アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

友人との出会い、愛人との出会い

2023-02-05 20:22:38 | 現代冥想の到達点neo

◎メディテーション・トラベル・ガイドから

(2019-08-27)

 

未悟者から見れば、覚者の透徹した絶対的な孤独とあらゆるものが未知である現実感は、大きな違いである。そこを見過ごすと、次のダンテス・ダイジの救世主入門の一節は、単なる感想や戯言になってしまう。

 

『友人は君について

君の知人が

千年かかって知るより

はるかに多くのことを

出会いの一刹那で知るだろう

 

君が愛人と出会う時

そこには

どのような意味での

必要も偶然もない

時を忘れた時の中で

君は思い出すだろう

愛人との

いくたびもの戯れのすべてを』

 

 

さらに、次のような謎の一節も置かれている。

『さようならの時に

うろたえてはいけない

別れは

再びめぐり逢う前に

なくてはならないものだから

そして

再会の時は必ずやってくる

君とその友人のために

ある時間を経て

いくつかの人生を巡った後に

必ずやってくるものだ』

 

輪廻転生を語る場合、AさんがA‘さんになるなどという無機質な議論をしがちだが、それはそれ。

 

人は、気の合った愛人や友人にいつでも接して過ごしたいものだ。愛はその流れであり、それも自由の一つの現れである。

 

ほとんど何もしなくて済む人生もあれば、争闘や試練の連続的な繰り返しの人生もあり、幸運な人生だから長命であるとは限らず、不運な人生だから短命であるとも限らない老少不定。そこを問題にしない見方、生き方があることを、救世主入門は時間のない世界からナビゲートしてくれる。

 

耳障りな部分も味わってみよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君達が遭遇する事件はすべて

2023-02-05 20:19:10 | 究極というものの可能性neo

◎君達自らが招き寄せたものである

(2019-02-25)

 

他人のせいにしたりするのは簡単だ。

 

『誰の人生にも起こる様々な出来事は、

すべて自らが招き寄せたものである。

それをどう処理するかは

本人が決めることだ。』

(リチャード・バック/イリュージョン/集英社P134から引用)

 

これが、原典『救世主入門』だと、やや変わっている。

『君達すべての者に告げる

君達が遭遇する事件はすべて

君達自らが招き寄せたものである

その事件の発展の方向を決めるのは

もちろん君達であって

神ではない』

(十三番目の冥想 雨宮第慈(ダンテス・ダイジ)講話録/渡辺郁夫編P112から引用)

 

これだけ読めば、何か切羽詰まった事態に追い込まれている人に対してのアドバイスとしては、やや冷たいかもしれない。

 

だが、第六身体、有、アートマン、この一つながりのものを前提とすれば、今ここしかない今において、このアドバイスを取り出してくるのは、至極当然なのだ。だが、人間の都合には、おかまいなしのところはある。

 

自分自身のアップグレードを要求されているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

このことは憶えておく必要はない

2023-02-05 20:16:48 | 究極というものの可能性neo

◎見知らぬ世界に

(2018-12-02)

 

『このことは憶えておく必要はない

君はいつも見知らぬ世界に

いつも見知らぬ旅人としてある

君たちは常に今から

まったく新しい旅へ出発する』

(ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節)

 

見知らぬ世界の見知らぬ旅人とは、ありふれているとも言えるし、さほど頻繁に出会うものでもないとも言える。

 

酒を食らいすぎて目が覚めたら、自分が「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」であったことを自覚したこともある。

 

山水画では、山岳河川などの大自然に比較して人物はあまりにも小さく、なぜ主人公である人間を「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」のように一目で見えるような描き方をするのか。それは安藤広重の東海道五十三次の人物とは全く異なる構図である。

 

後に精神病者の症状の一つに「見知らぬ世界の見知らぬ旅人」である自覚を発見したこともあった。

 

『このことは憶えておく必要はない』とは、知識として理解しても何の意味もないからだとは、推測ができる。ところが、『このことは憶えておく必要はない』の狙いは、知識として理解しても何の意味もないからだとは推測ができるが、まさか『本当に自分がそうなんだから憶えておく必要はない』という意味であることを知るのは、それが起きて後の事だろうと見当はついている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスが弟子の足を洗う

2023-02-05 06:28:11 | キリスト者の秘蹟neo

◎最後の審判の時代

(2005-10-26)

 

一個人が救世主並みの覚醒を得ることは、最後の晩餐の食事の途中で、イエス・キリストが弟子の足を洗った事蹟に、そのひとつのサインを認められる。

この事蹟は、キリスト教では伝統的にイエスが弟子の足を洗うように自分を低くして、本当の奉仕の気持をもつことというのが、伝統的な解釈である。

 

