アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

かもめのジョナサン最終章

2023-03-01 18:48:50 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎かもめの事上磨錬

(2014-09-28)

 

30年位前にかもめのジョナサンを読んだ。問題のエンディングは、尻切れとんぼだったが、十分に後の展開を予想し得るものだった。その尻切れぶりは、きちんと描写されたエンド・シーンがあった場合よりも、その後のダイナミズムを生むための十分なエネルギーを与えるものだった。

 

ここにきて、最終章である第四章が追加されたわけだが、かもめたちの飛ぶ世界に新たな地平が発見されたわけではない。カモメのジョナサンは、陽明学流の言い方では、かもめ版事上磨錬物語だった。

 

別世界、別次元は、万人から真に希求されるものではないが、「人間の日常に真に向き合えば、それまでに見えていたものと異なる全く違う世界に生きていることに気がつく」と、老子、道元など只管打坐系の覚者は口を揃える。

 

別世界、別次元というオカルティックなものが最重要ファクターなのではなく、「退屈な日常」という起爆剤にどの程度エネルギーが詰まっているかが、結果のバリエーションを生み出しているようだ。

 

一旦かもめのジョナサンの世界に入ってしまえば退屈な世界などはない。しかし覚醒の瞬間は一瞬であり、悟りとは、その覚醒の瞬間であるという体験至上主義では、二度目三度目の体験を追い求めるばかりとなる。

 

禅僧趙州は「十二時の歌」で素寒貧な生活を描写してみせるが、これこそ体験至上主義でなく、「悟りとは態度だ」を地で行っているのだと思い当った。「悟り」は入り口から覗けば理解することは簡単そうだが、多くのファクターがあり過ぎて、理解するのすら難しい。簡単ではない。

 

悟りとは、態度でも、体験ですらもないが、それでも「悟りとは態度だ」と言わざるを得ないシーンはある。

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ババジとカルマ・ヨーガ

2023-03-01 18:22:06 | 現代冥想の到達点neo

◎カルマだけを通して、世界を変えることができる

(2018-02-08)

 

神仏にアプローチしていく道は、たとえ神人合一したとしても、人である以上は、人としてやらなければならないことが残る。

 

食事や金を得るために働いたり、托鉢をしたり、洗濯をしたり、家事をしたり、などなど。

 

そして日々、善いことをして悪いことはしない。そのルールに則りながら、行うべきことをしていくのがカルマ・ヨーガ。功過格で知られる中国の袁了凡の人生はまさにカルマ・ヨーガそのものだった。ただ、カルマ・ヨーガの効果について、性急すぎるところがあったとは思う。

 

王陽明の事上磨練は、仕事を精密に一生懸命にやるカルマ・ヨーガである。

 

だがババジは、またもう一歩高い目でカルマ・ヨーガを見ている。

 

『「世界は儚いものだ。カルマヨガの道だけに、あなたは安定を見つけるだろう。行為のみが人を神へ導き解放を与える。

 

カルマの法は深遠にして、いかなる言葉も十分にそれを表すことができない。

 

この地球でカルマの止まる日は、それの消滅の日となるだろう。

 

勇敢な者達よ、全員で働き続けなさい!カルマだけを通して、世界を変えることができる。それが唯一の道だ」』

(ババジ伝 ラデシャム/著 森北出版P218から引用)

 

世界を変え得るのは、テロでもなく、政治運動でもなく、陰謀でもなく、核戦力でもなく、マスコミの宣伝・洗脳でもなく、利殖でもなく、権力への意思でもなく、それぞれの人が自分のカルマを果たすことである。

 

地球のカルマは、人類全体のカルマ。

自分が社会でなにがしかの成功を収めようというマニピュラ・チャクラに発する願望は、この1万2千年のカルマ消化を通じて、アナハタ・チャクラの「愛」に結実する。

 

