◎一宗一派の中に冥想がある時代は終わった
冥想道手帳の続き
『【理解】
〔猫も杓子も冥想道〕
冥想が特別な何かである時代は終った。冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。
猫もシャクシも冥想を生きている。僕も君も冥想を生きている現在なのだから。
一宗一派の中に冥想がある時代は終わった。冥想の中にあらゆる流派があるのだ。
だから冥想道である。茶道、華道、武道、
香道などと同様に冥想道があるわけだ。
やがては、学校教育の中にも、体育の授業があるように冥想道の授業が行なわれることになろう。
宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。冥想道は、神なる人間のあるがままの営為である。
ある日、イエス・キリストが救世主の再臨なる使命をになって君達の前に現れる。
それまで馬鹿騒ぎをしていた君は、まったく無雑作にこのキリストに向って言うだろう。
「イエス君、そう深刻そうなかたいことを言うなよ。この世に救世主でないものなんか何一つないんだよ。」
それで、イエス・キリストは、君達の馬鹿騒ぎに加わって、ソーマ酒に舌づつみをうつことだろう。至福千年の一つの姿は、こんなものである。
釈迦という大嘘つきが世に出て来ては
世の人々を惑わするかな』
(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)
就職して間もない頃の自分にとって、冥想は大切なものだという感覚はほのかにあったが、『冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。』と大上段に振りかぶられてそれを受け止めることができるほど、自分と世界の冥想を取り巻く歴史や経緯と生き方のことを承知していたわけではなく、冥想即人間に取り組めるほどの心理的な余裕も時間的な余裕もなかった。
これが、悟り即人間でなく、冥想即人間と言っているところが意味深長。
『猫もシャクシも冥想を生きている。』とは、来るべき至福千年においてのことだが、先行する現代において、自分も悟りを開けば、それを実感できるということが言外に隠されている。自分も悟れば、現代においても『猫もシャクシも冥想を生きている。』のだ。
とかく宗教と言えば、やや狂気をまとった聖者がリードする宗教団体に加入して信仰活動するイメージを持ちがちだが、冥想道は、そうではない。『宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。』とは、「冥想により悟りを開いて神を生きる人々が生きることがそのまま宗教である」と言っているに過ぎない。
要するに万人が最低でも神を見たり、仏を見たり、本来の自己に出会ったりするという体験とはいえない体験を経ている人々の時代の様を、ここで描いている。未来予言風に書いていないのは、現代において一人でも多く悟りを開いた人を出したいからなのだろう。
最後のイエス・キリストが友人達と馬鹿騒ぎをするくだりは、救世主は事実友人として出現するだろうということ。イエス・キリストが弟子たちの足を洗った故事の伏線をここで回収するのである。
またダンテス・ダイジには、アトランティス末期の言行録の救世主入門という本もあるが、それも連想される。
文末の『釈迦という大嘘つきが世に出て来ては 世の人々を惑わするかな』の歌は、一休宗純の『釈迦といういたずら者が世に出でて おほくの人を迷わするかな』を意識したもの。