しかし素直に見てみれば、イエスは、弟子の神性を見たからこそ、足を洗ったのではないだろうか。そして単に神性を認めただけならば、礼拝をするに留まったのではないか。足を洗うというのは、当時は奴隷の仕事であったそうなので、礼拝だけではなく、足を洗うというのは、ひれ伏して自分より高いものであることを認めている心情がうかがえる。

 

聖三位一体の教義では、イエスの高みはこの上なきものであるから、人間としてそれ以上のものはない。イエスが足を洗うとすれば、父なる神に対して洗うことしか論理的にはないのであるから、弟子を父なる神の現れとして洗ったということになろう。

 

当時の十二使徒の実力は全くイエスに及ばなかったにも関わらず、イエスは、「イエスを遣わした父なる神の顕れである彼ら」を見て、足を洗ってみせたと考えられるのである。そしてお互いに足を洗うべきであると述べ、それぞれが神の顕れだから対等であると示唆している。

 

イエスは、この夜「事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」と言っている。既に事が起こりそうな気配があるが、我々はまだ信じていないのである。

 

そしてイエスは、最後の審判の時代が、まるで明日にでも起こるように思って幻視した(現在でも、その様を幻視した人はショックを受けるようだ。)。ところが、最後の審判の時代は現代のことのようだ。ということは、今の時代は、大工の救世主(アヴァターラ)が一人で頑張って、どうにかなる時代ではなく、一人一人が神の顕れであると自覚して覚醒しないと、どうにもならない時代であることと示唆しているように思う。

 

キリスト教は、現代を席巻している近代西欧文明のバックボーンである。20世紀になってニューエイジということが叫ばれているが、それは、水瓶座の時代であることを強く意識した運動である。水瓶座は、多くの個人が続々と覚醒することをイメージしているが、そのイメージは2千年前の最後の晩餐に既に伏線があったと考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分別対立のない真如の世界への共感

2023-02-05 06:22:31 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎イエスが弟子の足を洗う

(2021-12-02)

 

『真如法界

他なく自なし

急に相応せんと要(ほっ)せば

唯だ不二と言うのみ』

(信心銘)

 

大意:分別対立のない真如の世界には、他もなく自分もない。

それをバッチリと一言で言うならば、不二と言うしかない。

 

禅の極みでは、自分は世界全体、宇宙全体となるから、自他の区分は無い。これを世間では、ある種の異常な心理状態だと見るから事を誤る。他人もなく、他の事物もなく、自分もないのが、心理状態でなく、現実そのもの。そうした世界に生きるというのが、悟り。

 

他もなく自分もないと言っているが、続く詩句では、包容されぬものなしとしているので、これは、有(アートマン)の側。

 

聖者を友人にするというのは、そういう現実感に生きることに抵抗など示さず、当たり前に理解し共感してあげるということなのだろうと思う。イエスが弟子の足を洗ってあげた消息はその辺りにある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原典『救世主入門』

2023-02-05 06:19:29 | 現代冥想の到達点neo

◎何ものも救うことはできないし救う必要もない

(2017-01-06)

 

原典『救世主入門』は、ダンテス・ダイジがアトランティス末期に流行させた韻文集であり、「十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編」に所載。

 

アトランティス末期には、救世主という言葉が流行語であり、言うなれば感情人間であったアトランティス人にとって何が問題であったかが、独特の質感をもった言の葉どもにより伝わってくる詩文である。

 

ただその内容の多くは、時間のない世界から出てきているものであるが故に、この知性人である現代人にとっても十分に通用するものである。

 

『何ものも救うことはできないし

救う必要もない

このことを頭によらずに理解したら

君は救世主であり

すべてを救うようにできている』

(十三番目の冥想 雨宮第慈講和録 渡辺郁夫編P103から引用)

 

家族や知り合いや他人が救いを求めるシーンに出くわすことはある。自分が思い切り素直であればよいが、あるいはそういうシーンに対する準備や心構えが平素からできていればよいが、そうでない場合は、ためらったり思い悩むものだ。阪神大震災や東日本大震災直後は皆がそういう思いだったと思う。

 

ところが、人間は人間である限り、本当に救済されることなどありえない。『このことを頭によらずに理解した』らとは、人間を超えることしかない。師匠は弟子を悟らせることはできない。馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲むのは馬しかできない。

 

あまりにも平易すぎる言葉だが、その内容は深遠であり、気やすめを言っているわけではない。

 

ダンテス・ダイジの視野には、常に天国と地獄の結婚が入っているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救世主入門

2023-02-05 06:16:51 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎君がすでに死んでいることを学ぶ

