知られておらず、その意義がどこに存するかをわずかな言葉で述べるのはほとんど不可能と思われる。

そのこともあって、この序文で、宗教的、心理学的問題の概説を試みたのである。······ポ イントは、錬金術が表層で支配的であったキリスト教に対する低層流のようなものを形成している、ということである。錬金術のこの表層との関係は夢の意識との関係に相当する。ちょうど、夢が意識の葛藤を補償するように、錬金術はキリスト教の対立物の緊張によって開かれたままになっている亀裂を埋めようと努める。

おそらく、この事態を表現するもっとも意味深長なものは、先に引用したマリア・プロフェティサの公理である。・・・・・・このアフォリズムにおいては、キリスト教教義の奇数のあいだに偶数がはさみこまれている。偶数は女性的なるもの(女性原理)、大地、地下的なるもの(地下領域)、〔それどころか〕悪そのものをも意味している。これらは「メルクリウスの蛇(セルペンス・メルクリー)」、つまり、自らを創造し、破壊する、「第一質料―プリママーテリア」をも表す龍として、人格化される・・・・・・・。

世界史上で、意識が「男性的な」側へと移行したことが補償されるのは、〔なによりも〕 無意識の地下的、女性的なるものによってである。キリスト教以前の諸宗教のなかには、すでに男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教が存在する。』

(ユング思想と錬金術/M-L.フォン・フランツ/人文書院P47-49から引用)

(文中の引用部分は、ユングの心理学と錬金術ⅠのP40付近)

 

一は、主なる神。これがマーヤ、無明、現象に分化して二。父なる神と聖霊とイエス(男性なる人間)が出現して三。これで家父長的な三位一体は成る。

 

ここでマリア・プロフェティサは、キリストが脇腹から女を引き出して山頂で交わった幻視を得た(出典:錬金術の世界/ヨハンネス・ファブリキウス/青土社P343)というが、これが四。

 

M-L.フォン・フランツは、男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教の例としてエジプトを挙げる。

 

我が日本神話では、天の安の河原での誓約で天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になって両性具有たる伊都能売神となったのが、三位一体の外での四位一体の完成。これでも女性原理の復活はまだ不足だったのか、さらに山幸彦である火遠理命が地より更に下の竜宮にまで落ちて後、地に復帰して世界統一をするのが太母の体験を経て、四位一体を更に完成する姿にも見える。

 

似たようなモチーフが二重三重に繰り返されることがあって、はぐらかされがちだが、それでも真理を見ようとする目があれば、わかる場合があるのではないか。

 

なおユングは、キリスト教の四位一体を次のように示している。

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア

(出典:結合の神秘Ⅰ/ユング/人文書院 P237)

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