◎音の入って来ない一点
電車に乗ると結構な人が耳にイアホンを刺して音を聞いている。日常生活では、スマホの音でなければ、テレビやタブレットの音を聞いている人が多い。
クンダリーニ・ヨーガでは、音を聞き守るという冥想法がある。放っておけば、あらゆる音がやってきて、自分を貫き、自分を取り囲む。
そうしているうちに、どんな音も入って来ない一点があることに気がつく。この一点をOSHOバグワンは、無音性と云い、これが生の中心だと指摘する。
OSHOバグワンは、あらゆる音が自分に向かって飛んでくるが、その音とともに進めば中心に到達するとする。(ヴィギャンバイラブタントラ4巻沈黙の音P40)
音は、自分から外へ、外から自分へと双方向の方向性を持つ。この音の双方向性によって、人間は社会性を保持している。
そこで悟りの技法として外から内に向かう技法を用いるのは理にかなっている。
どんな音も入って来ない一点に向かうのだ。
音には、外から入ってくる音と、外に向かう自分が発声する音がある。聞き守るという行では、音は外から自分への一方通行であって、その音とともに、音も入って来ない一点に進む冥想法となる。
これとは逆に、できる限り外からの音を遮断して、無音あるいは沈黙にいることで、音のない中心を感じようとする冥想法がある。
沈黙は、自分から外への発声をしないことだが、発声しないことを続けることにより、最終的には、どこから発声の音が出ているかに気づかせる技法と考えられる。
掌や指で耳をふさいでも音は聞こえる。完全に無音になるには、聴覚テスト用の無音室に入ったり、宇宙飛行士のように宇宙空間に出なければならない。無音室に入った直後は、無音に慣れていないので、ちょっと気分がくらくらする。
宇宙飛行士は、無音環境での生活を強いられる上に、予期せぬ生命を脅かす突然のインシデント対応が必要になる苛酷な職業だと思う。
完全に無音になっても、音は聞こえる。呼吸の音、鼓動、胃腸のごぼごぼ。そして無音に切り替わった直後は、直前の音の残響や脳が作り出す音もある。
つまり物理的に無音にできるかどうかが課題なのではなく、沈黙という音声を発しない状態を継続して、他人とのコミュニケーションを断ち、音のない中心を感得できるかどうかが問題となる。
なお、長期間の沈黙には弊害があって、OSHOバグワンは、以下を挙げる。
1.三年以上沈黙すると、再度音の世界に戻れなくなる。
2.三年以上沈黙すると、他人とのコミュニケーションが非常に苦痛となる。
(出所:上掲書p49-50)
インドのメヘル・ババは40年以上沈黙し、その期間中何度も発言しようとしたが、ついに言いたいことを言わずに死んだ。キリスト教の聖女の中には、修道院の中の個室に籠って、半生を沈黙に過ごした話が時々あるものだ。
また冥想修行者が沈黙しているからといって、誰もが高級神霊とコンタクトを行っているわけでもなく、本当に沈黙に打ち込む者たちもいる。