その大きな流れが、地球のカルマであるが、アナハタのゴール・テープを切るためには、神・仏・道に出会うという大きな課題をクリアしなければならない。

 

その道の種類は多いが、通る人は少ない。それを総合的に見て、ババジは、カルマだけを通して世界を変えることができると言ってのけている。

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つまずく石にも神の警告を感得する

2023-03-01 03:08:11 | 人と神の「実際のところ」

◎天を恐れよ、神を畏れよ

 

出口王仁三郎は、悲しみと憎悪の心が地上に地獄を現出させるものであるが、人間が冥想により悔い改めと禊の業を行なわず、邪気がどんどん天地に充満してきた際には、暴風豪雨など自然災害が起こって、結果的に邪気を払うことになるものと述べる。ところが特に日本においては、神国であるがゆえにその自然災害の発生が国難の前ぶれとなるとする。

 

SNSの発達により、前触れとなる事象は毎日毎時あまた起こっていることがわかる。そうすると前触れとなる事象が起こることそのものが問題なのではなく、前触れと感じ取る自分の敬虔さと感性の方がクリティカル・ポイントになるわけだとわかる。

 

防災用品の備蓄も重要かもしれないが、事前に災害を起こさぬようにする方法とは、微力ながら自分は善を行い悪を行わない、自分は正直にして嘘を言わないなどの積善陰徳である。そんなのは論理的ではないとか思う人も多いのかもしれないが、積善陰徳は、カルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガの専売特許ではなく、神仏を知る人たちの基本的な行動原理である。

 

「天を恐れよ、神を畏れよ」というのは、最後の審判で地獄行きになると脅すカルトの定番のセリフではなく、神仏を知る人たちの基本姿勢である。

 

出口王仁三郎は、つまずく石にも神の警告を感得せよと人間本来の気持ちの持ちように立ち返れと次のように述べる。

『また人の心が乱れ、悲しみと憎悪に満ちているとき、すなわち愛悪の精神がみなぎつているときには、その五体から暗赤の色を放射するものである。これはつねに破壊性、殺害性の力を有するものであつて、そのために刺激をうけると、精神的にも物質的にも、生長力を阻害されるものである。人によつてなんとなく衣類器具などを汚し損する人がある。これも右のごとき破壊的色素の一つの働きである。

 

しかしてかかる愛悪の霊的色素がだんだんと天地に充満してくると、その結果、肉体的には病を発生し、精神的には不安懊悩を誘発するにいたるものである。この悪気をはらい清める行事が禊祓である。しかして禊祓にもいろいろあつて、斎戒沐浴もその一種であり、神籬による祓戸、祝詞奏上、鎮魂などすべて禊祓の一方法である。

 

しかしてもし人間が悔い改めと禊の業を修めずして、邪気いよいよ天地に充満しきたるときには、祓戸の神のご発動となつて、暴風豪雨などによつて邪気が清められるのである。神の恩寵もつとも豊かなるわが国において、とくにしかりである。ゆえにわが国においては、古来国難の当来する前においては、ことに自然界の変災が多いのであつて、これは神がとくに日本を愛したまう象徴なのである。

 

余は、最近のわが国における天災地変について議論をすることを避けたい。科学万能主義者や、過去の聖賢の言葉を否定する説に同ずる人々を、一々論難してもしかたがない。だが余は、つまずく石にも神の警告を感得する謙虚敬虔な心を持つ人は幸いである、というものである。

 

天の具象を見、地の変兆を知らされても、神を知らざる者の目は節穴同然、耳は木耳同様、まことに悲しむべき世相である。かかる世相をだれがまねいたのであろうか。余は過去の聖賢とともに「天を恐れよ、神を畏れよ」と、今の世に叫ぶものである。

(専ら天を畏れ其の啓示に心せよ、「人類愛善新聞」 昭和10年8月)』

(出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち 自然といのち 生活と自然のリズム 天を恐れよ、神を畏れよ から引用)

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