アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

沢庵禅師の太阿記-3

2023-02-07 20:05:24 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎天下に比類なき名剣

(2017-09-15)

 

太阿記訓読の続き。

 

『這箇を得んと欲すれば、行住坐臥、語裡黙裡、茶裡飯裡、工夫を怠らず、急に眼を着けて、窮め去り、窮め来たって、直ちに見るべし。

 

月積み年久しくして、自然暗裡に灯を得るが如きに相似たり。

 

無師の智を得、無作の妙用を発す。

正にその時、只、尋常の中を出でず、しかも尋常の外に超出す。

 

これを名付けて太阿という。』

 

これを得ようと思うのならば、一瞬の気のゆるみもなく、目を見張って、しゃべっている時も、黙っている時も、食事の時もお茶の時も、様々に努力を積んでから、出会うことができる。

 

暗夜に道を歩いているところで、パっと燈火を見るのに似ている。この時師匠なき智慧を得、作為でない行動(神意、天意)が起きる。

 

その時、今此処でありながら今此処の外に超出する。これを太阿と名付ける。太阿は天下に比類なき名剣の名。

 

沢庵は、大悟した人そのものが、天意を履んだ行為をすることを太阿なる天下の名剣に例えている。その名剣は、人と天の中間の天の浮橋のようなものではある。

 

ただし『師匠なき智慧を得云々』というくだりは、彼が本当に大悟したかどうか怪しいと思わせる部分である。

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沢庵禅師の太阿記-2

2023-02-07 18:33:21 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎刀を用いずして人を殺し、刀を用いて人を活かす

(2017-09-01)

 

太阿記訓読の続き。

 

『夫れ通達の人は、刀を用いずして人を殺し、刀を用いて人を活かす。殺すを要さば即ち殺し、活かすを要さば即ち活かす。殺々三昧、活々三昧也。

 

是非を見ずして能く是非を見、分別を作さずして能く分別を作す。

水を踏むこと地の如く、地を踏むこと水の如し。

若しこの自由を得れば、尽(じん)大地の人、他を如何ともせず、悉く同侶を絶す』

 

通達の人は兵法の達人のこと。刀を用いずして人を殺し、刀を用いて人を活かすとは、天意のままに生きることではあるが、個人のさかしらな欲望が残っていては、殺々三昧、活々三昧にはならない。

 

その点を説明しないで、『是非を見ずして能く是非を見る自由』と唱えるのはわかりにくいが、すでに自分はないという鏡の境地にあって言えるのだろうと思う。

 

ここにアダムカドモンなる、完全無欠の原人間(尽(じん)大地の人)が誕生した。天上天下唯我独尊となる。

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沢庵禅師の太阿記-1

2023-02-07 18:30:18 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎活人剣

(2017-08-29)

 

太阿とは、活人剣のことである。悟りを以って世を渡るということであって、銃刀法に登録した名刀を持って時々振り回すことではない。

 

沢庵禅師の太阿記の本文。

『蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、一歩を出でず、一歩を退かず。

 

敵、我を見ず、我、敵を見ず。

天地未分、陰陽到らざる処に徹して、直ちに功を得べし』

 

天地未分、陰陽到らざる処とは、第六身体、アートマン、密教でいう空のことであり、過去現在未来すべて一つながりのもののことである。ここに立って初めて、我と敵は一身同体であるから、敵も、我を見ないし、我も敵を見ない。

 

これは、ノンデュアリティの理屈であるが、理屈であるうちは何も起こらない。

 

そこで、人は自我の死を通過し復活しないと、そこのところはわからない。ノンデュアリティは理屈の理解でなく、体験とは言えない体験を通らないと本物にはならない。

 

太阿記では、禅冥想(Zen Meditation)という行が前提となっている。坐ってなんぼ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-4

2023-02-07 03:51:12 | ダンテス・ダイジの風光

◎あらゆるものと一体である現象人間

 

冥想道手帳〔知的理解の冥想〕の続き

『[現象界]

 

生老病死苦・愛憎・快苦の人間自我が編み出した妄想世界である。顕在意識と潜在意識に相当する。

 

迷える君は、この仮象なる世界を唯一の現実と見て、時に、権力欲に酔い痴れ、時に、疲れ果てて不安におののく。

 

この宇宙では、いつも君は一人ぽっちだ。 君は、一人ぽっちの空虚さから逃げるために有意義な活動と称するようなことをしようとがんばり、そしてまた空虚さにある自分に気づく。

 

冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。

 

君は一人ぽっちであると同時に、あらゆるものと一体である現象人間を生き始める。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

三つある宇宙とは、現象界、霊界、神界。それぞれの説明は、それぞれ独立した世界において悟りがあり得ることを示している。

 

現象界とは、生老病死苦・愛憎・快苦に翻弄される常識的な心理にある人間の生きる世界。

 

自分の願望、社会における自己実現を最優先に考えがちな自分は、うまく行っている時は、金や異性や権力の甘みに溺れ、うまくいかない時は、無駄なあがきを繰り返し疲れ果てて不安におののく。現象界を世界の唯一のものと考えれば、必ずそう思うものだ。

 

現象世界は、少々の天国的なものとほとんどの地獄的なものであると思い込んだ我々に、ここで、突然『冥想体験は、君に現象世界の夢幻性を自覚させ、現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 へと変容せしめる。』などとハッピーエンドを語る。

 

この冥想体験とは悟りであって、未悟の者の冥想修行で起きるいろいろな状況のことではない。

ただし一般に、禅では、

(a)現象世界の夢幻性の自覚と

(b)現象を越えたあたりまえの自分自身から、現象界を最高に素適な修行場兼戯れの場 への変容

が一度に起きるが、密教などクンダリーニ・ヨーガ系では、(a)(b)が徐々に起こるという違いがある。

 

『修行場兼戯れの場』という表現は、既に神が神を神しているという状況だが、そこに『修行場兼戯れの場』と言える見方もありえるということだろう。

 

ここで、大悟覚醒は成ったが、『君は一人ぽっちである』と透徹した孤独感があることを示し(世界が自分だから、世界には一人しかいないからか?)、『あらゆるものと一体である現象人間を生き始める』

と、世界が自分であるという逆転を語る。ここで現象人間の悟りに至る道筋を説いている。

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