アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

金も物も要らない自由

2023-02-10 06:10:38 | 冥想の準備neo

◎多様な世界の知覚の仕方

(2007-03-09)

 

出口王仁三郎の霊界物語が大正時代のアヴァンギャルドな世界認識だった。昭和のアヴァンギャルドな世界認識は、カルロス・カスタネダのドン・ファンのシリーズだった。

 

ドン・ファンのシリーズは、ヤキ・インディアンのソーマ・ヨーガのマスターであるドン・ファンに弟子入りしたカルロス・カスタネダが、アストラルな世界を冒険する話である。

 

ドン・ファンの世界では、神はイーグルと呼ばれる。人は、「今まで慣れ親しんだ時間の流れ、空間の配置、多用な物質という世界の見方が根拠のないものである」と信頼できる師匠から繰り返し説得されても、その事実をなかなか頭が受け入れてくれるものではない。カスタネダも何年も起こった出来事を頭の中で理解できないでいた。

 

この世界は物質でできていることは、まごうかたなき事実であるが、この世界があらゆるものに変換可能なアストラルなエネルギーからできているということも、彼らにとっては厳然たる事実なのである。

 

我々は現代科学を中心とする物質的世界観が絶対なものであると教え込まされているが、そういう見方は肉体的五感を基礎とするもので、人間のスピリチュアルな知覚が誰にでも認識されるようになれば、エーテル体的な世界の見方や、アストラル体的な世界な見方というものもあり、また神的な見方もあり、現代人の世界認識は、いくつもある世界の見方の一つに過ぎないということがわかる。

 

そうした見方が過去何千年か失われていく方向にあったのだが、それはどう見ても自我の極大化と自我の固さを増強するためのプロセスであったように思う。

 

自我の極大化と自我の固さは、その意志と欲望を極大化する効果をもたらす。人間の社会性という観点で言えば、王と不特定多数の小羊の如き民という構成の社会から、一人一人が市民としての自覚を持ち、一朝ことあれば、誰でも自分が王にとって変わるのも悪くはないという程度に肥大化した自我を持つようになっている。

 

この結果、家庭や社会のあらゆる局面で、人と人との関係はちょっとしたことでぶつかりあうことが多い尖鋭なものとなっている。

 

このように肉体的五感を基礎とした社会観での人間達の欲望の相互調整は、もう限界にきているのであるから、もう一歩進んでその社会観を根底から叩き直そうとする一つのインスピレーションが、このドンファン・シリーズなのである。

 

肉体的五感を基礎とした社会観とは、マニピュラ・チャクラ的世界観であり、その世界観以外に他の世界観があってそれを相対化する新たな世界観とは、アナハタ・チャクラ(ハートのチャクラ)的世界観と呼ぶべきものである。

 

だからと言って、さあスピリチュアルな知覚を求めようという、技術と実践を偏重するのは、これまた落とし穴に落ちる。

 

現代の求道者が本質的に求めているのは、物質でもなく、社会的価値観からみた利益でもなく、それから離れた自由そのものを求めていることをまず自覚することが、多様な世界の知覚の仕方に取り組む基本的な姿勢になると思う。

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普明の十牛図

2023-02-10 05:56:40 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎絶対無に軸足

(2013-05-20)

 

十牛図には、有名なのが2種類あって、皆が存じているのは、廓庵の十牛図。もう一つは普明禅師の十牛図。

 

普明禅師の十牛図の特徴は、最後の第十図が一円相で終わっていること。廓庵の十牛図では一円相は、第八図であり、その後に現実世界に戻って生きる図が2図追加されている。

 

光明を得れば(悟りを開けば)、それに出会っただけで人間としてはほとんど問題がなくなるので、それだけで生命を終わってしまう者が少なくないという。つまり一円相を最終ステージとする求道者の人生が普明の十牛図と言える。

 

光明を得た後でも、人は食うために、あるいは日々の営みをするために日常生活をしなければならない。光明を得るというのは、体験ではなく、体験とは言えない体験であり、それを境に別の人生が展開する。

 

つまり光明を得た後に生き残るというのは、普明禅師の想定しない世界なのだ。しかし、達磨、臨済、趙州など、いくらでも大悟の後に何年も存命した祖師はいる。つまり廓庵の十牛図は人間の方に軸足がある十牛図だと言える。

 

その点で普明の十牛図というのは、絶対無に一致した時点で目的達成なので、神の方、絶対無の方に軸足を置いた十牛図だと言える。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-7

2023-02-10 03:09:22 | ダンテス・ダイジの風光

◎もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない

 

冥想道手帳の続き

 

『【冥想意識の人間的表現】

 

もとより冥想意識は、二元対立の中にしかあり得ぬ人間的意識の概念によってとらえることはできない。だが、超人間界を人間的世界の相似対応の立場に立てば、それはまた人間的な言語によって形容し表現し得るものでもある。

 

これらの超人間的世界の人間的な表現は、 冥想修行者の修行過程を確認、反省、チェックすることにも役立つだろう。そして、冥想修行者の自己チェックに役立つのは、冥想意識の哲学的あるいは存在論的な言語表現であるよりは、形容詞や感情的な言語表現によるもののほうが、よりストレートなものになりやすいであろう。

 

詩は哲学よりも観念的ではないのである。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

冥想意識とは、ニルヴァーナのこと。ニルヴァーナは、もともと言葉では表現できないので、絶対無や大日如来や道(タオ)やノンデュアリティなどの哲学的あるいは存在論的な言語表現では、わかりにくい。

 

よって、ダンテス・ダイジ自身も、エクスタシー、あたり前な生命の暖かさ、底知れぬ生命の絶望と悲しみ、すべてのすべてなど、形容詞や感情的な言語表現をとることもある。

 

超人間的世界の人間的な表現というのは、七つのチャクラに象徴される愛、知慧、力、自由などの究極の属性のこととして捉えることもできるし、人間がその社会的通念で共通に組み上げた言語体系の全くの埒外での表現となることもある。そうした一例は、ヤキ・インディアンのイーグルとか、トナールとかナワールという用語に見ることができる。

 

こうしたものを、月を指す指は月そのものではないと軽んじる向きもあるが、その指がいつか月そのものになっていることもあるだろう。

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