アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ひらがなの意味

2023-03-24 06:25:20 | 古神道の手振りneo

◎世界創造の道具

(2009-03-16)

 

世の中には姓名判断のようなものがあるが、その原理には、画数の数字の部分と音の部分があり、仮名48音のそれぞれの意味がある。その説明がどこに由来するものか不思議に思っていたが、これは出口王仁三郎が太鼓判を押しているものなので、信用できるものと思う。

 

霊界物語では、いろは歌は空海の創作ではなく、霊界最奥の太元顕津男の神の言霊から出てきた神歌とする。48音は、世界創造の具材であるが、罪けがれのある世界のものだから、クンダリーニ・ヨーガの世界観のものであることがわかる。

 

ネガティブな意味を充てている字は少ない。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也とは、ニルヴァーナの謂いだろうか。いずれにしても世界に鳴り鳴りて響きわたる父音、母音を聞くような集合的無意識にあって聞こえる言霊のことだろう。

 

たとえば太郎の「たろう」なら、

【た】は円満具足の意也。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

となり、大体がポジティブな意味が配当されているが、自分の名前で見てみるとそれなりに思い当たることがあるもの。

 

【い】は水と火の並びたる象徴也、右は水、左は火。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、宇宙に開く言霊を、【は】といふ。

言霊宇宙に開きて前後左右に活用く象は、【に】也。

此の活動によりて一つのヽ現はる、即ち、【ほ】の言霊也。

【ほ】は次第に高く昇り膨れ拡がる態を、【へ】といふ。

【と】の言霊は水火の完成したる言霊也。

水火完成して宇宙に滋味を生ず、之を【ち】といふ。【ち】は子を育つる母乳の意也。又万物発生の経綸場たる大地の意也。

 

【り】の言霊は女男二神水火を合せて並び立たせる言霊也。

【ぬ】の言霊は互に和らぎ寝み温かき心を以て神業に尽す水火の象也。

【る】は夫婦の道又は天界の総ての定まりし言霊也。

【を】は心也。

 

【わ】は和らぎ睦み御子を生み給ふ態を言ふ也。

【か】は抱へ合ひ、輝き合ふ意にして、俗言に嬶といふも此の言霊の意也。

【よ】は夫婦二神世帯を持てる象也。

【た】は円満具足の意也。

【れ】は夫唱婦随の意也。

【そ】は上下四方揃ふ意也。左右の指の五本と五本と合せて拍手せし態也。

 

【つ】は永久に続く意にして世人のいふ玉椿の八千代までといふも同じ。

【ね】は懇にして夫婦同衾の意也。

【な】は二人並ばし寝給ふ象也。

【ら】は左旋右旋の意にして婚ぎの時の態をいふ。

【む】は蒸し蒸して生し蒸生し息子娘を生むの意也。

 

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也。

【の】は一物より迸る水気の意也。

【お】は穏かに修まりし心。

【く】は夫婦組合ひたる象。

【や】は弥益々の意。

【ま】は誠の心を以ちて幾万年も夫婦の道を守らむとの意也。

 

【け】は身の汚れの意也。

【ふ】は吹払ふ言霊にして男女の汚れを吹き払ふの意也。

【こ】は子にして、

【え】は胞衣也。

【て】は照り輝く意にして、暗夜の神業も終局の時火を照す意味也。

 

【あ】は暗室に点じたる火によりて一切のもの現れる意也。

【さ】は避くる意にして男神は女神の面を見る事を避け、又女神は男神の面を見る事を恥らひ避くる事の意也。

【き】は気の高ぶりて心いそいそする意也。

【ゆ】は豊かの意にして仲の好くなりし言霊。

【め】は木の芽を吹き出す如く御子の種宿り始めたる意。

【み】は弥々胎児となりし言霊也。

【し】はしつくりの意にして、茲に愈夫婦らしく初めて落ち着けるの言霊也。

 

【ゑ】は歓ぎ喜ぶ意にして、御子の生れたるを見て互に笑み栄えるの言霊也。

【ひ】は日子日女の意也。

【も】は催合ふ意にして、一家和合の言霊也。

【せ】は川の瀬の意にして、夫婦の仲に一点の邪曲もなく清らかなる態の言霊也。

【す】はいよいよ澄みきりて親子睦じく世に住む言霊也。』

(霊界物語73巻より引用)

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文字と音

2023-03-24 06:19:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎マントラの前後

 

思考は言葉で行われる。

言葉とは音である。

思考で宗教、哲学、文明が構築されるが、その根底には音がある。

 

音をさらに探れば、奥底に感覚がある。人の言葉には意味があり言語となる。一方、鳥獣の発する声には言語としての意味はないが、感覚としての意味がある。母を呼ぶ、求愛など。

 

アオウエイなど特定の音には特定の感覚が結びついている。これは、出口王仁三郎の75声の一覧表や彼の〇〇言霊解などを読めばおおよそのイメージはつかめる。

 

それら各音の特定の感覚を組み合わせて世界各地でマントラが研究され創出された。

 

アーメン、カミ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、無(禅の無字の公案)、隻手(禅の隻手の公案)等々いくらでもある。

 

マントラによってその効果は異なり、ネガティブな効果のものもあり、その辺は、覚者たちは知っているが公開するということはないことが多い。

 

出口王仁三郎はス字本義を唱え、空海は阿字本義を唱えるが、それは世界の構成原理なのだろうが、あくまで「特定の感覚」であるにとどまる。

 

言葉から、音、そして感覚に進むということは、六根(眼耳鼻舌身意)で言えば、目(視覚)から、耳(聴覚)、そして身に進むのだが、その身は触覚だけではなく、微細身の感覚まで想定している。感覚にとどまっているのでは、すべてを振り捨てて大悟覚醒には進めない。

 

よって、あくまで本来の自己、一円相、神仏を目指すプロセスにおいては、言霊、マントラすら棄てねばならないことになる。

 

新約聖書ヨハネによる福音書には、「初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。」などと書いてあるが、最後は言葉をも棄てないと神には行けない。

 

それを前提に、ダンテス・ダイジは、この粗雑な言葉の飛び交う現代において、マントラの精妙なニュアンスは有効とは見えないというようなことを言っている。だからマントラ禅で用いるマントラは何でもよいということまで言っているが、それは、マントラの精妙なる効果に期待しても悟るのはなかなか大変であって、むしろ最後はマントラをも棄てることで悟りに到達することを意図していたのかもしれないとも思う。

 

言葉を冥想して、その音の意味を感得し、言葉自体の不毛なところを見抜いてこだわらなければ、言葉、音、その奥にある特定の感覚からも自由になることができる。

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