(2020-09-30)

 

救世主入門は、かつてのベストセラーであるリチャード・バックのイリュージョンの中にその断片がいくつか出てくることで知られる。

 

後にダンテス・ダイジは、何期かあったアトランティス時代の末期に、“愛”を忘れた当時のアトランティス人のために出版した本が「救世主入門」であるとする。そしてリチャード・バックは、当時ダンテス・ダイジと会ってさえもいるという。

 

そこでダンテス・ダイジが原典救世主入門を復刻してみせた。その中から気になる数節を。

 

『君の幸福と不幸は

君が死ぬことから来ている

君は間違いなく死ぬ

君の人間としての生涯は

君がすでに死んでいることを

学ぶためにある』

 

『人間というものはどこにもいない

人間というものが

君のイメージの一つにすぎないように

時間の持続としての永遠もまた

永遠の夢にすぎない

永遠とは

場所も

時間もない

君自身のことである』

 

『君が現実から顔をそむけなければ

あらゆる現実が

君の夢であることがわかる』

 

原典救世主入門には、誰にでもすらっと読める部分と、簡単に読み進めない部分があった。若い時は簡単に読み進めない部分は読み飛ばしたが、今ならわかるような気分がする。

永遠も死も救世主も現実も夢も、同じところから来ているからである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-2

2023-02-05 03:19:58 | ダンテス・ダイジの風光

◎一宗一派の中に冥想がある時代は終わった

 

冥想道手帳の続き

『【理解】

 

〔猫も杓子も冥想道〕

冥想が特別な何かである時代は終った。冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。

猫もシャクシも冥想を生きている。僕も君も冥想を生きている現在なのだから。

 

一宗一派の中に冥想がある時代は終わった。冥想の中にあらゆる流派があるのだ。

 

だから冥想道である。茶道、華道、武道、

香道などと同様に冥想道があるわけだ。

 

やがては、学校教育の中にも、体育の授業があるように冥想道の授業が行なわれることになろう。

 

宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。冥想道は、神なる人間のあるがままの営為である。

 

ある日、イエス・キリストが救世主の再臨なる使命をになって君達の前に現れる。

それまで馬鹿騒ぎをしていた君は、まったく無雑作にこのキリストに向って言うだろう。

「イエス君、そう深刻そうなかたいことを言うなよ。この世に救世主でないものなんか何一つないんだよ。」

 

それで、イエス・キリストは、君達の馬鹿騒ぎに加わって、ソーマ酒に舌づつみをうつことだろう。至福千年の一つの姿は、こんなものである。

 

釈迦という大嘘つきが世に出て来ては

世の人々を惑わするかな』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

就職して間もない頃の自分にとって、冥想は大切なものだという感覚はほのかにあったが、『冥想即人間こそあたりまえの人間の姿だ。』と大上段に振りかぶられてそれを受け止めることができるほど、自分と世界の冥想を取り巻く歴史や経緯と生き方のことを承知していたわけではなく、冥想即人間に取り組めるほどの心理的な余裕も時間的な余裕もなかった。

 

これが、悟り即人間でなく、冥想即人間と言っているところが意味深長。

 

『猫もシャクシも冥想を生きている。』とは、来るべき至福千年においてのことだが、先行する現代において、自分も悟りを開けば、それを実感できるということが言外に隠されている。自分も悟れば、現代においても『猫もシャクシも冥想を生きている。』のだ。

 

とかく宗教と言えば、やや狂気をまとった聖者がリードする宗教団体に加入して信仰活動するイメージを持ちがちだが、冥想道は、そうではない。『宗派や教義やカリスマによる時代は終った。冥想道は、宗教でも信仰でもドクトリンやイデオロギーでもない。』とは、「冥想により悟りを開いて神を生きる人々が生きることがそのまま宗教である」と言っているに過ぎない。

 

要するに万人が最低でも神を見たり、仏を見たり、本来の自己に出会ったりするという体験とはいえない体験を経ている人々の時代の様を、ここで描いている。未来予言風に書いていないのは、現代において一人でも多く悟りを開いた人を出したいからなのだろう。

 

最後のイエス・キリストが友人達と馬鹿騒ぎをするくだりは、救世主は事実友人として出現するだろうということ。イエス・キリストが弟子たちの足を洗った故事の伏線をここで回収するのである。

 

またダンテス・ダイジには、アトランティス末期の言行録の救世主入門という本もあるが、それも連想される。

 

文末の『釈迦という大嘘つきが世に出て来ては 世の人々を惑わするかな』の歌は、一休宗純の『釈迦といういたずら者が世に出でて おほくの人を迷わするかな』を意識したもの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする